第2話
「ねえ、ちょっと聞いてる?アオ、ねえ」
いつものようにクーラーの効いた講義室の一番奥の机に突っ伏して最新のイヤホンをして音楽を聴いてると、いかにも、「はい、私校則やぶったことありません」と感じさせるような真面目で凛とした雰囲気のある女子が声をかけくるのが何となくわかった。
「うん。聴いてるよ。昨日リリースされた,Ever chenging kaleidoscopeの新曲」
頭文字のEとCとKを取って略してエチカ。巷でそんな風に言われるくらいに有名になったのは最近の事で、まだ彼もしくわ彼女が今ほど売れていない時期から知っている身としては不意に町中でその名前を耳にするとどこか嬉しいようで悲しい気もする。先ほどかすかに聞こえた声に適当に答えながら、エチカえの感傷に浸っていると、思いっきりイヤホンを引っこ抜かれた。
「私が‘聞いている‘のはあなたが‘聴いている‘曲のことじゃなくて、昨日あなたの寝床で起きた不思議な出来事についてよ」
不機嫌そうに彼女はそう言って、長年使い古された椅子に座った。
曲が一番盛り上がる直前にイヤホンを突然引き抜かれたことで耳に予想以上の痛みがはしり多少イライラしたものの、自業自得なのは明らかだったので素直に音楽機器をカバンにつっこんだ。
「うるさいなあ。俺がしつこいの嫌いって知ってるだろ。自分で考えろよな。」
「自分で考えて分からなかったから、こうして神野青(じんの あお)に聞いてるんじゃない。いい加減親切心というのを知ったらどうなの。そんなんだから、留年しっちゃたんじゃない、どうなの?」
何となくおちょくられている気がしたので反撃した。
「そんなこと七瀬に言われる筋合いは1ミクロンたりともないね。そんなくだらない出来事について話すより、せっかく授業が休講になったから近頃の睡眠不足を解消するために俺は寝るよ。」
優等生は優等生らしく次の授業の復習でもしてたらどうなんだ、とも言おうとしたのだがさすがにそれを言ったら、いくら自分以外の人間には極めて温厚なことで知られている小野七瀬(おの ななせ)だろうとぶち切れられるだろう。なぜ、そんなことが分かるかについてはちゃんとした理由が存在する。それは、青と七瀬はいわゆる幼馴染という関係にあるからだった。厳密にいうと、アオが高校に入るまで、幼稚園、小学校、中学校とずっと一緒で、家も隣同士だったこともあり家族ぐるみで仲が良かった。だからこそ、憎まれ口をたたいたとしてもそれが本当に憎んでいるから出る言葉ではないことを二人とも認識している。彼らが言い合いになるのは専らアオが原因であることはまずまちがえないことなのだが。しかも今となっては留年してしまったアオに対して七瀬は既に2年生に進級していた。そんなちょっと奇妙な関係だった。
なぜ青と七瀬が別々の高校に行き、そして久しぶりに大学で再開することになったのかは、追々明らかにしていくことにする。
「あーあ、せっかくアオのために特別にお母さんが作ったケーキを大学が終わった後、涼しい部屋で一緒に食べようと思ったのに。」
今はクーラーの完備された講義室にいるため、暑さをそれほど感じないが外に出たら30℃後半の気温に加えて、地面に鋭くささる太陽光が人びとの水分摂取量と汗の量を促進させる、そんな時期だった。とにもかくにも、冷房がないところでしかも長時間日を浴び続けることはいやがおうにも何とも言えない気怠さを感じさせるのだ。アオもこの頃頻繁に大学内の自販機で買った清涼飲料水をのみながら、夏によく目にする下位蜃気楼の一種である逃げ水を眺めていた。そして彼が理由あって住みかとして、いや、寝床としている文芸部の部室は設備こそそろっているものの、エアコンはおんぼろなため効き目が悪い上に何より彼はそこにある生き物を飼っているため、むやみやたらにエアコンで快適と言えるまで温度を下げることが出来ないのだ。 そんなことを見越したうえでの七瀬の発言に当然アオは手のひらを返したように、でもどこか口には出さないが申し訳なさそうな顔をしながら言った。
「特大のケーキにいつものココアが飲めるんだろうな?」
彼はびっくりするくらいの甘党でいつも躊躇なく大量の甘い食べ物をそのスリムな体からは想像できないほど胃の中に流し込むのだ。そして、七瀬の母が作るケーキは数々の甘い物を食べてきたアオにも抜群に美味しいと言わせるほどの味で、なにより七瀬の母はアオにとっても母親のような存在だった。それは、彼の母親が若くして亡くなってしまったからであるのだが。
「もちろん。学校が終わったら、文芸部の部室に集合ね。」
そう言って彼女が席を離れていったのを見届けて、あの日起きた出来事ないし事件を回想し、その結末を思い出して苦笑しつつも彼の意識は既に夢の中にあった。
色彩感覚 sense of color 米松 香 @yumir_ordin
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