第9話
アセナに導かれて、もう一つのアセナの子孫たち、彼ら曰くゲジェ人、の元に身を寄せてから、一ヶ月が経った。
トヤは、気弱なシヨルを立派な、一人前の男にする、と言って、毎日、狩りやら、取っ組み合いやら、駆けっこやら、身体を動かす事に、積極的に誘っては、参加させていた。
初めは、嫌がっていたシヨルだったが、トヤに励まされたり、どうすればいいのか、注意点や改善点を教えて貰ったりするうちに、楽しくなってきたようで、今では、シヨルの方から先に、トヤを誘うようになった。
スンジェは、それが、この上なく嬉しかった。
トヤは、シヨルが王子だからでも、ましてや灰色の髪と眼をしているからでもなく、ただ、シヨルに惚れた。自分と少し違っていても、トヤには、どうでもいい事のようだった。シヨルの性格が気弱でも、鍛える。と意気込んでいた。
「トヤ」
スンジェはトヤを呼び出して、訊いてみた事がある。
「シヨルの事、どうして好きになったの?」
すると、トヤは、頬をリンゴの様に赤くして、少し俯いてから、ちらりと、目線だけ、此方に向けて、答えた。
「解らない。ただ・・・」
「ただ?」
「初めて見た時、シヨル、寂しそうだったし、哀しそうだった、でも、ババ様とお話してる時、なんていうのかな・・・うーん、迷子?みたいな顔になって、でも、やっぱり、寂しそうで、だから、笑わせたくなった。楽しそうに笑う顔が、見てみたいと思った。でも、一回笑ってくれただけじゃ、満足できなかった。もっと、見たくなった」
「そっか・・・。シヨルが笑うと、トヤも嬉しいかい?」
トヤは、花弁が舞い踊る様な、可愛らしい笑顔を浮かべ、「うん」と頷いた。
「シヨルが笑うと、あたしも嬉しい。ここが、熱くなって、でも、なんか、心地良い」
トヤは、自分の胸を指しながら、そう言った。
スンジェは、トヤの手を取った。
「トヤ、ありがとう」
トヤは、キョトンとして、首を傾げるが、スンジェは笑ったままだ。
「シヨルの事、これからも、よろしくね」
そうお願いすると、トヤも、笑顔になった。
此処に来てから、シヨルは生き生きしていた。
スンジェは、それを見て、涙が出そうなくらい嬉しいと感じ、その度に、何度も、何度も、アセナに感謝をする。
(此処に来れて、本当に良かった。これも、アセナが、此処に導いてくださったからだ。・・・でも、これも、そろそろ、見納めかな・・・)
スンジェは、ずっと、自分のすべき事を、考えて、悩んで、苦しんできた。そして、此処に来て、シヨルの心からの笑顔を見て、そのシヨルの隣で一緒に笑い、時には、シヨルを笑顔にし、導いてくれるトヤを見て、漸く、自分がしなければいけない事を見つけた。
(僕は・・・)
スンジェが空を見上げる。冬の空は、何処までも、何処までも、青々と澄んでいた。
その晩、スンジェは、クランの元に来ていた。
「本当に、それでいいのかい・・・」
「はい」
「あの子、泣くだろうね」
「ええ、そうですね。自分勝手なのは、解っています。それでも、私は、帰ります。帰らなければいけないんです」
「・・・」
「シヨルを、お願いします」
「ああ・・・」
「ありがとうございます」
スンジェは、クランに礼を言って、天幕を出ようとした。その時、何かが、飛びついてきた。
トヤだ。肩を震わせている。
「・・・聞いてしまったんだね」
「・・・」
トヤは、何も言わず、ただ、スンジェを抱きしめている。
「・・・トヤ」
スンジェが、彼女の頭を撫でる。すると、彼女は顔を上げた。やはり、泣いていた。
「トヤ・・・もし、もしも、シヨルが、僕が此処を出て行った事を、自分の所為だとか、そんな事言って、自分を責めたら、教えてあげてほしい。僕は、僕の意思で、僕は、僕自身の為に、此処を出て行ったって、言っていたって、伝えてほしいんだ」
「・・・ぅ・・・ぁ・・・かぁ・・・ば、かぁ・・・」
トヤは、泣きながら、そう言うと、スンジェから離れ、天幕の中に入って、クランに飛びついて行った。
クランは、静かにトヤの頭を撫でていた。
「・・・ごめんね」
スンジェには解っていた。きっと、トヤは、約束を守ってくれる事を。
だから、彼は、小さく笑って、クランの天幕を後にした。
シヨルは、スンジェが帰ってくるのを待っていた。
最近、シヨルは、トヤや他の子供たちと一緒に行った場所や、新しく覚えた事、楽しい事、嬉しかった事などを、スンジェに教えるようになった。
「あっ!スンジェ!」
シヨルが、大好きな兄に飛び込む。
「ただいま。シヨル」
「おかえり!あのね、今日ね・・・」
(これを、聞けるのも・・・今日で、最後か・・・)
そう思った瞬間、堪らなくなって、スンジェはシヨルを抱きしめた。
「スンジェ・・・?」
「シヨル・・・今、幸せかい?」
「スンジェ・・・?」
「急に、ごめん。でも、シヨル、凄く、幸せそうだったから」
「・・・此処に来てから、僕、毎日が楽しくて、嬉しくて、堪らないんだ。たまに、解らなかったり、悩んだりするけど、でも、それを含めて、毎日が、愛おしいんだ」
「そっか・・・」
「うん、スンジェのおかげだね」
「僕の?」
「うん。此処に連れてきてくれたのは、アセナでも、僕をあそこから連れ出してくれたのは、スンジェだから。だから、本当に、ありがとう」
シヨルの笑顔は、月明かりに照らされて、とても、綺麗だった。
「シヨル・・・」
「スンジェは?スンジェは、今、幸せ?」
スンジェは、目尻に、涙を浮かべて、笑った。
「幸せだよ、僕は、もう、これ以上ないくらい、幸せに包まれているんだ」
兄弟は、微笑み合いながら、手をつなぎ、天幕の中に入る。
二人は夜具を被った後も、お互い顔を見合わせる。
「シヨル」
「うん?」
「きっと、これからも、凄く、凄く、辛い事、苦しい事、沢山あると思うんだ」
「うん」
「でも、全部、無駄な事じゃないと思うんだ」
「うん」
「・・・最期は笑って逝きたいから、人は苦しむんだと思うんだ。シヨル、僕ね、そう、思ったんだ」
「え?」
「僕は、今まで、人は、どうして、こんなに悩んだり、辛かったり、哀しかったりして、苦しむのか、ずっと考えていた。そして、此処に来て解った。いつか、苦しんだ分だけ、人は、幸せを掴むことが出来るんだ。だから、人は笑って、生きるんだ、そして、逝きたいんだ、ってね」
「うーん・・・解ったような、まだ、ちょっと難しい様な・・・」
「あはは、大丈夫だよ。これは、僕が見つけたものだからね。だから、きっと、シヨルにも、見つかるよ。シヨルなりの答えが」
「?」
やっぱり、よく解らないという顔を浮かべているシヨルの頭を撫でて、スンジェは、「おやすみ」と言った。
シヨルも、「おやすみ」と返した。
暫らくして、シヨルの寝息が聞こえてくる。
シヨルがちゃんと眠ったかどうかを、確認すると、スンジェは、今日の為に用意していた荷物を取出し、それを持って、外に向かう。
外に出る直前、スンジェは、すやすやと安らかな顔をして眠るシヨルの方を向く。
「シヨル・・・元気でね・・・さようなら・・・」
そう、小声で別れを告げた後、彼は、振り切るように、天幕を出た。
アセナが居た。
「アセナ、僕をヤールートに連れて行ってください」
くぉん・・・
アセナが、切なげに鳴いた。
「お願いします・・・」
アセナは、哀しげな眼差しを逸らし、ゆっくりと、歩き出す。
スンジェも、歩き出す。
月が、哀しげに、スンジェの背を照らしていた。
翌朝、シヨルは、スンジェの姿が見当たらないと、クランの元に駆けこむ。
「馬は居るけど、スンジェが何処にも居ないんだ!」
「シヨル・・・」
クランの顔が暗い。
「スンジェは・・・死にに行ったよ」
クランに告げられた言葉は、まるで、岩の様に重く、それを聞いたシヨルは座り込んでしまう。
スンジェが、ヤールートに着いたのは、太陽が真上に上がった頃、つまり、お昼頃であった。
「アセナ、ありがとうございました」
スンジェは、アセナに頭を下げる。
アセナが引き留めるような、思い留まるよう訴えているような、切なげに鳴く。
それでも、スンジェは、歩みを止める事は無く、真っ直ぐ、城を目指す。
城門の前に姿を現せば、兵士たちによって捕らえられ、すぐさま、父王の元へと連行される。
父王の隣には、王妃である、母の姿もあった。恐らく、今まであまり寝ていないのだろう、目に隈があり、泣き腫らしたのか赤くなっている。しかし、スンジェを見つめる、その瞳には、憎悪の炎が揺らめいている。
父王も、母同様、憎悪を宿した眼で、自分を見ている。
もう、この二人にとって、自分は、息子ではないのだな。と自嘲した。
(いや、そもそも、初めから、息子だと思ってもらったことなど、無いのかもしれない・・・)
スンジェは、真っ直ぐ、両親を見据える。
「シヨルを何処へやった」
父王の言葉に、スンジェは迷いなく、こう告げた。
「殺しました。遺体はありません。獣に食わせ、骨は粉々に砕いた後、ばら撒いてしまったので」
王妃が金切り声を上げ、倒れる。父王は、怒りで顔を赤くして言った。
「スンジェを処刑せよっ!!」
「お待ちください!」
それに異を唱えたのは、長兄のテイルだった。
「シヨルを殺したというのが本当だという証拠も無いのに、すぐさま処刑なさるのは・・・「証拠ならあります」
テイルの言葉を遮り、スンジェは言った。
「私の荷物を調べれば、血まみれになった女官の服が出てくる。それは、シヨルが着ていたものです」
スンジェの言った通り、スンジェの荷物から、獣の毛が付着した、ボロボロになった血まみれの女官服が出てきた。勿論、何ともない女官服、つまり、スンジェが着ていたものも一緒に見つかった。
しかし、シヨルは当然生きている。では、その血まみれの服は何なのか、というと、簡単な話、狩りをして、獲った獲物を、素早く、服の上で切り刻んで血で汚し、更にその服で切り刻んだ獣を包み、放置。後は、匂いに誘われた、肉食の獣が、肉を食べるのを待てばいい。
現代ならば、こんなもので誤魔化すのには、無理がありそうだが、長兄のテイル、次兄のユソク以外の人間は、案外簡単に信じてしまったのである。ただし、もしかしたら、兄二人の方は、そう思い込みたかっただけかもしれないが。
どの道、兄二人の反対も虚しく、怒り狂った父王によって、スンジェは動機を聞かれる事もなく、死刑は確定してしまった。
それも、この国の死刑の中では、最も重く、苦しい処刑法で死ぬことが。
(これでいい、あとは、処刑の日を待てばいい)
歴史書によると、スンジェは、どんな拷問にも、うめき声以外、許しを請う事も、何かを弁明とする事も、全く、何も発することは無かったという。
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