黒蝶

「黒色の蝶には触れてはいけないよ。毒があるのだから」


 ある日、母は僕にそう教えてくれた。


 


 幼い頃は、街の至るところに虫が飛んでいた。蜻蛉や、飛蝗に、蝶。そんな光景は、ここ数年で見ることが叶わなくなってきた。繰り返される都市開発。田畑は日に日に住宅に変わり果て、虫の住処は無くなっていた。


 オフィス街の路地裏。灰皿がぽつんと置かれたその場所で、僕は煙草の煙を吐いていた。別に、変化の激しいこの街を嘆いている訳では無い。虫の居場所の悪さに同情している訳でもない。変わる事は、仕方の無いことなのだ。


 テレビで言っていた。今の子供は虫を見たことがないのだと。僕の時代からすれば、考えられない話だ。それも、時代の変化のせいなのだろう。仕方の無いことだ。時代が変われば、そこに生きる人間をも変わってしまう。そうやって、これまで人類は歴史を積み重ねてきたのだ。


 煙草も短くなり、そろそろ会社に戻ろうとした時、路地奥の暗がりから一人の女性がこちらにやって来るのが分かった。その人は、黒のドレスを身に纏い、高いヒールを履いていた。どことなく、此処に似合わない格好の彼女は、異様な雰囲気を漂わせていた。


「あら、こんな所に人が居るなんて、珍しいですね。貴方も、私と同じなの?」


 その人は冷たい笑みを浮かべながら、そんなことを呟いた。


「失礼ですが、同じとはどういう事でしょうか?」


 僕は堪らず尋ねてしまった。


 すると、黒のドレスの女は一歩、また一歩と僕に近付いてきた。そして、僕の目の前まで歩み寄ると、僕の頬に触れてこう囁いた。


「帰る場所が無いのです───」




 黒色の蝶には触れてはならない。居場所を無くした蟲達は、今尚毒を持ち合わせているのだから。

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