8-4 最終兵器作動します
『エリカ。カートのドロイド体がそちらへ向かっている。AIの制御もおそらく……』
店長がトランシーバー越しにそう言った瞬間のことです。冷え冷えとした空気の中に、何かキン、と張ったような、とても不快な何かが走りました。
私は思わずへたり込んで頭を押さえます。何が起こったのかはわかりません。周囲には何も変わりがないのに、すごく、嫌な、予感のような。
『エリカ、どうした!』
耳元で、店長が叫びます。
「なんだか、変な……何これ。何もないのに……」
「音だね。高周波と低周波の、人の非可聴域音が非常に強く発生している」
安藤さんが教えてくれました。それを聞くと、気のせいでしょうか。耳鳴りのようなごく高い音が聞こえるような気もしてきました。それから、身体を揺さぶるような振動があるような。
カートさんが、妨害をしているのです。
私は膝から崩れ落ちそうになりながら、作業を急ぎます。水色のケーブルを、安藤さんの首の後ろと、大きな機械の端子と、同じものを探して。見つからない、探します。間違い探しのような中を、同じもの。同じもの。あった。吐き気がするのをうんとこらえて。
『すぐに行く。耐えろ』
店長の声が、私に呼びかけます。それがどんなにか励みになったことでしょう。店長は私よりもずっと音に敏感で、だから、来たらもっと苦しくなるはずなのに。
安藤さんの首に、さらにもう一本のケーブル。こちらは、店長の薄いコンピュータに。カタカタと手が震えます。嫌な気分はもう、部屋中にわんわんと広がって、私を押さえ込もうとしていました。私は悲鳴を上げます。
透明のドアが開き、春先の突風のような速度で真っ白なカートさんが飛び込んできました。手首が伸びて、私の右手に絡みつき。嫌です。引っ張らないで。安藤さんが瞬きをします。目の前の画面には、いくつか四角が開き、やがて真っ黒な画面に、緑色の光る文字が並びました。
『このプログラムは不完全だ。最後の実行コマンドは、人が自分の手で入力する必要がある』
店長の言葉が蘇ります。私はそのコマンドと打ち方を教わりました。左手だけでもいい、どんなにゆっくりでも、打ち込まないといけない。伸ばした指が、また強い力で掴まれます。カートさんが、すぐ背後にまで来ていました。細い身体からは想像もつかないような力でぎりぎりと、私の手はキーボードから遠ざかっていきます。
「行為の中断を要請します」
立ちはだかるカートさんと、机の上の安藤さんの、薄緑色の視線が空中でぶつかりました。
「やあ、初めまして、私」
場違いに呑気な声を安藤さんが上げます。カートさんは無言で、力を緩めず……息を切らして駆け込み、後ろから体当たりをしてきた店長を蹴り飛ばしました。店長の首に、ひどい痣ができているのがちらりと目に入りました。きっと、絞められたんです。
「やめて」
店長は壁にぶつかって一瞬動きを止め、それでもよろよろと立ち上がります。店長、店長がこちらに手を伸ばすことができれば。私の両手はぎりぎりと締め付けられ、もう少しのところで届きません。聞こえない音は、私の頭をかき乱します。店長はきっと、もっとひどく苦しんでいるはず。
それでも、店長はカートさんに向かいました。蹴飛ばされた椅子にこめかみを打たれ、血を流しながら、全身をぶつけて。
がくんとカートさんの身体が揺れ、左手の拘束が緩みました。
「エリカ、行け!」
私は指を伸ばします。強い力で握られ、感覚が麻痺しかけた左手で、ゆっくり、間違わないように。一文字ずつ。正しい言葉を。機械の言葉を。
店長。私に、店長の魔法を分けてください。
安藤さん。後は、よろしくね。
私、今度はちゃんとお願いをします。そして、自分で叶えるの。
私は生まれて初めて、本当の意味で機械と会話をしました。任せなさい、との返事は来なかったけれど。
派手なことは、何も起こりませんでした。
画面には、よくわからない文字がずらりと流れました。私は解放され、カートさんが今度はキーボードに手を伸ばします。店長がその襟首をつかんで引きました。私は、私も、力の限りカートさんを突き飛ばして。
『ハローワールド』
スピーカーから、なんだか場違いに呑気な声が響きました。
『脅威レベルの低下を確認。警備体制を解除』
がくん、とカートさんの身体が動きを止め、そのまま床に倒れ込みました。それから、あの嫌な音が弱まっていくのを感じます。
「……安藤さん?」
『安藤さんだよ』
スピーカーから返事が返ります。私はほっと机に手をつき、息を大きく吐き、店長がよろよろとこちらに来るのを見ていました。なんだか、全てが夢の中のように淡々としていて、手はまだうんと痛くて。でも、終わっ——。
一瞬のことでした。
店長の耳がぴくりと動きました。私には聞こえない、微かな音に気づいたように。カートさんが突然がば、と跳ね起きます。店長は身体ごと、倒れ込むようにそれを押さえつけました。
カートさんの手が、店長の顔を掴み、みしみしと握り潰そうとしていました。無表情なはずの白い顔に、私は焦りと、それから恐怖を見た気がします。
機械の心が、見る人によって読み取られるものならば。
私は必死でカートさんの冷たい、びくとも動かない腕をつかんで引っ張りながら、このAIの心を感じていました。きっと、消えたくない、死にたくないと叫んでいるはずの心を。でも、それって、私達も同じ、同じなんです。
駄目。店長は、駄目。私に何があっても、店長だけは駄目です。絶対、生きて帰らないといけない人なんです!
「安藤さん、まだだ。制御を!」
『無線接続を維持。同期を開始』
カートさんは、抵抗するように二度ほどびくりと大きく
やがて、ゆっくりと店長をつかんでいた腕は床に降ります。口からはどこかのんびりとした声が聞こえました。
「葉介、エリカお嬢さん。悪いが、少しどいてもらっても構わないかな。その勢いだと、今度は腕が破損してしまうよ」
私、私はひんやりとした床にへたり込みました。同じく店長も、大きく、長く息を吐いて起き上がります。首の痣は痛々しかったし、猫の耳もいかにも疲れたようにへたっていました。それでも、小さな声で言います。
「安藤さん。まずは天井を開いてほしい」
「了解。防護シェルター機能を解除します」
ずん、と揺れるような振動が微かに伝わります。これで、空は戻ったのでしょうか。
安藤さんは少しだけ目を細め、机の上に置かれた空っぽの、元の頭を見つめました。そこに何か安藤さんなりの感慨があったのかどうかは、見ていた私にもわかりません。
ただ、安藤さんは私達に、優しく笑って言いました。
「ご利用ありがとうございました。またのお越しをお待ちしております」
私達は、荷物を持って元来た道を歩いて行きました。白い廊下は何も障害はなく、入り口ではあの自動掃除機がまた私達を追いかけてきて、そしてまたドアのところで別れました。階段の上からは、薄く光が差し込んできています。ああ、戻った、と思いました。
私と店長は、静かに階段を上がります。足音がかつかつと響きました。建物は薄い青い光に染まっているようでした。そうして、ゆっくりと外に出て。
見上げた空は、夜の群青と、朝の白と、それから明けの淡い薔薇色と、澄んだ水色とが混じり合う、不思議な色合いでした。いつの間にか夜は去り、明るい朝が近づいていたようです。
店長はその空を見上げ、懐かしそうに口の端を吊り上げ笑いました。私も、同じ。
やっと取り戻したこの朝の色を、店長とふたりで見上げた空を、私はずっと忘れることはないでしょう。
少し遠くから、誰かが呼ぶ声が聞こえます。誰かが駆けてくるのが見えます。小柄な女の子の影がひとつと、背の高い男の人の影がひとつ。
私はジニーと真治さんに大きく手を振ります。そうして、ふたりの方へと走っていきました。あのつらい日々を越えて、ようやくほっと心から笑えたような、そんな気がしていました。
帰ってきた町は、再び明るくなった空を見て大変な騒ぎでした。みんな道に出てお互いに肩を叩き、抱き合って喜び合っています。そこには、ギフトがあるとかないとか、そんなのは何も関係がなくて。
私はそれが嬉しかった。変わってしまったものは元に戻ることはなくても、その底には同じものが流れているのだと、そう感じたからです。
私の大好きなさきわい町は、朝の光に照らされ、銀と赤とに輝いていました。
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