4-5 ポテトサラダに口づけを
夕方、淡い薔薇色とまだ残る水色が混じり合う空の下、
「巣作り中の鼠か何かみたいだな」
店長がそんなことを言います。自分が猫だからって、例えがちょっと悪いと思うのですけど。
「だって、どきどきしますよ。人がたくさんいるし……。あれですよね。観客は枝豆と思えっていうやつ」
「一般的にはじゃがいもじゃないか」
そこはもう、何でもいいんです。でも、生の野菜の前で歌うのは少し味気ないかもしれない。塩ゆでにしておいしく……とか、そういう話ではありません。
「なあに、びびってる?」
ジニーがひょいと顔を出しました。この子はなんとも、いつもと同じく元気いっぱいです。
「大丈夫だよ。エリカの歌はばっちり。むしろあたし達がとちらないようにしないとね」
ジニーは私を力づけるように、肩を叩いてくれたのですが。
「そうだな、お前よく焦って走るからな」
「五十鈴だって、変なタメ作って遅れるのはよしてよね」
「ケンカはだめ!」
私はふたりの間で手を広げます。練習自体はなんとかなったのですが、このふたりが言い合うのはどうにも止められません。多分、本当に仲が悪いわけではないのですけど。
「
ちらりとジニーが時計をにらむと、風に煽られるようにして、ふらふらと背の高いシルエットがやって来ました。
「やあ、やっと迷子全員帰せた……」
「お前頑張りすぎ。偉いけどさ」
うん、と真治さんは頭を掻き、ぶんぶんと手を振ります。
「最後の大仕事かなって思うと、ついね」
ジニーが少し顔を曇らせます。この演奏も、元はと言えば真治さんを送るために企画したのです。やっぱり、寂しいのだろうな。でも、それは一瞬で、すぐにまたいつもの明るいジニーに戻りました。
「お前、身体張るの癖になってるよ。実家でも重いもの運びすぎて腰いわさないように」
「気をつけるって」
もし。ふと思います。もし本当に、ギフトが人の願いを何かの形で叶えるものならば。真治さんの願いは『誰かの力になること』なのではないかしら。知り合って少ししか経たない人に対する、勝手な想像です。
でも、本当にそうなら、私は真治さんのことをとても素敵な人だと思うのです。
「そろそろ入れ替えるので、準備してくださいね」
腕章をつけた実行委員の人が、声をかけてくれました。私達は一様に背筋をぴんとして、楽器に手をかけます。大きなバスドラムをひょいと真治さんが持ち上げるので、実行委員さん、目を丸くしていました。
「行こっか」
「はい!」
どうやら表の演目も終わった様子。結構な人数の拍手がざわざわと鳴り響きます。でも、緊張してばかりもいられません。枝豆だろうがじゃがいもだろうが、おいしく食べてしまう心意気!
帽子をかぶったままの店長が、すう、はあ、と息を吸って吐きました。隠れた耳は、どんな風になっているのでしょう。それはわかりませんが、私は精一杯の笑顔を投げ、そうして、どうにかこうにか舞台へと歩いていきました。
セッティングにはそれほど時間はかかりませんでした。少し音合わせをして、これも大丈夫。私の目の前には黒いマイク、なかなか珍しい機械があります。確か、ここに向かって音を出すと、スピーカーというところから音が大きくなって出てくるのです。元はうちの親父が扱った商品だ、と店長は先ほど言っていましたっけ。とんとん、と叩くと、三倍くらいの音が返ってきたのでびっくりしてしまいました。
「これ、大きくないですか?」
「声はそれくらいでちょうどいい」
シンセサイザーを軽く調整しながら、店長が言います。それならきっとそうなのでしょう。店長の音色は、いろいろと話した結果、あのピアノのような、転がるような丸い音に決まりました。
目の前、少し低いところには、百人、いいえ、もっと大勢の人がわくわくした目で私達の準備を見上げています。夕方の光と、櫓の火に照らされ、半分影のよう。息を、吸って、吐いて。咳払いをして。大丈夫。みんなポテトサラダ。玉ねぎは、入っていない方が好みです。
ジニーが目配せをします。私はしっかりとうなずきました。店長と、バイオリンを手にした真治さんも。
「それでは、これから自警団員とその他二名の方による演奏を始めます」
あっ、なんか、お洒落なユニット名とかはつけてないんだ……。ジニーがぺろりと舌を出し、店長がそれをにらみ、真治さんが苦笑しました。それから、しんと無言が降りて。
ジニーが一、二、三、とリズムを取ります。
音が、溢れ出しました。
歌は、簡単な歌です。学校に通っている人なら誰でも習う、歌いやすい歌。
『でも、言われてなんとなく歌うんじゃなくてさ』
ジニーはそんなことを言っていました。
『この曲、本当はすごく綺麗なんだよってみんなに伝えるの。思い出してもらう感じ』
私がお店で歌っていた歌が、そんな風だったのだとか。だから、同じように歌えばいいのです。
前奏が終わります。私はマイクに話しかけるように、声を放ちました。
天高く 風さやかに
薄雲淡くたなびき
峰遠く 向かう先に
我が行く手を示したまえ
若き心 燃ゆる炎
消えぬ間に 歩めかしと
天高く 風さやかに
我が行く手を守りたまえ
どこか遠くへ行く人の歌。期待と不安と、そして祈りの歌。
私は、自分の身体が溶けて、音と一つになっているような、そんな不思議な気持ちを味わっていました。いくらでも声が出そうで、もちろん実際にはそんなことはなくて、でも。
とても、心地良い感覚。
気がつくと後奏が終わるところでした。はあ、と息を吐き、額の汗を拭って、強く吹きつけた風に目を細めながら振り向きます。皆が、小さくうなずきました。大丈夫、このままならいけます。わあっ、と声が上がりました。あっ、良かった。お客さんの反応も良さそう。
もう一度、強い風が吹いて。
異変があったのは、その時でした。
店長がシンセサイザーに目を落とし、それから少し変な顔をします。そうして、ジニーが次の曲に入ろうとしたのを手を伸ばすジェスチャーで止めました。
店長はあの黒い帽子を脱ぎます。下から、三角の猫の耳が現れ、ぴくりと震えました。
「妙な音がする」
三人はもう一度顔を見合わせました。
「これは……櫓だ」
風が、吹きました。舞台脇の木の櫓は、少し変な角度に傾いでいます。
「倒れるぞ!」
ジニーと真治さんが、ぱっと飛び出しました。示し合わせたように、ジニーは客席へ。真治さんは櫓の方へ。私は一瞬遅れて、そうしてマイクに向けて叫びました。
「危ない! 櫓が倒れます! みんな逃げて!」
悲鳴があちこちから上がりました。ジニーが先導し、みんなを引っ張っていきます。他の自警団員や実行委員の人も、それに続きます。店長が私の手を引っ張り、舞台から降りました。櫓は不自然に傾いた状態でどうにか止まっています……いいえ、誰かが止めているのです。
「真治、お前、何やってんだ!」
ジニーの悲鳴が聞こえました。真治さん、見た目に似合わぬ力持ちの真治さんは、必死の形相で自分の三倍もの高さの櫓をしっかりと押さえ込んでいました。背の高い身体が、なんだか小さく見えました。
もう一度、今度はひときわ大きく、風が横殴りに叩きつけます。
櫓は悲鳴を上げて揺れ、点された炎がぼう、と燃え上がりました。
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