2-3 空と大地を繋ぐもの

「大変なんです、あの、クレムの……従弟のギフトが変な風に出てしまって!」


 飛ばされながら、五十鈴いすず店長の操縦していると思しきドローンに向けて簡単に状況を説明します。多分、上を見ている人が多かったのは、このドローンを飛ばしていた物珍しさのためだったのでしょう。カメラがついていたはずだから、私の泣きそうな顔が映っていたりするのかもしれません。恥ずかしいけど、もうこの際仕方ない。


「とにかく、飛ばされて、落ちそうなんです」

『何をやっているんだ、お前は……!』

「エリカ、何、それ? しゃべるの?」


 クレムが不思議そうにドローンを見つめます。小さな声でしたが、音に敏感な店長にはよく聞こえたようです。答えが返ってきました。


『喋っている僕は、お前らの下の広場にいる。こいつのテスト飛行中にたまたまお前らを見つけたんだ。今、走っているから……落ちるなよ。そのまま飛んで……飛べるのか?』

「さっきよりはできるようになった! 完全に自由じゃないけど、風に乗る感じで……」

『ならいい。先導する。ドローンについて来い』


 私はもう、腕がだいぶ限界だったのですが、それでも必死でしがみついていました。風にふわりと乗って、スピードを上げて、私たちはまっすぐに進んでいきました。


 向かう先には……町の、新しい建物の中では一番大きな建物。時計塔。


 私はぞっとしました。うんと高い時計塔の文字盤のあたりの高さに、私たちはいます。こんなに高く、遠くまで来てしまったかと、目がくらむようでした。


 首を巡らすと、真っ青な空と、小さくなった町と、高い灰色の壁と、その向こうにある山々の峰、合間にある旧道路、そのずっとずっと先にある、細い背の高い塔がよく見えました。今までに、一度も見たことのない景色。揺れて、かしいで、さかさまになって。


 一瞬、心を奪われそうになりました。


『下、下を、走っている。時計塔なら、その高度でも、降りられる、ところが、あるはずだ』


 息苦しそうな店長の声が、通信機越しに聞こえます。今はこの声だけが頼りでした。ふわふわとあてどなく飛ぶふたりを助けてくれるかもしれない、ただひとりの人でした。


 ゴウ、と一際大きく風が吹いて、私たちは時計塔の周りをぐるりと回るように飛ばされました。


「エリカ、どうにか屋根にでも降りて。ひとりだけでも」

「でも!」

「俺はほら、なんとかして乗りこなせれば、自分で降りられるかもしれないし」


 クレムはちらりと、大きく眼前に迫った文字盤を見ます。どこか、掴まれるところ。針には手が届くかもしれませんが、そこから無事に下りるのは難しそうです。


『そのまま、どうにか、文字盤の上の小窓に掴まれ。僕も、上に上がれるように頼むから』


 そういえば、店長は中の昇降機エレベーターの整備なんかも手伝っていたのでしたっけ。あれも、昔からのものを直して使っているものですから。


『中からドローンを操縦するのは難しい。通信はここまでだ。落ちるなよ』


 ふつり、と音がして声が止まり、ドローンが下がっていきました。私は心底心細くなって、泣きそうになりましたけど、どうにか我慢。泣いたら周りが見えなくなります。店長が頑張って誘導してくれたんです。ちゃんと、しっかり、生きて帰ります!


「クレム! がんばって、建物に近づいて!」

「やってる!」


 風に煽られながら、少しずつ、少しずつ、私たちは時計塔に近づいて行きました。文字盤の数字って、こんなに大きかったんだ、と思います。どうか、次は下から見上げることができますように。


 手を伸ばします。小窓の手すりはなかなか掴めません。気ばかりが焦ってきました。その時、ぶわ、と大きく揺さぶられ、背中を押されるようにして、今までで一番建物の傍に近寄りました。


 中から、顔を真っ赤にして店長が駆け出してきました。よほど走ったのでしょう。私に向けて、手を伸ばしてきます。私も、精一杯腕を伸ばし……。


 指は、無情にすれ違いました。目を見開いた顔の店長が、また遠ざかっていきます。クレムの腕を掴んでいる方の手はもう痺れて、今にもずり落ちそう。


「クレム、もう一回!」


 息を吐ききるような気持ちで叫びました。声は返らなかったけど、力強く、私たちは飛びました。両手を差し伸べるように広げた、店長の元に。飛び降りるような気持ちで、手を伸ばします。


 ぐい、と強い力で、私は引かれました。店長が、私の手をしっかりと掴んでくれているのです。私の身体は、どさりと小窓の中に倒れ込みました。クレムの腕も、店長が引っ張ってくれました。心臓がドキドキ言っているのは、緊張が続いたせいでしょうか。それとも。


 ともあれ、私達ふたりは、床のある場所へと帰ってきたのです。


 しばらくは、ぐんにゃりと倒れ込み、何も言えませんでした。店長も耳を疲れたように伏せ、ぐったりと座り込んでいました。ある意味、ずっと走っていたこの人が、疲労の意味では一番大変だったかもしれません。


「あの、あの。ありがとうございました……」


 身体を起こし、どうにかそう口にして、ほう、と息をつきました。


「せっかくの休日に、物理法則を無視した従業員の面倒を見る方の気持ちを考えてくれ」

「すみません……」

「俺が悪いんです」


 クレムが俯きながら言います。壁があるこの中なら、飛ばずに済んでいるようです。


「エリカを巻き込んだ。ごめん。本当にごめん」


 彼は目を細めて、窓の外を見ます。さっき見たのよりは狭いけれど、同じくらい高くて、町が見渡せて、町の外だって。


「誰かに、願い事を聞かれた気がする。俺、ずっと遠く、高いところに行きたかったんだ」


 こんなことになるなんて思わなかった。ぽつりと呟きました。


「この時計塔、母さんが一番最初に関わった仕事なんだって。俺、時々ここに上げてもらって、外見るのが好きで。いつか、同じような仕事がしたくって。でも、そのうち、もっと高い景色ってどんなだろうって思うようになって」


 喉に詰まったものを吐き出すように、クレムは言葉をぼろぼろとこぼしていきました。瓶の底にころころと転がる、金平糖のような言葉でした。


「それを自分で作ってみたくて、そのためには外に行きたくて。まだ早いって言われてもどうしてもやりたくて」


 泣いていたのでしょう。片腕でぐいと目を拭いました。生意気な子ですから、そんなところ、見られたいわけもなかったのに。


「でも、駄目だな。ここより高くは飛べなかった。自分ひとりで解決もできなかった。外に行くなんて、俺には……」


 私は、痺れた腕をどうにか動かして、膝立ちになったクレムの肩に触れました。


「それ、叔母さんには言ったの」


 首が横に振られます。


「今初めて言った」

「ちゃんと言いなさい。聞いてくれるから。私からも、言ってあげる。ね」


 私は、空を飛びながら見た、あの風景を思い出していました。遠く遠く、どこまでも伸びていく道を思い出していました。私には、そんなに強く何かをしたいという気持ちがあるわけではありません。でも、あれがこの子の見たい景色に繋がっているのなら。


 あの眺めを美しいと思ってしまった私には、反対する理由なんて、ないのです。


「でも、この力……」

「しっかり使いこなすか、それとも治すか、どっちかができればいいんでしょう。使いこなすのは自分で頑張って。治すのは……」


 私は店長の方を振り向きました。黒猫の耳がぴんと立ちます。


「私と、店長が探してみるから」

「僕を巻き込むのか」

「だって店長、自分の耳を治すんでしょう。便乗させてください!」


 なんだかぶつぶつ言っていましたが、私はそこに「仕方がないな」という一言を聞き取りました。猫の耳がなくたって、これくらいは聞けるのです。


「エリカ」


 クレムの声が、水に滲むように歪みました。


「ありがとう。ありがとう。ごめん」


 ぼろぼろと涙を流しながら、絞り出すようにそう言ったクレムを、私は両腕を広げて、抱きしめてあげました。




 それから、まあ、いろいろと大変でした。空飛ぶギフトの件は町の噂になってしまい、自警団に話を聞かれたりしました。ついでに店長のドローンも注目されて、結構なお金持ちの人がなかなかのお値段で買ってくれたのだとか。休日ごとにクレーター広場にはドローンが飛ぶようになりましたから、きっといい持ち主の元に行ったのでしょう。


 クレムの外行きの件は難航しましたが、私も一緒にお願いして、叔母さんの態度は少しは柔らかくなったような気もします。飛ぶ力の方は一進一退ですが、少なくとも危ないくらい派手に飛ばされることはなくなりました。




「ギフトって不思議。クレムの言う通りなら、お願い事を叶えてくれてるみたいじゃありませんか」


 私はがらくた通りは『がじぇっと』の店内で、『シンセサイザー』の鍵盤を拭きながらそう言います。店長はまたいつもの不機嫌そうな顔になりました。


「遠く、高く、かあ」

「それで飛ぶ力とは、なんというか、比喩を解さないにも程がないか」

「そうですねえ、確かに。変なの」


 ふん、と店長はそれ以上追及せず、ただ何かを思い出して考えているような顔になりました。耳もそっぽを向いています。


 店長の猫の耳と尻尾。もし私の想像が正しいのであれば、あれはどういうお願い事から生まれたものなのでしょう。かわいくなりたい、とか、そういうのではなさそうです。


「でも、本当にありがとうございました。あの時の店長、格好良かったですよ」


 顔を真っ赤にして、息を切らして。それでも私に手を差し伸べてくれた店長が、本当は優しくて、勇気のある人なのだということ。この間の猫探しの時といい今回といい、店長の人となりがとてもよく分かった気がします。


 五十鈴店長は、また目を逸らして、尻尾を一回軽く揺らして、そうして、商品の点検に戻ってしまうけれど。


 大丈夫。私は、ちゃんと知っているのです。

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