1-3 しっぽが横に揺れるわけ

 木登りのコツは、いくつかあります。むやみに下を見ないこと。あまり細い枝には体重をかけないこと。常に降り方を考えながら登ること。


 昔はするすると登っては意地悪な男の子から逃げたものですが、何せ大きくなってからは久しぶりです。コツを思い出しながら、ゆっくり、慎重に私は登っていきました。


 太い枝に足をかけたら、少しだけ休憩して、また力を入れて、身体を持ち上げて。助けを求めるような猫の声は、だんだん近くなっていきます。


 不意に、暖かい風が強く吹きました。私は目をつむり、幹にぎゅっとしがみつきます。


「お姉ちゃん、大丈夫?」


 下から声が飛んできたので、平気、と返してまた登ります。上の枝に足をかけ、身体を持ち上げて。やがて、どうにかビビのいる太い枝にたどり着きました。もう少しです。


「ビビ、おいで。迎えに来たよ」


 わかってもらえるだろうか、と不安でしたが、ビビはもっと不安だったのでしょう。私の懐にするりと飛び込んできました。私は小さく息を吐き、左手と肩で猫の温かな身体を支えるようにすると、もう一度、今度は来た枝を逆にたどり出しました。


 これが、怖い。


 降りるのって、大変なんです。下は見えにくいし、今回は片手がふさがっているし。うんと慎重になりながら、さらにゆっくりと体重を移動させました。


 大丈夫。大丈夫。いざとなったら、本当にいざとなったら店長が誰かを呼んで、梯子でも持ってきてくれるし、自警団の消防隊が助けてくれるかもしれない。多分、そんな大事になったらご近所の噂は避けられないでしょうが、とにかく大丈夫。それより、怪我をしないように気をつけて、少しずつ。


 途中、下を見てしまって泣きそうになりますが、ぐっとこらえます。大人しくしているビビの、小さな温もりが頼りでした。


 やがて下の方の枝が張り出した、動きやすいあたりに戻ってきました。私はほっとします。ビビがもぞもぞと動き、私の腕から抜け出して、跳ぶように自分で枝を降りていきました。フェイがそれをしっかり抱きとめるのを確認し、ようやく力が抜けます。


 もう安心。あとはすぐに降りるだけ。


 そう気を抜いてしまったのが、運の尽きでした。


 あとほんの少し、地面まで私の背丈くらいしかない枝を、私は滑って踏み外しました。心臓が跳ねます。


 落ちる。


 手を伸ばすけれど、枝は遠く離れていきます。不思議に辺りの景色がゆっくりと動いて見えました。木登りのコツ、知っていたはずなのに。最後まで注意を払うこと。一番低いところが一番危ないこと。


 どさ、と私の身体は草だらけの地面に激突し……はしませんでした。何かに支えられ、というか、温かくて硬い何かの上に乗っかり、倒れてぶつかりはしたけれど、衝突は避けられているようです。痛みはそれほどありません。私は辺りをきょろきょろと見、そうしてぎょっとしました。


「店長!?」


 地面と私の間で緩衝材になっていたのは、店長の身体だったのです。多分、立って支えようとして一緒に倒れたのでしょう。尻餅をついて座り込んでいます。


「大丈夫ですか、店長! あっ、私はもう、全然平気で、あの、怪我とかしてないですか!」

「いいから降りろ……」


 手で払うようなジェスチャーを返され、もうなんだかあわあわとしながら立ち上がります。ほっとして、情けなくて、でもやり遂げた気持ちはあって。フェイがぱたぱたと走ってくる景色が、少し濡れて歪みました。


「お姉ちゃん、ありがとう。平気?」


 目尻を拭い、平気だよ、と返します。ビビも大人しく抱っこされて、ゆっくりとしっぽを振っていました。スカートを見下ろすと、汚れでひどい有様になっていましたが、仕方ありません。勲章と思ってしっかり洗おうと思います。


 ありがとうございます、と改めて店長に頭を下げると、曲がった眼鏡を直し、帽子をかぶりながらまた嫌な顔をされます。


「業務中に骨でも折られたら僕の責任だ。それだけの話」


 くるり、と背を向けます。やはり不甲斐ない私に怒っているのでしょうか。めくれ上がったマントを直す前に、黒い尻尾が覗いて、ごくゆっくり、ゆらゆらと左右に揺れていました。


「あのね、お姉ちゃん」


 フェイが私の傍で小声を出します。


「猫ってね、安心してたり、この人は一緒にいて大丈夫って思った時に、尻尾をゆっくり振るんだよ」

「え?」


 私は小さな腕に抱かれたビビを見ます。まだ少し怯えた風ではありましたが、それでも嬉しそうに喉を鳴らし、軽く曲がった尾は右に、左に、ゆっくりと動いています。フェイがこの子を好きなように、きっとビビも飼い主が好きでいるのだと思いました。


 私はもう一度、さくさくとひとり勝手に歩き出した店長の背中を見ます。尻尾はもう隠れて見えなかったけれど。


 安心した時。この人は一緒にいて大丈夫と思った時。


 なあんだ。私は少しほっとした気持ちになりました。


「ありがとうね」


 頭を撫でてあげると、フェイは目を細めます。そうして、私達は早足で店長に追いつきます。


「店長、ギフトって、やっぱりなんだか素敵なものですね!」

「馬鹿を言え」


 振り返って睨まれました。


「余計なものだ。僕は絶対に治してみせるぞ」

「その機械さんと、不思議さでは同じだと思うんですけど」

「同じなものか。どんな現象でどんな危険があるかもわかっていないんだぞ」


 と、いうことらしいです。店長の立場からだとそうなのかもしれないな、とも思いますし、でも、無愛想な店長の気持ちを伝えてくれるのだから、もう少し大事にしてもいいような気もするのですが……気持ち! 大事なことを、ひとつやり忘れていました。


「そうだ。店長、さっきはごめんなさい」

「しつこいぞ。木登りの件ならもう……」

「そうじゃなくて」


 回り込むように前に出ると、少し高いところにある顔を見上げます。


「お店で口喧嘩した時のことです。まだ謝っていなかったので」


 店長はもごもごとした、いわく言いがたい顔つきになりましたが、ぷいと顔をそむけてまた歩き出します。


「お前は本当にしつこい。そんなもの、とっくに忘れていた」


 なんだか笑いがこらえきれないような気持ちになりながら、私はフェイと一緒に黒い背中を追いかけました。


 この人は、頑なな顔の陰に柔らかな耳と尻尾を持っていて、私はそれを知っている。ちょうど、昼には見えない空の星のように。そのことが、たいそう嬉しく感じられたのでした。




 それから、しばらくして町でフェイと再会した時、ビビは懲りたのか、なかなか脱走をしなくなったと報告してくれました。小さなふたりの友達は、仲良くやっているようで何よりです。


 店長は相変わらず無愛想で、耳と尻尾は隠したがるけれど、お店は一応開いたまま続けることになりました。多分、ギフトの件が漏れるのも時間の問題でしょう。どうもあれ以来耳が変に鋭くなってしまったらしく、時々物音に文句を言われますが、まあ、大したことではありません。話が伝わったのか、小型のGPSは、子供や動物のいる家の人が時折買い求めに来るようになりました。


 ひとつだけ、困った、というか面白かったことは、あの大学公園。居合わせた子供の間で店長が、『本当に黒マントが出た』『子供と女の子と猫を攫っていった』なんて言われてしまっていることです。正体はばれていないみたいですし、危ないところに子供が来なくなって、大人は助かっているそうですけどね。


 お気に入りのワンピースは、洗濯屋さんにだしたら、地の白も、格子模様もぴかぴか綺麗になって返ってきました。そんな風にして、変わらぬ町の日々は過ぎていくのです。

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