ストロングゼロ 著:村上春樹

よだか

完璧な飲酒などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね。

 それは日増しに寒くなっていく、12月の冬の夜のことだった。



 僕はいくぶん遅めの夕食(それは夜食と言っても問題なかった)を食べるためにたくさんの水と塩を入れた大きな鍋でパスタを茹でていると、とても重大なことに気がついた。そしてその事実を確かめるために、少しの緊張と不安を覚えつつ冷蔵庫の扉に手をかけた。まるで、初めて彼女の部屋を訪れたときみたいに。


 静かに扉を開け冷蔵庫の中を確認してみたが、やはり僕の想像通りそこに買い置きのストロングゼロはなかった。冷蔵庫の中にあるのは飲みかけのヴォルヴィックのペットボトルと新品のコーラ、そして力尽きた鶏肉だけだった。


「やれやれ」


 僕は深いため息をついた。しかし、ため息をついたところで冷蔵庫の中にストロングゼロがないという事実は変わらない。そして誰かが代わりに買ってきてくれるわけでもなかった。

 仕方なく僕は近くのコンビニエンスストアまでストロングゼロを買いに行くことにした。それはもはや僕の意思ではなく、きっと数百年前から運命付けられたある種の儀式的行為であり、おそらくは宿命や運命と呼ばれる類のものだった。


 僕はコンロの火を消すと、床に散らばっていた部屋着のスウェットを手に取った。そして、その上から疲れ切ったサラリーマンのようにヨレヨレになったジャケットを羽織り、テーブルの上に散らばった空き缶を押し退けて小銭の入った財布を手に取ると、のそのそとマンションを後にした。


 年の瀬の押し迫った12月の夜の空気は、純度の高いアルコールのように冴え渡っていた。空には少し欠けた——あるいはこれから満ちようとしている――月が浮かんでいる。そしてその横には、なにかの『しるし』みたいに一回りほど小さな緑色の月が浮かんでいた。




「いらっしゃいませ」


 コンビニの自動ドアが開くと、大学生らしきアルバイトの女性は僕に目もくれずにそう言った。僕もまた他人事のようにその言葉を聞き流すと、一直線にアルコール売り場へと歩いていく。

 アルコール飲料が並ぶ棚には、ストロングゼロが整然と、論理的に、しかしどこか破滅的に並んで売られていた。その様は僕に戦場へ赴く兵士の姿を想像させた。僕はそこから前列に並ぶ五人の新兵を手に取るとレジへと向かった。


「あなた、ストロングゼロを飲むの?」


 僕がカウンターにストロングゼロを並べると、若い女性店員は眉をひそめて言った。まるで居酒屋の唐揚げに飾りで乗せられたパセリをお皿の端に寄せるみたいに。


「そのとおり」と僕は答える。


「悪いことは言わないわ、やめておきなさい。でないと、いつかあなたは失くすことになる」


 彼女が言った。



 僕は少し考えてから彼女の言葉を繰り返した。


「それはストロングゼロのせいで? それとも僕自身のせいで?」

「わからないわ。けれどあなたは私の言葉に耳を傾けなくちゃならない。森の奥で小鳥のさえずりに耳を澄ますみたいに」


 彼女の言葉に僕は少しだけ首を傾ける。


「どうしてだろう?」そしてそう言った。


「そうね……うまく言えないけれど、あなたを見れば分かるの。私は今まで同じような人をたくさん見てきたわ。だからなんとなく分かるの、この人もたぶん同じことにになるんだろうって」

「忠告ありがとう。けれど――」


 僕は彼女の言葉を遮るように言った。


「これはとても個人的なことなんだ。君がなにを話しても僕はどこにも行けない」

「確かに。けれどあなたがどこへ行こうとも、それは確かな因果性をもってあなたに訪れる。間違いなく」


 彼女は確信に満ちた口調でそう言った。12月31日の次には1月1日がやってくるのと同じくらい確かな口調で。

 僕は肩をすぼめてみせると、彼女はやれやれというように小さく首を横に振った。そしてそれ以上なにも言うことなくストロングゼロをレジに通すと、僕はその対価としていくらかのお金を支払った。



 彼女はストロングゼロの入ったコンビニ袋を僕に差し出して言った。


「もしかするとそうかもしれない」


 僕はコンビニ袋を受け取ると、おそらく二度と会うことのない彼女に向かってそう言った。それから僕は出口へと向かって歩き出した。彼女に対して他に言えることはなかったし、他になにかを言うべきでもなかった。


 彼女の言う通り、いずれ僕は後悔することになるのかもしれない。けれど、現実問題として今、僕にはストロングゼロが必要だったし、おそらくストロングゼロも僕を必要としていた。それはもはや、誰にも――僕自身でさえどうすることもできないことなのだ。


 コンビニの帰り道、僕はさっそく袋の中からストロングゼロを取り出すと、蓋を開けて一口すすった。数時間ぶりに口に含んだその液体はヤナーチェクのオペラみたいに味わい深く、同時にマイルス・デイヴィスのトランペットみたいに刺激的だった。

 ストロングゼロがデイヴ・ブルーベック・カルテットの演奏が体に染み渡るように喉を滑り落ちていくと、それからすぐに小さなハンマーで脳を直接叩かれているようなふわふわとした感覚がやってきた。気づくと僕の手の震えはいつの間にか治っていた。




「強い人間なんてどこにも居やしない。強い振りのできる人間が居るだけさ」


 僕は緑色の月を見上げて誰に言うでもなくそうつぶやくと、もう一口ストロングゼロをすすった。


 ストロングゼロは弱い人間のメタファーとしての酒なのだ。それはある種の、形而上学的な悲劇と言ってもよかった。

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