第2話 その道の人として生きる

 僕はポーン。書道の先生をしている。


 先生と言っても、なにも先生になりたくてなったわけではない。かわいい愛弟子にどうしてもと乞われて、今はこうして小さな古民家で書道教室をひらいている。


 僕の書道教室は手とり足とり教えるような真似はしない。いつも見守るようにそばにいて、何かあればそのつど的確に教えるのが信条だ。


 僕には頼りになる助手がいる。僕の右腕のような存在で、彼には全幅の信頼を置いている。今日も新たにやってきた入門希望者の対応を助手に任せきりだ。


「教えろというても……そうじゃの、技術的なことではもしかしたら教えられるかもしれぬ。その道を行くものとして、わずかながらも多めに生きているわしの知識がもしかしたら君の役に立つかもしれぬ。じゃがの、これだけは心してほしいのじゃ。道と名のつくものは往々にして、長い時間をかけて自らが築きあげるものなのじゃ。生涯をかけても完成することはないかもしれぬ。それ故、わしが何かを手取り足取り教えたところで君のものとも君の道の石突きひとつともならんじゃろう。わしに出来ることといえば、ただその道に対する心構えを筆に託して見せることだけじゃ。よいかの?」


 助手はその腕だけでなく僕の書道教室に対する信条をもよく理解したうえで、実によくやってくれていた。


 あるとき、入門したばかりの愛弟子が書道の古典を臨書りんしょしていた。書いた本人になりきって字の形や筆づかいを真似するのだ。だがその日、愛弟子は浮かない顔をしていた。

 僕は助手に対応を任せた。信頼して仕事を振るのも上司の大事な役目だ。


「そっくりにかけておる。非常にそっくりにかけておる。じゃがおそらく、君はいま書いていてとても窮屈で楽しくないじゃろう」


 愛弟子は言い当てられて驚いた様子だ。


「君の字はいま、奴書どしょになっておるのじゃ。古人の記した字の奴隷になっておるのじゃ。臨書は古来より書の道を極める為に非常に役に立ってきた方法の一つじゃ。じゃがの、手段の一つなのじゃ。それがすべてではない。君がいま臨書しているのは君の道の手助けにする為であって、その字を書いた人間そのものになる為ではない。ただ真似ることにばかり囚われてしまっては、振り回されるばかりで君の道にはならんのじゃ」


 愛弟子は混乱した様子だ。


「何を矛盾したことをと思うかの? たとえばこの蘭亭らんていじょじゃが――」


 助手はこの蘭亭序という古典が大好きだった。王羲之おうぎしという書道の神様と呼ばれる人が書いたと言われている。


「かの書聖王羲之おうぎしは三月三日、晩春の初めに気心知れた仲間たちと小川の流れる蘭亭の庭で優美な曲水きょくすいうたげを開いたのじゃ。詩歌を詠み、小川を流れる盃に舌鼓を打ち、彼はほろ酔い気分になりながらこの蘭亭で詠まれた詩歌の為に詩集の序文をしたためた。天ほがらかに気清く、春風がそよそよと吹いておったそうじゃ。彼はそのただ中にいて、宇宙の大なるを、万物の盛んなるを眺めておった。そして人間の存在に対するほとばしるような悲哀の情をも、彼はこの序文に隠し立てなく書き記したのじゃ。古人へり、死生また大なりと。に痛ましからずや」


 愛弟子は聞き入っている様子だ。


「わしらが初めて会った日、きみはあのベンチに座って雲のむこうの遠い雪山を眺めておった。姿は見えずとも、確かにそこに山はあったのじゃ。そしていま、きみは一枚の紙切れのむこうにその姿を探しておるのじゃ。顔も知らない遠い昔の人じゃ。じゃがわしらはその字を眺めて、遠い昔に生きていた人間の筆づかい、息づかいを感じることができるのじゃ。自分とは縁もゆかりもない遠い世界のことかもしれぬ。じゃがもしかしたら、いまきみが目の前にしている紙切れのむこうのその古人は、雲のむこうに隠れた遠い雪山よりも遥かに近い存在ではないかの?」


 愛弟子は何かを掴みはじめた様子だ。


「まずそれぞれの道があるのじゃ」


 助手は実によくやってくれた。いずれ二人の道の役に立つだろう。そして道を歩みつづける限り、たとえ互いの姿が見えなくなろうとも、筆さえ持てばいつでもこの世界と繋がれるのだ。助手にはよく言う口癖があった。


「わしは遊びが大好きでの。長い人生、たまには遊びも必要じゃ。それに遊び尽くすには、人生短いくらいじゃ――」



「ポーン、ポーンてば。もう、またカウンターの真ん中で寝ちゃってる」

「そっとしといてやろうかの」

「あら先生、お気に入りの席ですのに」

「いいんじゃよ。わしはポーンがいてくれるだけで、嬉しいんじゃ」



 〝古人は言う、死と生と。

  これはにとっての大事であると〟



――王羲之『蘭亭序』353(永和9年) より

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