第18話:娘、初恋を知る
信愛はずいぶんと素直な子に育った。
もちろん、那智が彼女に対して惜しみない愛情を注ぎこんだからである。
小さな頃から、よく泣いて、よく笑って。
感情表現が豊かな子で可愛らしい。
そんな彼女の成長を見守り続けている。
――この子は将来、どういう子になるんだろう。
誰かを傷つけるような生き方をするでもなく。
捻くれて、人生の迷い子になるわけでもなく。
――悔やむことのない素敵な人生を歩んでくれればそれでいい。
きっと自分とは違い、真っすぐに生きてくれるはず。
そう信じて願ってきた。
那智が入院してから、信愛には自立心のようなものが芽生えはじめた。
自分のことは自分でするようになり、家事や料理も覚え始めた。
なお、料理下手は遺伝しなかったようで、すんなりと上達。
――これはいいことだわ。料理センス〇でホントによかった。
料理センス×は正直のところ、生きるのが辛くなるレベルである。
朝食の準備程度は彼女の役目になっていた。
片親であることで、寂しい思いをさせたこともあるだろう。
それでも、反抗期を迎えることもなく親子仲はかなりいい。
「ママ、今日ね。総ちゃんと海に行ってくる」
すっかりと大きくなった信愛は中学生になった。
中学一年生の夏休み。
信愛はにこやかな笑顔でそう言った。
「そう。総司君は泳ぐのが上手だって話でしょう?」
「シアはそこまで上手じゃないからなぁ」
「教えてもらえばいいじゃない」
「総ちゃんですよ? 人に教えるのが下手だもん」
信愛と総司は仲のいい幼馴染だ。
小さな頃からずっと傍にいる兄妹のような存在。
彼女にとっても特別な相手である。
「海の事故は危ないから気を付けてね」
「うんっ。無理はしないのがシア流です」
時々、この子は誰に似たのだろうと思うことがある。
――素直すぎるくらいに素直な子に育ちました。
我が子ながら、本当に不思議なものである。
――子は親に似る、いえ、似ませんでした。
容姿は両親の遺伝子を強く受けている。
だが、性格面では那智のネガティブ思考や、悪女気質など全く受け継がず。
自由奔放、素直さ満点、と誰からも愛される性格だ。
――んー。この子の性格、ホントに誰譲り?
そう思わないこともない。
もちろん、女子を好きになる性癖もない。
「それじゃ、出かけてくるから」
「いってらっしゃい」
「いってきまーす♪」
元気よく玄関から出かけていく娘の後姿を見つめる。
「……くすっ、ホント、可愛い子」
愛娘の成長だけが楽しみなのだ。
那智が仕事を終えて家に帰ってくると、
「ただいま」
「おかえりなさい、ママ」
ちょうど信愛の方も帰ってきたようだ。
ソファーに寝そべるようにして、ゆったりしている。
遊び疲れた顔をする娘に、那智は優しく声をかけた。
「どうだった、海?」
「久しぶりだったけど、海って最高」
「日焼けしないでよかったね」
「その辺はばっちり対策してたから」
信愛も那智と同じで肌が白いために日焼けは目立つ。
「でもね、ナンパはよくされました」
「信愛、可愛いもの。当然だわ。でも、変な相手にはついていかないように」
「分かってるよ。全部、断ったし。だけど……」
信愛はふいに頬を押さえて、どこか嬉しそうに、
「総ちゃん、シアのことを守ってくれた。ふふっ」
「総司君。ちゃんと番犬代わりになってよかったわ」
「なんていうのかな。頼りになる感じ。再確認できてよかった」
昔から兄同然に慕う相手だ。
しかし、その信頼は信愛の中にある感情を芽生えさせる。
「……今日の総ちゃん、すっごくカッコよかった」
押さえた頬が赤らんでいる。
信愛は照れた表情をしながら那智に言うのだ。
「あのね、ママ。シアは総ちゃんが好きなんだ」
「え?」
「多分、だけど。シアの人生、初めての恋なのかも」
「恋愛的な意味で?」
こくんっとうなずく娘。
今までも好きだ、好きだと口では言っていた。
それは恋愛感情の意味ではなかったが、どうやら変わったらしい。
「恋するってこういう気持ちなんだなぁ」
「……そっか、そっか」
「ママ?」
「よかった」
そう言って、那智は信愛の身体をぎゅっと抱きしめる。
「ふぇ?」
いきなり抱きつかれて、きょとんとする。
困惑する彼女をよそに、那智は「ホントによかった」と安堵するのだ。
――私の子供だから、恋愛なんてできないかもしれない。
そう思い、どこか恐怖に似た気持ちを抱いていた。
――でも、ちゃんと誰かを好きになれた。
それはある意味で、呪いから解放されたような気持ち。
――私の育て方、間違ってなくてよかった。
抱きしめられている信愛は不思議そうに、
「どうしたの、ママ」
「何でもない。そっかぁ、信愛も恋する時期になったんだって」
「総ちゃんのこと、前から好きだったけど、今は意味が違う気がする」
「うん。恋心に変わったんだ。信愛、その気持ちを大事にしなさい」
恋心を自覚した娘に自分が言ってあげられることは何だろうか。
――そうね。アドバイス、アドバイス……あら?
人生を振り返り、ろくな恋愛をしていないと思い返す。
――あ、ダメだ。私の恋愛経験で、何を言えばいいのか悩む。
恋も愛も、まともな経験がなかったので凹む。
そんな人生経験は棚にあげて、一般論として那智は信愛に言う。
「ねぇ、信愛。心に嘘をつかないように」
「嘘を?」
「恋愛ってやっかいだもの。嘘をついて、誤魔化しちゃうときもある」
自分はそうだった。
最後の最後まで、本当に好きな相手に好きとは言えなかった。
――言っていればよかったわけでもないけども。
ただ、想いに区切りをつけられたかもしれない。
「シアは自分を素直な子だって思ってますよ?」
「そうね。貴方は貴方らしく素直で真っすぐ、それでいいの」
素直さと純粋さ。
それが信愛の持つ魅力だ。
「総ちゃんからは素直すぎると言われます」
「それでいいのよ。恋も欲望も素直で悪いことはない」
「……ママはもっと素直になってもいいと思うの」
「ん?」
「自分の気持ちとか、素直になったら楽しいよ?」
信愛から見ても、自分はそう見えているのだろうか。
娘の言葉に那智は苦笑いしつつ、
「こらぁ、生意気なことを言わないの」
ふにっとその頬をつまみながら、
「でも、娘から恋愛相談されるなんて。もうそんな年かぁ」
「ママの初恋は? 聞いてみたーい」
「ふふふ……教えません」
「なんでぇ!?」
相手が相手だけに、教えられるはずがないのである。
「私は自慢じゃないけど、ろくな恋愛をしてません」
「ホントに自慢じゃなかった」
「だから、信愛にはちゃんと幸せな恋愛をしてもらいたいの」
母として望むのはそれだけである。
成功も失敗も、苦い経験も楽しい経験も、恋愛は色々教えてくれる。
「存分に恋を楽しみなさい。私が言えるのはそれだけよ」
「うん、頑張る」
「よーし、今日は信愛の初恋記念に外食でもしましょう? 何食べたい?」
「ホントに? えっとねぇ、駅前のスペイン料理店のパエリア食べたい」
「……チョイスがマニアック。いいわよ、パエリア、食べに行きましょうか」
信愛の初恋。
愛娘の幸せを那智は心の底から喜びの気持ちを抱く。
愛を信じられるように。
名前に込めた願い通りに娘はちゃんと成長してくれた――。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます