第15話:そして、彼女は母になる


 病院に運ばれた那智の症状自体はそう大したものではなかった。

 心労と睡眠不足による立ち眩みだ。

 ちゃんと休めばすぐに回復できる程度のもの。

 だが、病院に運ばれたことで発覚した事実もある。


『妊娠2ヵ月目ですね』


 そう、那智は妊娠していた。

 さすがに異変がただの体調不良ではないと彼女も気づいていた。

 八雲と関係を持った時から、そうなることを望んでいた気持ちもある。

 好きな相手との間にできた子供。

 それに内心は喜んだものだ。

 終わったと思っていた八雲との間に新たな絆が生まれたのだから。

 しかし、それを許さなかったのは那智の両親だった。

 ただでさえ、引きこもりを続けたことでお互いに険悪な関係だ。

 理解などされるはずもなければ、受け入れてもらえることもない。

 当然のように衝突し、言い争う毎日。

 静流も今回のことには味方にはなってもらえず。

 その果てに家を飛び出すことになった。

 何もかもを失い、どうしようもなくなった。

 バッドエンドまっしぐらの人生。

 そんな彼女が最後に頼ったのは……。

 

 

 

 

「こんな感じでいいかしら?」


 数ヵ月の時が過ぎ、那智のお腹も目に見えてふっくらとしてきた。

 自分の中に新しい命がいる。

 それはとても不思議な気持ちだ。

 キッチンで包丁を手に野菜を切りながら、「どう?」と尋ねる。

 以前とは違い、綺麗にカットされた野菜たち。

 慣れた手つきで料理をする姿はかつて、”料理部史上最悪の料理人”の汚名を返上する。

 その様子を眺めていたのは彼女の祖母だ。

 

「いいわ。ずいぶんと上達したわね、那智ちゃん」

「おばあちゃんのおかげよ」

「味付けの方もちゃんとできるようになってきたし、一安心ね」

「ありがと。この私が料理を覚えられるなんて奇跡だわ」

「日々の積み重ねよ。何でも練習すればできるようになるもの」


 祖母は彼女に優しく笑いかける。

 ここは都会から離れた片田舎の町。

 どこにも行き場のなくなった那智が頼ったのは遠方に住む母方の祖父母だった。

 昔から彼女は彼らを慕い仲良くしていた。

 最初は少しだけ泊めさせてもらう予定だったのだが、話を聞いた祖父母は「ここで暮らしなさい」と彼女を留めたのだ。

 可愛い孫を路頭に迷わせたくない。

 下手に自分たちの手元から離れてしまうのを危惧したのだろう。

 那智の方も生活拠点もなければ金銭面に余裕があるわけでもない。

 結局、祖父母の好意に甘えることになった。


――私、そういうところ、成長してない。


 反省しつつも、素直に厚意には感謝する。

 祖父母も孫と暮らすことができるのは嬉しいことだった。

 いろいろと那智をサポートしてくれている。

 料理を教えてくれるのもその一つだった。

 祖母の指導もあり、数ヵ月かかったが人並みに料理ができるようになった。

 

「下手すぎて、素材をそのままかじるだけが幸せだと思えた時期が懐かしい」

「そんなにひどかった?」

「私が引きこもりした話はしたでしょ。一番、最悪だったのは食事よ」


 食事が一番大事なのは身をもって知っている。


「作る量がまず過ぎて、そのまま素材をかじって生き延びた」

「カップラーメンとか冷凍食品とかは?」

「買えたら買ってた。家から外に出ることがなかったの。うちの人達、薄情者だから、そういうエサを用意してくれなかったのよ。ひどくない?」


 買いに行けるのならそうした。

 あの頃の那智は外に出るのも億劫で、家にある食材しか使えなかったのだ。


――料理ができるって素晴らしい。


 そんな暗黒時代を経て今がある。

 こんな風にちゃんとした料理ができるようになるなんて想像すらしていなかった。

 

「生まれてくる赤ちゃんにはちゃんとしたものを食べさせたいもの」

「……本当に頑張ったわ」

「おばあちゃんも大変だったよね、ごめんなさい。そして、ありがとう」

「気にしなくていいわ。私は経験してるから」

「経験?」


 料理が下手な那智に一から料理を教え込む。

 それはもう苦労の連続だ、教える方だって心が折れそうになる。

 並大抵のことではなく、相当に大変だったのだが、彼女は気にしていない。

 なぜならば、それは――。


「だって、貴方のお母さん。あの子に料理を教えたのも私だもの」

「お母さんに?」

「あの子も昔から料理だけは下手でね。あの子の方が苦労したわ、ふふっ」

「……料理下手は遺伝だったんだ」


 聞けば、母も相当に下手だったようだ。

 なんとか料理を教えようとしても挫折の連続。

 それが、那智が生まれてから急に料理を作れるようになったらしい。


「料理が上達する一番のコツは、他人のために作ることなのよ」

「美味しく食べてもらいたいから?」

「そう。那智ちゃんが子供のために覚えたいと思ったように」

「確かにそうかもしれない」


 好きな人、子供のためなら人は頑張れる。


「おかげで、今ではちゃんとしたものが作れます」


 レベルアップした那智は自信がついた。

 これならば、子供にも美味しい料理を作ってあげられる。

 野菜をお鍋にいれて、煮込み始める。

 煮物ができるまであと少し、その間に他の料理を仕上げてしまう。

 経験がものをいう、それが料理。

 上達するにはひたすら向き合い、経験を積むしかない。


――昔の私はそれが足りていなかったのよねぇ、多分。


 レベル1か2程度でレベル40必須の料理を作ろうとしてたのが間違いだった。

 基礎から教わり、ちゃんとすれば那智でもできるようになる。


「赤ちゃんの性別、女の子だってね」

「うん。すくすく育ってくれてる。名前も決めなくちゃ」

「どういう名前候補を考えているの?」

「んー」


 祖母からすればひ孫の誕生は期待と希望に溢れている。

 早く生まれてくるのを望んでいた。


「そうね、私的にはシェリーとかマロンとか可愛い名前をつけてあげたい」

「――!?」

「やっぱり、名前は親が最初に与えてあげるものでしょう。名前って大事よね」

「う、うん。そうね。だから、もう少しちゃんと考えましょう?」

「え? ダメだった?」


 名前センスのなさに定評のある那智である。

 平気で猫にポテトサラダとつけてしまう。

 その感覚で実子も……いや、それは非常によろしくない。

 今どきのキラキラネームでも限度はある。


「他にもジュリアとかエメラルドとか……」

「……こ、これはいけないわ」


 ドン引きする祖母は変わった名前を付けるようなら阻止すると決めた。

 

 

 

 

 妊娠中、ずっと考えていたことがある。

 生まれてくる子供は果たして、那智を愛してくれるかどうか。

 もちろん、那智は子供を愛する。

 だが、不安がないわけではない。

 親と子の関係は必ずしも良好なものだとは限らない。

 些細な事で不信感を抱き、関係が破綻するのも珍しい話ではない。

 那智自身、親とは不仲だったためにそこに自信がないのだ。


――子供から愛されるような親になりたい。ならなくちゃいけない。


 同じような辛い思いをさせたくない。

 そんな期待と不安が入り混じる。

 それは、親ならば誰しもが感じることなのかもしれない。

 だけど。

 病院のベッドで、那智はうっとりとした顔をする。


「……可愛いらしい女の子」


 先ほどまで泣いていた姿と違い、今はぐっすりと眠っている。

 小さな命が今、那智の腕の中に抱かれている。

 身体は小さいながらも、無事に生まれてきた女の子。

 その寝顔を見ていれば、不安なんて吹き飛んだ。


「私と八雲君の子供。ふふっ」


 自分が一人の子供の親になった瞬間の喜び。

 生まれたばかりの娘の寝顔を見つめていると祖母から尋ねられる。

 

「那智ちゃん。子供の名前は決めた?」


 マカロン、エクレア、ザッハトルテ等々、変な名前の場合は全力で阻止する覚悟。

 そんな祖母の考えをよそに、意外にも那智は普通の名前を口にする。


「決めてるわ。この子の名前は信愛|(しあ)。愛を信じる、信愛よ」

「信愛か。とってもいい名前ね」

「私は愛を信じられなかった。でも、この子には信じてもらいたい」


 人を愛することの幸せを。

 誰かを信じて寄り添うことの意味を。

 自分はそれができなかったから、娘には違った人生を歩んでほしくて願いを託す。


「信愛。私の可愛い信愛。生まれきてくれて、ありがとう」


 そう言って娘に微笑む那智の表情はすっかりと母の顔をしていた。

 信愛が生まれた日。

 那智自身の人生を変えた日になったのだ――。

 

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