第9話:居心地のいい関係


「お姉ちゃん。少しずつ、ちゃんと歩けるようになってきたね」

「……散歩に付き合ってくれている静流のおかげだわ」


 あれから一ヵ月が経った。

 那智の心境もほんの少しながら変化が生まれいてる。

 引きこもり生活の改善だ。

 毎朝、静流と家の近所を散歩するようになっていた。

 おかげで体力はちょっとずつ取り戻せてきている。


――静流とも、仲直りできたもの。


 和奏のせいで姉妹の絆にも亀裂が入っていた。

 一時期は修繕不可と諦めかけていたものである。

 引きこもりになり、何もかも拒絶していた那智をずっと静流も心配していた。

 今では、散歩に付き添ってくれるほどに改善もできた。


「やっぱり、先輩に頼んでよかったかな」

「……八雲君ねぇ。あの人、かなり強引なんだけど」

「思いやりのある方でしょ。お姉ちゃんのこと、すっごく心配してくれてたの」

「どうかしら」


 正直なところ、八雲の心情が那智には理解できない。

 彼には恨まれるようなことしかしていなかった。

 大切な恋人を奪いとったのは自分だ。


――それでも、私を何とかしてあげようと思えるなんて。


 時間が経過しているとはいえ、許されるのもおかしな話だ。

 まったく、お人好しという以外に言葉が思い浮かばない。


「お姉ちゃん。今の髪型、似合ってるよ」

「……ありがとう。美容師さんがとても綺麗にカットしてくれたの」

「私、お姉ちゃんがまた外に出ようとしてくれたのは嬉しい」

「自分ひとりでは、出ようという気にはなれないんだけど」


 一度壊れてしまったものは本当の意味で元には戻らない。

 ひび割れたまま、誤魔化し続けていくしかないのだ。

 対人恐怖という心の病と向き合い続けていかなくてはいけない。


「また明日くらいに先輩と出かけるんでしょ」

「なんで、あの人、私なんて気にかけるのかしら」

「そういう人なんだよ。私も、浩太先輩のことを相談したりするもの」

「……」


 心の底から「別れた方がいいのに」と叫びたい気持ちを堪える。

 この話題をするから姉妹仲がこじれたのだ。

 かつて、那智が少しの間だけ付き合って、裏切られた男。

 それが大倉浩太であり、那智の因縁の相手の兄でもある。


――消え去れ、悪魔め。


 可愛い妹に手をつけるなど、言語道断。

 ふたりの交際に猛反対したのだが、思いもよらぬ状況に。


――まさか静流が彼にどっぷりと惚れこむなんてね。


 恋を知らない乙女が恋を知ってしまった。

 交際に反対しようとすればするほど、反発を生み、喧嘩に発展。

 その結果、姉妹の仲は悪化してしまったのだ。


――悔しいけども、今の関係を維持するためには認めるしかないの。


 この世から消したい奴、ナンバー2の浩太が嫌いだ。

 でも、話を聞いてる限りはまともに静流と付き合っている様子。

 彼女が浩太と付き合って幸せならば、もう那智は何も言わないと決めていた。


――もしも、不幸にした時には、私がアイツを消せばいいだけのこと。


 いざという時は本気でやるつもりの那智であった。


「貴方のために名門大学に入ったそうよ」

「あはは……いつも言ってくれてる。私を幸せにするために頑張るって」

「妹から惚気を聞かされるなんて。私も年を取ったわ」


 引きこもっていた時間は永遠のように感じた。

 光の見えない暗闇。

 終わらない日常を繰り返す日々が終わった。

 まるで牢獄から抜け出せたような感覚。

 その意味では素直に那智は八雲に感謝している。


――自分じゃ一歩も踏み出せなかったもの。


 多少の強引さはあったが。


「神原八雲。変な人よ」


 運命の悪戯か、那智の人生に関わることになるなんて。

 八雲の存在が自分の中で、特別なものになり始めていた――。

 

 

 

 

「何かあればすぐに言ってくれよ」

「分かってるわ。自分に無理はしない」


 その日、八雲が那智を連れて行ったのは地元で人気のカフェだった。

 ここは彼女も何度か訪れたことのある場所だ。

 しかし、心の不安を抱える彼女には難しい。

 賑わう店内の雰囲気。

 人間嫌いとなった那智にはこれも訓練みたいなもの。

 そう思っても、心が中々追いつかない。


「私は爆弾持ちみたいなものよ。いつ、また爆発するか分からないの。リハビリと言って連れまわしてくれるのはもう諦めたけど、ハードルが高すぎるのも勘弁してもらいたいわ」

「それだけ話せるせるようになったら、俺としては一安心だよ」


 再会した当初はぼそぼそと一言、二言呟く程度だった。

 今や、多少なりとも悪態をつけるだけマシだ。


「本当に不思議なのだけど、私、八雲君とだけは自然と悪態つけるのよ」

「悪態つくのをデフォにされると困る」

「そう言えば中学の時も、何となく話してた時期ってあったわよね」

「あー、そうだったかな」


 ふたりは友人ではなかったが、顔を合わせば適当に話すような仲だった。

 どちらも意識していたわけではないが。

 

「よく他愛のない会話をしていたな」

「そうそう。貴方が仲良すぎた大倉浩太と噂になっていた時期に」

「ねぇよ。勝手にボーイズラブな噂を流そうとしてたのは那智だ」

「……そうだったかしら」


 当時はまだ進路を決めようとしていた。

 浩太は仲のいい八雲と同じ高校に入ろうと頑張っていた。

 それを那智は何かと『八雲ラブ。愛されてるわね』と揶揄していたのだ。

 それから数年後、こんな風にデートを重ねる関係になるとは想像もつかない。


「ところで、こんなところを恋人に見られたら修羅場じゃない?」

「……なぬ」

「そうね。それはいいかもしれないわ。私なりにあの女を苦しめられるかもしれない。私との関係を適当にでっちあげてみる?」

「や、やめてください。俺、和奏にやられる」

「私も困るわ。正直、一人じゃ外に出られないもの」


 ただでさえ、那智の精神状態には波があるのだ。

 今は平常でも、突然、言いようのない不安が心に侵食してくる。

 モヤモヤとした黒い影が迫るようなイメージ。

 ネガティブウエーブは突然に。

 その度に那智は深く落ち込んでしまう。


――心の病は簡単に治るものではないわ。


 だが、八雲が一緒にいる時は、その波も小さくなる。

 あまりにも不安が強い場合は、彼が手を握り、安心させてくれることもある。


――私、完全に彼に依存しはじめてる。


 これは困った、と思い始めていた。


「貴方には感謝してるのよ。おかげで、私は今、こうして久々のパンケーキを食べることができているんだもの」

「そりゃ、よかった」

「……うん、美味しい」


 甘いハチミツとたっぷりの生クリームが乗せられたパンケーキ。

 久しぶりに食べることができて満足だ。


「この一年間、食事とかどうしていたんだ?」

「それ、聞きます?」

「……聞いちゃまずいのか?」

「初めの方はこっそり夜に抜け出して、コンビニのお弁当生活していたわ」


 しかし、精神的に参り、外へも出づらくなってしまった。

 完全な引きこもり生活の始まりである。


「親は食事を作ってくれなかったのか?」

「私が拒否していたのよ。高校退学はさすがに親から見放されたもの」


 期待を裏切ったことで、罵詈雑言を浴びせられての大喧嘩。

 完全敵対状態、今も顔を見合わせれば喧嘩ばかりしている。

 とはいえ、これは親の問題だけではなく、何度も差し伸べてくれた手を振り払い続けてた、那智にも非があることなのだが。

 当初は料理も作ってくれていたが、仲違いしてからは拒否してきた。


「というわけで、夏くらいからは家の外にも出なくなったの」

「え? じゃ、どうしていたんだ?」

「もちろん、自炊しかなくなるわよね」

「――!?」


 驚くのも無理はない。

 あの料理部史上、最も料理センスがないと言われた那智である。


「誰もいない時間帯に、家の食材を勝手に使い、自炊をしていたわ。知っての通り、私は料理が下手なのよ。あとは想像できるでしょ」

「えっと……上達くらいはしたのかな」

「ふっ。数ヵ月続けた結果、どうしようもないくらい下手なまま。作る料理は激マズ。美味しくもない料理を涙目になり食べ続けていたわ」


 人は生きるために食事をしなければいけない。

 自炊地獄、続けたところで料理はうまくならず。

 顔色を曇らせて俯き加減になり、過去を思い出しながら、


「食事は楽しいものではなく、試練だと思うようになったわ」

「終わってますよ、それ」

「自分の激マズ料理にダメージは蓄積。病んだ心がさらに悪化したもの」

「ダメじゃん」

「むしろ、何もせず素材だけをかじっていた方が幸せと思い始めてた」

「どこのホライズンだよ」

「はぁ。才能がないって悲しいわ」


 食事量は一気に減り、一日に一食に。

 当然のことながら、体重は目に見えて減り、栄養失調寸前だった。

 八雲が知らない間に、那智の人生はどん底に落ち込んでいたのだ。

 家族としては冷蔵庫の中の食材が減る度に、ちゃんと食事をしてるのだとある意味で安心していたのだが、その食材すらも減らなくなってしまい、大慌て。

 家族会議の末、静流を部屋に派遣し無事に生存を確認したのであった。


「ある日、あの子が泣きそうな顔をして『お姉ちゃん、生きてたぁ』って」

「そのレベルかよ!?」

「今は静流と仲直りできて、あの子が毎晩、手料理を作ってくれるの。おかげで食生活は改善した。きっといいお嫁さんになるわ」

「……浩太の?」


 さらっと呟いた一言に那智は無言で八雲の頬をつねるのだった。

 嫌な未来を想像させた罪は重い。


「んー、この甘さがたまらないわぁ」


 ふんわりパンケーキにご満悦。

 那智は食べ終わったあと、笑みを浮かべながら、


「生きていてよかったぁ」

「……なんでだろう。すごく重みを感じる一言です」

「人が良くなると書いて食べる。食べることに絶望したら人は死ぬわね」


 美味しく食べられるものがあることに感謝しなければいけない。

 コーヒーカップに口をつける八雲に視線を向ける。

 ジーっと見つめられて、彼はどこか照れくさそうに、


「何っすか。そんなに見つめられても困る」

「不思議だなぁって思うのよ」

「何が?」

「こうやって、無理にでも外に連れ出されたことで、私の人生が好転してくれた。精神状態もいい方向に回復してる気がするもの」

「それは何よりだ」

「連れ出された当初は、こいつ、呪ってやろうかしらと本気で恨んだこともあったけども、それは些細な過去の思い出ね」

「怖いわっ」


 八雲によって強引に連れ出されて、外の世界に再び触れた。

 そのことがきっかけで、止まった時間が少しだけ動き出した。

 自分では踏み出せなかった一歩を、踏み出せたのには感謝しかない。

 例え、そのきっかけを作ることになった相手だとしても。


「……ありがと」

「どういたしまして。定期的にこれからも連れだすことにする」

「そうしてくれると助かるわ。ただし、浮気と誤解されて貴方の人生を破滅に追い込んでも私を恨まないでくれるかしらぁ」

「それ、バッドエンドじゃん」

「あの子に後悔するほどの絶望を与えてやりたいけども、今の私には無理ね」

「何もしないで。大人しくメンタルを回復してください」


 ポンっと軽く那智の頭を撫でる。


「……んっ」


 その手に触れるのが彼女は好きだった。

 居心地のいい関係。

 今の二人を表すには最適な言葉なのかもしれない。

 ただし。

 その関係が今後の“人生”において、“よかった”かどうかは別として――。

 

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