第9話:ずっと前に約束したよね


 信愛が総司を好きになったのは小学三年生の時だった。

 それまで彼は幼馴染であり、お兄ちゃん的な存在でしかなかった。

 頼れる幼馴染が大好きな男の子に変わった。

 少女の心に恋が生まれたのは、ある日のことである。

 信愛は女の子の友達の家にお泊りをすることになった。

 その一夜で体験したのは自分が知らなかった家族の在り方だった。

 彼女は生まれた時から片親で母親の温もりしか知らない。

 親戚とも縁がなく、家族という形を本当の意味で知らなかった。

 お父さんがいて、お母さんがいて。

 優しく包み込んでくれるような家庭があって。

 そんな温もりを彼女は傍目に見て、愕然としたのだ。

 知らなければ、そこに憧れることもなかったのに。


 “家族”。


 それは信愛にとって、ただの憧れではなかった。

 自分にはないもの、願っても手に入らないもの。

 普段からいくら那智が娘を可愛がっていても両親が揃う家族の温もりには及ばない。

 信愛の羨望は同時に言いようもない悲しみを生んだ。


「いいなぁ、シアも家族が欲しいなぁ」


 家族に囲まれる温もりが欲しい。

 那智は家に帰るのが遅く、学校から帰ると家にひとりでいる時間が長かった。

 それを那智本人に愚痴ることはなかったが、信愛はずっと寂しく思っていた。

 幼い少女の心に寂しいという感情が生まれて、根付きかけていた。

 しばらくして、総司は信愛の異変に気付いていた。

 いつも笑顔ばかりの女の子の表情が、数日の間は曇りがちだったのだ。

 理由を尋ねた彼に信愛は本音をさらけ出す。

 

「あのね、シアも家族が欲しいんだよ」

「家族? おばさんがいるだろ?」

「違うよ。総ちゃんにはシアの気持ちは分からないもん」


 両親がいることが当たり前の子供には理解できないもの。

 両親や兄弟、家族とはこういうものだと知ってしまった。

 それゆえの、ないものねだりなのだ。

 知らなければよかった、と後悔する信愛に対して総司は、

 

「だったら、うちに来れば? 寂しがりやなお前を構ってやれるよ」

「え? 総ちゃんの家に? で、でも迷惑じゃ」

「兄貴も母さんもお前の事を気に入ってるし。それに俺もいるだろ」


 総司は信愛の寂しさを感じ取った。

 それからは自分の家によく彼女を連れていくようになった。

 これまでは、ただのお隣さんだった総司と信愛。

 この件がきっかけで家族ぐるみでの付き合いを始めたのだ。

 総司の兄は信愛を妹のように可愛がり、杏子も信愛を娘同然に扱うようになった。

 そして、総司自身もそれまで以上に信愛と触れ合う時間が増えた。

 信愛にとって新しく家族が増えたようなものだった。

 その温もりは憧れていたもの、そのものだ。

 いつしか、彼女の抱えていた寂しさは消えていた。

 そう、彼女にも“家族”がいることが当たり前になっていたのだ。

 総司が信愛に与えてくれたのは家族の温もりだけではない。

 

「いつか、信愛は本当の“俺たちの家族”になるんだよ」

「本当の? それっていつ?」

「それは……俺たちが大人になったらの話だよ。ちゃんと覚えておけ」

「うん。約束だよ、総ちゃん」

「あぁ、約束だ」


 総司が恥ずかしそうに言葉を告げてくれた。

 未来への希望、不器用な優しさ。

 ふたりだけの約束が結ばれた。


「ありがと、総ちゃん。えへへっ」


 いつしか、大好きな男の子として信愛は惹かれていくことになる。






 翌日、信愛はまだ例の発言を気にしていた。


「総ちゃんが浮気したいって言い始めてぇ。もう、どうすればいいかわかんない」

「マジで? あの総司さんが? 意外といえば意外だけど、最低だね」

「ふたりって中学からの恋人なんでしょ? ここにきて破局危機?」


 信愛は友人たちに囲まれながら愚痴る。

 総司は離れた場所で男子たちと談笑しており、こちらに気づいていない様子だ。


「ぐすっ。いきなり、総ちゃんがシアに距離を置きたいって言ってきたの」

「うわぁ、乗り換えるつもりじゃん」

「誰か特別な相手がいるとか? 浮気男とか死ねばいいのに」

「自分勝手なひどい人。そんな男なんて思わなかったのに」


 彼女にとって総司の悪口を言う事なんて滅多にない。

 それゆえに簡単に周囲の人間は信愛の言葉を信じた。

 やがて、噂が噂を呼び、背中に尾ひれどころが翼がついて噂が飛び回る。


「片桐の野郎のせいで、水瀬さんがひどいめにあってるらしいぜ」

「俺が聞いた話だと嫌がる彼女に無理やり夜な夜な関係を強いてるとか」

「無理やりかよ。前から知ってたけど、ホントにひどい奴だな」


 一つの嘘という雨の滴は、時間が経つにつれて嵐となり始めていた。

 もう誰にも止められない。

 あとは好き勝手に噂が流れていくだけだ。

 総司がその噂に気付いた時には、手遅れになっていたのだった。






「おい、信愛。どういうことだぁ!?」


 ようやく総司の耳に噂が届いたのはその日の放課後である。

 慌てふためき、詰め寄ってきた。

 すぐさま、彼は周囲にクラスメイトによって確保されて身動きを封じられる。


「変態め、信愛ちゃんには近づけさせんぞ。確保!」

「ぐっ、は、離せ!?」

「ええいっ。おとなしくしろ、この変態野郎。警察に突き出してやるぞ」


 男子生徒たちに両腕をつかまれて拘束される。

 そんな総司に信愛はいつも通りに無垢な笑顔で尋ねる。


「なぁに、総ちゃん? どうしたのぉ?」

「お、俺が信愛に夜な夜な関係を強いて、子づくりしてるとか馬鹿な噂が流れてるんだが! 知らない女子生徒に“色情魔”って蔑まれた。変な噂を流すんじゃないっ」

「噂じゃないもん。ホントだもん」


 しれっと信愛は告げると、クラスメイト達の前で暴露する。


「昨日、総ちゃんも思い出せって言ってたじゃない。ずっと前に約束したよね」

「え?」

「いつかシアと赤ちゃん作って、家族になろうねって。約束してくれた」

「……ぁっ……!?」


 信愛の爆弾発言に総司は頭が真っ白になった。

 

「そ、それはそうだが」

「だからぁ、それを実現させたいために、ちょっと噂を流してみました」

「やりすぎだぁ!?」


 噂が真実であったのだと、クラスメイト達もドン引きだ。

 

「はぁ!? 片桐、性的暴行疑惑は本物か!」

「最低。ゴミ屑同然じゃない、この男。去勢してやりたい」

「大丈夫、信愛さん?」

「恋人同士でも無理やりされたら性的暴行で訴えれるんだよ?」

「変態男め。信愛ちゃんに近づくなぁ!」


 完全に総司はクラスメイトを敵に回してしまったのである。

 毎日のように子作りしてる、強引に関係を求めて嫌がると暴力に出る。

 あちらこちらで適当な噂が暴れまわっている状態だった。

 背筋が冷たくなるのを感じつつ、総司は信愛に言うのだ。


「昨日、約束を思い出せって言ったのはそういう意味じゃない」

「分かってるよ。嬉しかったなぁ。シアのこと、ちゃんと愛してくれてるの」

「だったら、なんでこんな真似を?」

「――だとしても、あの例の発言は許せると? それとこれは別でしょ?」


 絶対零度の氷結のような冷たさを持つ瞳だった。

 有無を言わさない威圧感に総司は「あ、あぁ」と唖然とするしかない。


――やっぱり、許してくれてなかった! すみませんでしたぁ。


 どれだけ謝罪をしても、覆せないほどの大失言であった。

 信愛にとって、どうしても許せないものだったのだ。


「ただでさえ、あれだけ可愛い子を独占してると思いきや、強引に関係を強いてるとは何事だ。羨ましい、じゃなくて、この卑劣男めっ」

「ええいっ。表に出ろ、片桐。俺たちが成敗してやる!」

「今日という今日は許さんぞ」

「ま、待て。お前ら、本気で……うぎゃー!?」


 総司は男連中に引きずられて、廊下に放り出されてしまった。

 ひどい目にあわされている様子が音だけ伝わってくる。

 その様子を見て、こっそりと信愛は口元が緩んでいた。


――シアを怒らせたらどうなるか思い知ってよね、総ちゃん?


 そもそも、総司と信愛では人気の違いもあり、かなりの格差がある。

 嘘一つ、それを信じるのも信じないのも、どちらの言葉を信じるかだ。


――シアから距離を置きたいなんて言わせない。


 あの発言が彼女の怒りに火をつけたのだ。


――浮気したい、距離を置きたい。愚痴でも、総ちゃんの本音だから。


 倦怠期のせいで、正しい判断をできず。

 総司が呟いた失言が信愛にとっては恐怖でしかなかった。


――総ちゃんを失いたくない。もう二度とあんな発言をさせてなるものか。


 総司の学校での人間関係を全部壊して、孤独に追い込んでしまう。

 その上で、信愛が全てを許す形で総司を受け止める。

 そうすれば、二度と信愛に対して変な発言をしたり、距離を置くこともない。


「総ちゃんはシアだけのものなんだからね?」


 薄ら笑いをする信愛。

 一途な想いは裏切られると暴走を始めてしまうもの。

 倦怠期をきっかけにして、信愛の逆襲が始まった。

 

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