第8話:見えない悪魔の手


 水瀬信愛、本日は人生で一番の怒りを抱いた日である。


『ホントに浮気するぞ。アイツと距離を置こうかな』


 まさかの総司からの発言に怒り心頭。

 憤りを隠せない信愛は断固として猛抗議する。


「総ちゃんがぁ、シアを捨てて他の女の子に乗り換えようとしてるんですぅ」


 総司相手ではどうにもならないと判断するや、総司の母に泣きつく。

 杏子は困り果てた顔をして泣きつく信愛をなだめるのだった。


「信愛ちゃん、落ち着いて? うちの総司が信愛ちゃん以外の女の子を好きになるわけもない。話を聞く限り、別れ話ではないようだし」

「……でも、距離を置くっていうのは別れ話の始まりでしょう? 離婚だって別居してから、多額の慰謝料を要求する算段に利用するんでしょう?」

「そ、そうね。なんか信愛ちゃんの口からそれを聞くのはとても悲しいけども」

「もうダメだぁ。シアのこと、嫌いになっちゃったんだぁ」


 完全にパニックに陥る信愛である。

 信愛にとって総司は愛するべき存在であり、心の支えそのものである。

 彼への依存度は計り知れなく、その相手からの拒絶には耐えられない。

 

「……まったく、あの子は何をしてるのかしらねぇ?」


 杏子は今にも泣きそうになる信愛を慰めるのに必死だった。

 総司はといえば、信愛の怒りをモロに受けてしまった。

 具体的に言うと、執拗に容赦のない“下腹部”への攻撃を食らい、ノックダウンして未だに帰ってこれずにいた。

 現在、痛みに悶絶しており回復中の様子である。


「……総ちゃんに捨てられたら、シアはどうすればいいの?」


 言葉に仕切れない不安が信愛へと襲い掛かる。


「嫌だよ、総ちゃんを失いたくない。そんなの、怖いよ……」


 どうしようもない絶望感と危機感。

 信愛にとって、総司という心の支えを失うのは先の見えない未来と同じである。






 総司は下腹部に受けたダメージがかろうじて回復してようやく家に帰ってきた。

 

「ちくしょう、信愛め。油断してたわ。いきなり、総攻撃してきやがって」


 さすがに不意打ちで連打されると、男としての弱点は効果的で動けなくなる。

 今もじんわりと痛みの余韻があり、回復に時間がかかったのもしょうがない。


「ただいまぁ」


 玄関で出迎えた母はとても複雑な顔をして、


「おかえり、総司。貴方、来月からのお小遣い全額カットよ」

「なんで、そうなった!?」


 家に帰ってくるなり、総司は母親から小遣いの全額カットを宣言される。

 理由はもちろん、信愛を傷つけたことである。


「総司、浮気は最低よ? 信愛ちゃんを泣かせて、他の女の子に手を出すなんて」

「してないっての。信愛の話だろ? アイツは誤解してるんだ」

「あのねぇ、総司。信愛ちゃんは貴方の将来のお嫁さんのつもりで、私なりに可愛がってきたのに。それを今さら別れようだなんて……」

「だから、俺は別に信愛と別れる気なんてないから!?」


 別れるという言葉は一度も使っておらず、総司も信愛を捨てた覚えはない。


「その話を知ってるってことは信愛がきたんだろ? まだいる?」

「今日は帰るって拗ねて帰ってしまったわ。総司、謝るのならすぐに謝りなさい。何事も早めの解決が必要なの。今はボヤ程度の火でも、放置すれば大炎上するものよ」

「……分かってるよ。あの発言はただの愚痴だ。本気じゃないのに」


 信愛を怒らせた発言に対しては謝罪するべきである。

 他愛のない冗談のはずが、冗談ではないタイミングで告げてしまった。

 

「それにしても倦怠期と思ってたら、浮気相手がいるのね」

「違います。人の話を聞いてよ、母さん」

「まったく、誰に似たのかしらねぇ? 浮気なんて隠してもバレるものよ?」

「……その実体験があるような言い方はやめれ。ちなみに親父殿の話でしょうか」


 まったくもって聞く耳持たず。

 総司の立場は完全に悪役ポジションだった。


「母さんは信愛の味方かよ」

「当然じゃない。信愛ちゃんは私にとっても可愛い娘のような存在なのよ?」

「可愛い息子の話も公平に聞いてくれ」

「……総司は可愛くない。昔から生意気だもの」

「はぁ。母上からの信頼のなさを痛感させられるねぇ」


 日々の生活における信頼度は“総司<信愛”のようだった。

 彼はため息をついて夕食を食べることにしたのだった。






 まさに誤算だったのは、例の失言である。

 ただでさえ、まずい状況にガソリンをまき散らした最悪の気分だ。

 大炎上してしまい、燃え盛る炎の中に突っ込むしかない。

 感情的になり、冷静さを失った信愛への対応に苦戦させられる。

 信愛との関係をこじらせてしまい、頭を抱えたくなる悩みである。

 夕食後に総司はお隣の部屋へと向かい、インターホンを鳴らす。

 

「信愛、俺だよ。話をちゃんとしたい」


 扉越しに声をかけると、総司への返答はひとつ。


「嫌だぁ、別れ話なんてしたくないのぉ。うぇーん」


 もはや信愛の中で総司との別れ話が決定的になってるようだ。

 ドアを開けようとせず、扉越しに声をかけるしかない。


「話を聞けって。誰も別れようとは言ってないだろ」

「距離を置くっていう事は別居でしょ? そんなの嫌だぁ。このまま別居を理由に離婚調停の裁判に持ち込むつもりね! 子供の親権は渡さないから」

「……その極端な発想はやめい。結婚もしてなければ、子供いないし」


 冗談めいた口調であるが、信愛はかなり怒っている様子が見て取れる。


「距離を置きたい。その言葉を恋人に告げる意味、分かってるよね?」

「その発言に関しては誤解です。俺にもその気はないっての」


 彼女は溜まりまくったフラストレーションを爆発させて、


「例えば別居。離婚する前の夫婦が冷却期間という理由を装い、のちの裁判という最終決戦において、自分に有利な展開にするための準備期間でしょ?」

「は?」

「つまり、距離を置きたい発言も同様に、油断させて裏では何か企みが……」

「全然ちげぇよ! ドロドロしすぎだ」

「男と女の関係がずっと綺麗なままでいられると? 綺麗な花だっていつかは腐り落ちてしまうもの。愛も同じ。泥沼にハマり、抜け出せなくなることもあるの。愛ってね、幻想であることを知っておかないといつか後悔するんだよぉ」

「……お前はどんな恋愛観をしてやがる。そんな意味あいは全く持ってない」


 完全に余計な誤解をされてしまっている。

 

「距離は置かない。浮気もしない。なので、話をしようじゃないか」

「やだぁ、お願いだからぁ、シアを捨てないでー」

「だから、人の話を聞いてくれ!?」


 信愛の悲痛なる叫び。

 こうなると子供のようで、手の付けようがない。

 その大声の叫びは奇しくも、廊下を歩いていたおばさん連中に聞かれてしまう。


「あら、信愛ちゃんの声が聞こえたわよねぇ? 捨てないでって?」

「片桐さんとこの若夫婦、まさかの破局危機かしらぁ?」

「若い子だものぉ。どうせ、浮気でもされたんじゃないのぉ?」


 噂大好きおばさんたちに遠目からコソコソと噂話をされる。

 総司は「ち、違うんですよ?」と体裁を取り繕うとするも、


「シアよりもあの女を取るのぉ、ひどいよー!」


 信愛の叫び、再び。

 総司は背筋が冷たくなるのを感じた。


「誰だよ、あの女って!? 架空の相手をねつ造するなぁ」


 いもしない相手を作られるとさすがに困る。

 完全にご近所さんを巻き込むつもりの信愛である。


「やっぱり、そうだわぁ。他の女の子に手を出すなんて、若さも罪よねぇ」

「一途な女の子をポイ捨てするなんてぇ。意外と旦那さんも鬼畜なのね」

「あーあ。可哀想に。奥さん、泣かせちゃってぇ」


 このマンションに住んでいる人間には信愛と総司の関係は周知の事実。

 おばさん達に聞かれた話は翌日には知れ渡っていることだろう。

 ご近所さんの総司への信頼が音を立てて崩れていく。

 

「変な噂を流すのはやめてくれぇ!?」


 明日には総司の風当たりが強くなるのが必須だった。


「おい、信愛ぁ! これ以上、変なことを叫ぶんじゃない」

「知らないっ。信愛は総ちゃんと別れる気なんてないからぁ。ぐすんっ」


 完全に拗ねてしまった信愛である。

 ため息しか出てこない。


「……あのな、例の発言は俺の愚痴だ。本気でもなければ、事実でもない。すまん、忘れてくれ。あれだけは俺の失言だった」

「でも、本音でしょ。信愛を捨てて別の子を好きになりたいってことでしょ」

「それはないってば。俺は今でもお前だけが好きなんだ」


 扉越しに信愛は「ホントに?」と尋ね返す。


「……ホントです」

「今、ちょっと間があった」

「俺にどーしろと!? あぁ、もうっ」


 総司は自分の金髪をくしゃっと掴みながら、


「信愛。よく聞け!」

「子供の親権は渡しませんよ」

「……いや、冗談ではなく。ちゃんと聞いてください。もう疲れてきたんで」


 まだそのネタを引っ張られるのも困る。

 総司は切り札ともいえるある思い出のカギを取り出す。


「こほんっ。俺はあの“約束”を覚えてるぞ」

「……約束?」

「だから、俺を信じてくれ。俺はあの約束を守るつもりだってことも信じてくれ。今日、言いたいのはそれだけだ。また、明日な」


 これ以上は信愛との関係をこじれさせることになる。

 今日は引くしかないと判断した。

 総司の残した言葉。

 あの“約束”という言葉が信愛の中に残り続ける。

 彼が立ち去ってしまったあと、彼女は自分の胸に手を当てながら、


「約束ってあれだよね」


 信愛が総司を好きになった、その理由そのもの。

 ふたりの愛情の始まり。

 忘れることのできない想い出。


「総ちゃん、ちゃんと覚えてくれていたんだ?」


 怒りしかなかった感情に嬉しさが入り混じる。


「約束の話をするってことはシアを嫌いになってないんだよね?」

 

 二人の間に結ばれた“約束”という大切な思い出がある――。

 

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