#04-2 共にいられる幸福


 三人がカフェを出た時には既に陽が沈み始めていた。

 すっかり冷たくなった風に体を震わせる。


「えーと、瀬乃さんって家どっちだっけー?」

「え? に、西町の方です」

「あー、じゃあ、始貴君の家と同じ方向なんだねー! それじゃあ、始貴君! 瀬乃さんの事は君が無事に送り届けてあげてね!」


 やけにわざとらしいカノトの言葉に始貴は怪訝そうに眉を寄せた。


「別にいいけど……カノトは? ……って、そういえば、俺、カノトの家の場所、知らないぞ」

「あはは、そりゃそうだよ。教えてないもん!」

「……いや、まあ、いいけどさ……」

「あ、あの、私、一人で帰れますから大丈夫ですよ!」

『駄目!』


 慌てたように声を上げたつぐみの言葉に始貴とカノトは声を揃えて否定した。

 綺麗に声を揃えた二人はお互いに顔を見合わせる。やがて、カノトがにやりと含みのある笑顔を浮かべて、始貴の背中を押す。


「ほらほら、始貴君。瀬乃さんを待たせたら駄目だよ! それじゃあね、瀬乃さん。始貴君には気をつけてね」

「え? えっと……」

「ああもう、変な事言うな! カノトこそ気をつけて帰れよ。行こう、瀬乃さん」

「え? は、はい。白露君、さよならです」

「うん、ばいばーい」


 にこやかに手を振るカノトに見送られながら、歩き出す。

 数歩、歩き始めて始貴は何かに気付いたようにつぐみから距離を取った。


「ご、ごめん。瀬乃さん。俺と歩く時は1メートルくらい離れてた方がいいかもしれない」

「え?」

「ほら、いつボールとか飛んでくるか分からないし……瀬乃さんが怪我をするのは……嫌だから」


 以前、始貴の不幸に巻き込まれて彼女が怪我をした事を思い出して、彼は表情を歪める。

 つぐみはそんな始貴を目を丸くしながら見ていて、やがて自分から距離を詰める。


「なっ!?」


 慌てて距離を取ろうとした始貴の腕を掴んで、止める。

 近くなった距離で、つぐみは真っ直ぐ始貴を見つめた。

 どこまでも優しい漆黒の瞳に情けない顔をした始貴が映っている。


「大丈夫ですよ」


 始貴が何かを言うよりも早く、告げられた言葉。


「私は大丈夫です」


 もう一度、始貴を安心させるように紡がれる言葉。

 彼女に掴まれた手から伝わってくる彼女の温かい体温。優しく微笑む彼女の顔。

 その事にどうしようもなく恥ずかしくなったのか、始貴は顔を真っ赤にさせて、どうしていいか分からずに視線を彷徨わせる。

 そして、始貴が何か行動を起こすより先に……『彼女』は現れた。


 最初に『彼女』の存在に気付いたのは始貴ではなく、隣にいたつぐみだった。

 つぐみの視線が始貴から外れ、何かを見つけたように動きを止めた。

 そんなつぐみを不審に思った始貴の視線が彼女の視線の先を追って……彼も隣の少女と同様に目を見開いて動きを止める。


 そこにいたのは美しい少女。

 風に揺られるツインテールにされた紺色の髪。本人の意志の強さを表わすような透き通った紫苑の瞳。

 オレンジ色に染まる景色の中、夕日を背にした少女はこの世のものとは思えぬ美しさでそこに佇んでいた。


 その少女は奇しくも一週間前に始貴を非現実的な出来事に巻き込んだ一人であったのだが、あの時はまともに少女の事を見ていなかった。

 夕日によって赤く染まる少女の顔は、やはり見覚えがある気がして、始貴の心が僅かに軋む。

 脳裏に浮かぶ靄を探るように思考の海に沈み込む始貴を現実に引き戻したのは、やはり目の前の少女だった。


「いますぐその子から離れなさい」


 あの夜と同じ凛としたよく響く声。

 その声に現実に引き戻された始貴は、目を見開いて、目の前の少女を見つめる。しかし、少女は始貴の事など目もくれず、強い視線でつぐみを見ていた。


「聞こえなかった? いますぐその子から離れなさい、と言ったのよ」


 何かを警戒するような声。

 何かを忠告するような声。

 その声につぐみが何かを言おうと口を開くのだが、言葉が紡がれるより先に始貴がつぐみを庇うように一歩、前に出る。


「……お前は、何を、言ってるんだ?」


 本来ならば始貴はとっくに逃げ出して

いた筈だ。

 非日常を嫌う彼は、好き好んで厄介事に巻き込まれようとしない。だが、この場にいるのは始貴だけではないのだ。

 つぐみも一緒にいる。

 その結果が、始貴に慎重な判断を下させたのだ。


「これは、忠告よ。その子が大事なら、今すぐその子から離れなさい。巻き込みたくないならね」

「どういう意味だ?」

「……臭いの」

「は?」

「貴方臭いのよ」


 不快そうに眉を寄せる少女は嘘を言っている様子などなく、始貴は思わず自分の匂いを確かめる。

 その行動に少女は訝しげな表情をして、それから合点がいったように手を振った。


「ああ、違う。貴方の匂いじゃない。……とにかく、貴方は狙われている。その子、一緒にいると危ないわよ」


 それだけ言うと、少女は踵を返して、そのまま歩き出してしまう。


「……あ、ちょ、ちょっと待ってくれ! 君は一体……」


 思わず呼び止めた行動に何よりも始貴自身が驚いていた。

 少女は始貴の声にピタリと動きを止めると振り返ることなく、言葉を紡ぐ。


「忠告はした。後は貴方次第よ……始貴」


 それ以上はもう話す事はないとばかりに歩き始める少女に始貴はそれ以上、何も言えずに黙って遠ざかっていく少女の背中を見つめていた。

 そして、隣に立っているつぐみの存在を思い出して、慌てて視線を向ける。


「…………」


 つぐみは何も言わずに少女の背中を見つめている。


「せ、瀬乃さん?」

「っ、は、はい!」


 声を掛ければ、彼女は大きく肩を揺らして、返事をする。

 その反応に始貴は驚きながらも言葉を続けた。


「え、えっと、何かごめん」

「い、いえ、木野枝君が謝る事じゃないです」

「……いまの何だったのかな」


 つぐみに尋ねた所で答えなんて返ってくる筈ないと分かっていたのにそう尋ねずにはいられなかった。

 案の定、つぐみは困ったように眉を寄せて、それから何かを考えるように口を開く。


「……彼女、木野枝君の知り合いですか?」

「知らない……と、思う」


 確信を持てなかったのは、脳裏に焼き付いた少女の顔が見覚えがあった気がしたからだ。

 どこかで会った事があるような気がして、記憶を探ってみても記憶の中に少女の姿はない。

 考えこむ始貴につぐみは不思議そうに首を傾げる。その様子に気付いた始貴は慌てて、言葉を続けた。


「あ、でも、瀬乃さんが気にする程の事じゃないから、きっとあの人が言ってた事だって……」


――『これは、忠告よ。その子が大事なら、今すぐその子から離れなさい。巻き込みたくないならね』


 先程の少女の言葉が蘇る。

 その言葉の意味を考えて、始貴は黙りこんでしまう。

 つぐみから離れろ、とあの少女が言っていた言葉の意味を考える。

 彼女が言っていた始貴が狙われているという事が本当だとすれば、つぐみがそれに巻き込まれる可能性はある。いや、巻き込まれない筈がないのだ。


 木野枝始貴という少年は己のせいで、どれだけの人が自分の不幸に巻き込まれてきたか知っている。

 それを思い出した始貴は口を開きかけて……しかし、それよりも早く、つぐみが言葉を放った。


「私は大丈夫ですよ」


 数分前と全く同じ言葉を、全く同じ笑顔で言い切ったつぐみに始貴は何も言えなくなる。

 言葉を失う始貴につぐみは、やはり変わらない優しい微笑みのまま、続ける。


「私が怪我をしたって、それは私の責任です。始貴君が気に病む事なんて、何もありません。誰かに言われたから、始貴君の傍にいるわけじゃないんです。私は、私自身の意志で、始貴君と一緒にいたいと思ってるんです。だから、たとえ何があっても私は始貴君を責めたりしませんし、始貴君の傍にいた事を後悔したりもしません。でも、これは私のわがままです。わがままだって分かってるんです」

「……瀬乃さん?」


 笑顔が。

 いつもと変わらない筈の笑顔が、何故か今にも泣き出してしまいそうに見える。

 彼女の顔に浮かぶのはいつも通りに優しい笑顔。

 それなのに、何故か泣きそうだと思った事に始貴は自分自身で不思議に思う。


「始貴君は優しいですから、私が怪我をするだけで、自分のせいだと思ってしまうほど、優しい人ですから。本当なら、離れた方が良いかもしれないって何度も思ったんです。でも、私は始貴君と一緒にいたいです。わがままだって分かってますけど、一緒にいたいんです。……だから、巻き込まれるからって理由で、離れようとしないでください」


 いつも通りの笑顔がどうしようもなく歪んで見えた。

 最初はつぐみが泣いているのかと思ったが、始貴はすぐに違うと気付く。

 自らの視界がぼやけて、歪んでいるのだと気付く。そして、彼は自分が泣いているのだという事に気付いた。


「……あ、れ……?」


 自分でも何故泣いているのか分からず、困惑したように涙を拭う始貴。だが、彼の双眸から溢れだす雫はちょっと拭ったぐらいでは、全く意味を為さなかった。


「……なんで、俺……泣いて……」


 その理由は簡単だった。

 彼は……木野枝始貴は嬉しかったのだ。

 つぐみの言葉がどうしようもなく嬉しくて、嬉しくて、嬉しくて堪らなかったのだ。

 今迄、彼を疫病神だと罵る人は数多くいたけれど、そんな彼に一緒にいたいと言う人など一人もいなかった。

 始貴の事を知らずに近付いてくる人もいたが、皆始貴の不幸に巻き込まれると去っていった。


 それが当り前だと思っていた。

 自分のせいで、周りの人が不幸になるくらいならば、それでいいと思っていたのだ。だが、生まれて初めて一緒にいたいと言われた少年は、家族を失くした時から閉じ込めていた感情を思い出す。


「……っ」


 その言葉を口にするのは簡単だ。

 だけど、その言葉を口にしたら、彼女を不幸の渦に巻き込む事になる。だからこそ、始貴は今にも叫び出したい感情を必死で塞ぎ込む。


(駄目だ。瀬乃さんを巻き込むわけにいかない。いまの距離で、まだ巻き込まれてない方が奇跡なんだ。欲を出したら駄目だ。……駄目、なのに……)


 心の奥で、一人は嫌だと叫ぶ自分を抑えこむ。

 歯を食いしばって、弱音を吐こうとする自分を自制する。

 それは彼の優しさ故の行動だった。

 今迄、何人もの人が自らの不幸に巻き込まれてきたのを一番近くで見ていたからこその優しさだった。


 人によっては、彼の優しさを弱さや逃げだと言うだろう。

 それでも、彼は……木野枝始貴は自分のせいで、周りが不幸に巻き込まれるのが嫌だった。

 始貴は決して、つぐみやカノトを友人だと言わない。言う気もない。

 誰かに彼等との関係を聞かれたら彼は、間違いなくこう答えるのだ。


『ただのクラスメイトです』


 それは、彼等を守る為の言葉だ。

 始貴の感情を揺さぶる関係の名前をつける事は出来ない。

 何故なら、始貴にとっての『家族』や『友人』という関係はもっとも彼の不幸に巻き込まれやすい人達になるからだ。だからこそ、始貴は何も言わない。何も言えない。


 不意に始貴は既視感を覚える。

 いつだったか。誰かに似たような事を言われたような気がしたのだ。

 そんなことがあるはずがない。始貴の傍にいたいという人など今までいなかった。それでも、始貴はいもしない誰かの存在に背中を押された気がしたのだ。


「始貴君」


 名前を呼ばれて、始貴は顔を上げる。そこには、やはり笑顔のつぐみがいた。

 その笑顔に。

 その声に。

 その雰囲気に。

 更に涙が溢れてきて……始貴は、ゆっくりと頷いた。

 一人は嫌だという、人間としては当たり前の感情に従って、頷いた。

 難しい事は何も考えず、ただ目の前で笑う少女を失いたくないと、ただそれだけを思って頷いた。


「……俺も、一緒にいてほしい」


 ひどく小さな声。

 弱々しく、今にも消え入りそうなか細い声だが、つぐみにはしっかりと届いたのか、彼女は嬉しそうに……本当に嬉しそうに笑って頷いた。


「はい!」

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