#04-1 共にいられる幸福
「おいカノト! これは一体どういう事だ!?」
五時間目が終わり、次の授業に向けての十分休憩の時間。
勢い良く教室の扉が開かれたかと思えば、姿を見せた始貴は注目する視線など気にせずに真っ直ぐカノトの席に駆け寄った。
そんな始貴の反応にカノトは、来ると思っていたとばかりに晴れやかな笑顔を浮かべる。
「あ、始貴君。おはよう……って、もうおはようって時間でもないか」
「え? あ、ああ、おはよう」
「あれ? でも今日はずぶ濡れでも泥だらけでもないね。珍しい」
「今日は……」
そこで、始貴は今朝あった出来事を思い出して、苦虫を噛み潰したような顔をする。
その顔を見たカノトは面白そうな気配を感じとったのか、目を輝かせた。
「なにがあったの?」
「……俺の目の前で、カップルが喧嘩を始めて……男の人が刃物まで持ち出してきたから、慌てて取り押さえて宥めてたんだけど、それを見た通行人が三角関係だと勘違いして……。通報された」
「うわぁ……」
「それで、さっきようやく事情を理解してもらえて、解放されたんだ」
「お疲れ様」
ぐったりとした様子で
そんなカノトを半眼で睨みつける始貴だが、すぐに何かを思い出したようにカノトの机を叩いた。
「って、そうじゃない!」
「うわ! いきなり何? どうしたの?」
「どうしたじゃない! 俺、体育祭に出ないって言っただろ! なのに何で勝手に出場させてるんだよ!」
「え? 何の事?」
「とぼけるな! 来る途中、五十貝先生に会って、そう言われたんだよ!」
確信に満ちた強い声で問い詰められたカノトは諦めたように溜め息をついた。その態度は始貴の言葉を認めているようにも思える。
「……なんで、こんな事するんだ?」
「その問いに意味はあるの?」
「は?」
「学生が学校行事に参加するのは当然だと思うけど」
カノトの言葉は正論だ。正論だからこそ、始貴は言葉を失う。
そんな始貴をカノトは普段から浮かべている笑顔を消して、何の感情も感じさせない無機質な表情で見ていた。
その表情に始貴は体を震わせる。
カノトの表情がひどく恐ろしいものに感じて、逃げるように俯く。
どこかで見た事があるような表情。
始貴の脳裏がそれを思い出そうと動き出すが、結局は
「……ねえ、始貴君。僕の嫌いなもの教えてあげようか?」
「え?」
反射的に顔を上げて、後悔した。
ゾクリ、と全身が粟立つ。
目の前の少年がとてつもなく恐ろしい存在に思えて、今すぐここから逃げ出したくなる。だが、始貴がそれをしないのは、目の前の少年を信頼しているから。
信頼しているのだ。
彼は目の前の少年と過ごした短い期間の思い出を信じているのだ。
彼は目の前の少年を他の人達とは違うと信じているのだ。
それなのに信頼している筈の少年に感じる恐怖。
信頼と恐怖。
相反する感情を抱く自分が信じられなかった。
自らの感情に振り回される始貴に目の前の少年は、ゆっくりと口を開く。
「……逃げる奴、だよ。目を逸らしてすぐに逃げようとする奴って、見てるだけで苛々する。逃げたら何か変わる? 逃げたら楽になる? ねえ、逃げた先に何があるの?」
「…………」
「逃げ出す奴は残された人の気持ちなんて考えないんだ。まあ、それは良いんだけどね。誰だって自分が一番大事なんだし」
「……か、カノト?」
カノトの瞳は既に始貴を見ていなかった。
始貴を通して、別の誰かを見ているような、そんな感覚。
「けどね、その人の事を信じている人を残して逃げるような真似をする奴はどうしても許せないんだ。腹立たしくて、苛立たしくて、無性に壊したくなる。……ああ、もう、良いかな」
無機質で、何の感情も映さない紫苑の瞳が始貴を捉える。
その瞳に、その表情に、始貴は先日襲われた光景を思い出す。
(逃げないと)
本能が警鐘を鳴らす。
彼は危険だ。
目の前の『何か』は危険だ。
彼は、『白露カノト』じゃない。
全身の筋肉が、細胞が、恐怖している。
逃げろ、と叫んでいる。
「カノト君」
「っ!」
二人の間に流れる空気を壊すように響いた優しい声。
その声に名前を呼ばれたカノトは、大きく肩を揺らした。
視線の先には小柄な少女が立っている。彼女は、優しく微笑む。
いつものように。
いつもと何も変わらない笑顔。
いつもと何も変わらない声。
ただ一つだけ違うと言えば、いつだって名字で呼んでいたのに下の名前を呼んだという事だけだ。
それだけ。
たったそれだけの事だ。
それなのに、カノトが纏っていた鋭く、禍々しく、無機質な雰囲気が一瞬で霧散した。
息をするのも躊躇う程の重苦しい空気が緩む。それと同時に始貴の全身に響いていた警鐘がピタリと鳴り止んだ。
何も言わずに放心した状態の二人に少女は笑う。
「喧嘩は、駄目ですよ」
窘めるような言葉。どこまでも優しい声。
心の中に渦巻いていた様々な感情がその声によって鎮まっていく。
先に行動を見せたのはカノトだった。
「やだなー、喧嘩なんかじゃないよ。ただ、ちょっと始貴君のウジウジっぷりがイラッと来ただけだから」
あはは、と笑うカノトはもういつも通りだ。
先程の雰囲気は幻でも見ていたのではないかと思える程、いつものように笑顔を浮かべている。
そんなカノトを見て、始貴もいつも通りに振る舞おうとして……失敗する。
笑顔すらまともに浮かべる事が出来ない。言葉を発する事すら出来ない。
先程のカノトの雰囲気が始貴の中に完全な恐怖心を植えこんでいた。
カノトも始貴の態度に気付いているのだろう。だが、彼は何も言わない。
(……駄目だ。笑わないと。何か言わないと……瀬乃さんが変に思う)
「始貴君」
「……え?」
一瞬、耳を疑った。
つぐみの声。
それは間違いなくつぐみの声だった。だけど、その声が名字ではなく、名前を呼んだ事に驚いた。
目を見開く始貴につぐみは、始貴の顔を覗き込むように近付いてきて……やっぱり笑った。
「カノト君はカノト君ですよ。始貴君の知ってる通りの優しい人です。だから、何も怖がる事ないです」
まるで始貴の心を読んだように的確な言葉。
驚くより先にその言葉は自然と心に染みこんでいき、先程までカノトに対して抱いていた恐怖心が和らいでいく。
自分でも驚くぐらい自然と納得してしまった。
カノトに抱いていた恐怖心が、疑心が、音もなく消え去る。
残るのは、『何故自分はカノトの事を怖がっていたのだろうか?』という疑問のみ。
「……ああ、そう、だな。カノト、ごめん」
素直に謝罪する始貴に今度はカノトが驚く番だった。
彼は目を丸くさせると、ニコッと笑う。
「しょうがないから、許してあげるよ。…………僕こそ、ごめん」
最後の方はあまりにも小さな声だったのだが、始貴にはしっかりと届いたようだった。
お互いに笑い合う二人はすっかりいつも通りの雰囲気だ。
先程までの殺伐とした重苦しい空気はない。
その事につぐみは安堵したように息を漏らした。
◇◆
放課後、つぐみに迷惑を掛けたお詫びとして始貴とカノトは彼女を連れて街に出ていた。
カノトの行きつけだというカフェでお茶をする。
「お待たせしました。ブレンドコーヒー、アールグレイ、アップルティー、特製デラックスパフェです」
接客業としてはどうなのかと思うほど無愛想なウエイトレスの少女が持ってきた料理を見るなり、始貴は表情を引き攣らせた。
十人前はあるのではないかと思える巨大な器。
そこに山のように盛られたスポンジ、生クリーム、バニラアイス、チョコアイス、ストロベリーアイス、これでトドメだとばかりに飾り付けられた色とりどりのフルーツ。
もう見ているだけでお腹いっぱいになりそうな巨大パフェを見上げる。
そう見上げるのだ。
いくら座っているとはいえ、見上げないと天辺が見えない高さのパフェを前に言葉も出ない。
そんな始貴の反応に気づかないのか、カノトはにこやかに笑っている。
「さあ、瀬乃さん! ここのパフェは本当に美味しいんだよ。味は僕が保証するし、遠慮しないで食べてね」
「……い、いや、カノト。流石にこの量は……瀬乃さんが可哀想だぞ」
「え? なんで?」
「いや、なんでって……瀬乃さんも無理しなくて良いからな」
巨大パフェの向こう側にいるつぐみの顔を見ようと、体を端に寄せる。そして、視界に映りこんだつぐみは何故か笑っていた。
クスクスと何かを思い出すようにひどく楽しそうに笑っている。
「瀬乃さん?」
「あ、い、いえ、ごめんなさい。あまりの大きさについ……」
「えー? そうかな? 楽勝じゃない?」
「お前の胃袋と瀬乃さんを一緒にするな」
不思議そうに首を傾げるカノトに始貴がツッコミを入れる。その会話につぐみはまた笑う。
「あ、あの白露君。気持ちは嬉しいのですが、流石にこの量は一人で食べられないので、手伝っていただけますか?」
「んー、瀬乃さんへのお礼だから、全部食べて欲しいけど……無理は良くないもんね。分かった、手伝うよ。あ、始貴君も食べる?」
「遠慮する。見てるだけで胸焼けしそうだ」
「ちぇー、始貴君のカッコつけー! 一人だけブラックコーヒーなんて飲んじゃってさ!」
「なんで文句言われないといけないんだ?」
そんな会話を繰り広げながら、カノトとつぐみは巨大パフェを食べ始める。
おそらく三分の一も食べずにリタイアしたつぐみに始貴はブラックコーヒーを勧めた。
「良かったら飲む?」
自らのカップを差し出す始貴の行動につぐみは顔を真っ赤にさせて、両手をブンブンと横に振った。
「い、いえ、大丈夫です!」
甘いものを食べた口直しとして勧めただけで、始貴に他意はない。だからこそ、彼はつぐみの反応の意味を理解できずに首を傾げた。
「……うわー、始貴君って本当に鈍感だよね」
「何が?」
「その発言が既に、だよ」
「?」
不思議そうに首を傾げる始貴だが、カノトはそれ以上何も言う気はないのか、再び巨大パフェに視線を戻す。
そこで始貴は目の前に座っているつぐみが彼女の隣の空いた席を見ている事に気付いた。
「どうかした?」
「え? あ、いや、なんでもないです」
その反応に始貴は不安になる。
(……そういえば、男二人に女一人って、よく考えたら気まずいよな。気を使わせちゃってるかな)
そう思っても元々、つぐみとカノト以外の人と交友関係がない始貴は何て声を掛けたらいいのか分からずに結局は何も言えずに黙り込む事しか出来なかった。
「ふぅ、食べたー! はぁ、やっぱりここのパフェは最高だね」
隣から聞こえたカノトの声。
思わず視線を移せば、数分前まで山盛りになっていたパフェがすっかり空になっていた。
満足そうにお腹を擦るカノトに始貴の表情が引き攣る。
「……相変わらず、その腹どうなってるんだ」
「えー? 普通だよ」
「ふふ、凄いですよね。白露君」
「ああ、羨ましいとは思わないけどな」
「あ、二人共ひどくない?」
「そんな事ないさ。ねえ、瀬乃さん」
「はい」
お互いに顔を見合わせて笑い合う始貴とつぐみにカノトはむっと表情を膨らませた。そんな珍しいカノトの反応に二人はまた笑う。
幸せだった。
木野枝始貴はこの時、確かに幸せだった。
昼間、隣にいる友人に抱いた恐怖心などすっかり忘れて、彼はこのぬるま湯のような幸せに浸っていた。
彼は深く知ろうとしない。少しでも深く踏み込んで、この幸せを壊すくらいならば、彼は全てから目を逸らす。何事も無かったかのように目を逸らし、閉じこもる。
それは人としては当たり前の行動だ。
誰だって幸せな時間を好き好んで壊そうだなんて思わない。
木野枝始貴も例外ではない。いや、幼い頃から疫病神扱いをされてきた彼にとっては始めてできた友人を失いたくない気持ちが他の人より強かったのかもしれない。
彼が望んでいるのは平凡な日常。
誰かと笑い合えるような、そんな些細な幸せ。
決して多くの事を望んでいるわけではない。
彼はいまこうして三人で笑い合える幸せで充分なのだ。
それ以上は何も望まない。
望んでなどいなかった――。
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