#03-2 臆病者
昼休み。
午前の授業を終えて、始貴が教科書を机の中にしまっていると、いつものようにカノトが笑顔で近付いて来た。
「今日は学食でいい?」
「ああ。……っと、それなら瀬乃さんも一緒にいいか? 昨日のお礼がしたいんだ」
「構わないよ」
「何だよ。その意味ありげな笑顔は」
「別にー」
ニヤニヤと含みのある笑顔を浮かべるカノトに始貴は訝しげな表情を浮かべるが、すぐにつぐみの姿を求めて教室内をぐるりと見渡す。だが、お目当ての人物の姿は見当たらない。
「んー? もう行っちゃったみたいだね。どうする?」
「……それなら、仕方ないな。早くしないと席が無くなる」
「その心配はいらないと思うけど」
「どういう意味だ?」
始貴の問いに『行けば分かるよ』とだけ言って、先に歩き出してしまうカノト。
残された始貴は不思議そうに首を傾げながらもカノトの後を追いかけた。
カノトの言葉の意味は学食に着くなり、即座に理解した。
始貴が学食に足を踏み入れるなり、食堂内は大きくざわめきだし、誰もが始貴を見ている。
カノトはそんな学食の雰囲気を気にした様子もなく、食堂内を進んでいき、奥の方の空いている席に座った。
「始貴君、何してるの?」
「あ、ああ」
始貴がカノトの元に向かおうとすれば、周囲の生徒達は蜘蛛の子を散らすように離れていく。
席に着けば、彼等の周囲の席は全て空で、周りの生徒達は三メートルぐらい離れた場所で、遠巻きに始貴達を見ていた。その事に始貴が複雑そうな表情を浮かべれば、対面に座っているカノトが気にしたようすもなく笑う。
「始貴君が気にする事ないよ。噂に踊らされる奴らの事なんて。それにこうして簡単に席が取れるし、ラッキーだよね」
「……」
「そんな顔してないで、早くご飯買いに行きなよ。時間無くなるよ」
「……あ、ああ。カノトは……早いな」
気付けば、目の前には大量の食事が置いてある。
一体いつ買ったのか全く分からなかった。
呆気に取られながらも自らの食事を買う為に席を立ち上がった。
ざる蕎麦を手にした始貴が戻ってきた時には、カノトは既に最後の一皿を食べている所だった。相変わらずの早さに始貴は苦笑しながら、席に着く。
「毎回思うけど、本当に凄いよな。その体のどこに入ってるんだ?」
「僕からすれば、よく始貴君はそんなんで足りるよね」
「俺は普通だぞ」
「僕だって普通だよ」
お前のは普通って言わない。そう言いたくなったが始貴は何も言わずに固まった蕎麦の塊を解しだす。
「……そういえばさ」
「どうした?」
全ての料理を食べ終えたカノトは、お茶を飲みながら、思い出したように声を上げる。
始貴は固まった蕎麦の塊を解すのが大変なのか顔を上げずに応えた。
「……昨日、何かあった?」
疑問ではなく確信に満ちた声。
その声に始貴はピタリと動きを止めた。
ゆっくりと、恐る恐るといった様子で顔を上げれば、笑顔のカノト。
口元には笑みを浮かべているが、細められた紫苑の瞳はどこか冷たく、何かを探るような鋭さがある気がした。
そんなカノトに始貴の体は自然と硬くなる。
「……」
始貴は何も言えない。
「……」
カノトも何も言わない。
二人の間に流れる沈黙に始貴の額から一筋の汗が流れた。
昨日、始貴の身に起こった非現実的な出来事。
それを話せばいい。
あるいは、話さずに『なにもない』と笑えばいい。
ただそれだけの事なのに始貴はまるで尋問されているような気分になり、嫌な汗が噴き出してくる。
「…………」
カノトは何も言わない。
始貴の言葉をひたすら待つと決めているようだ。それとも始貴の反応から、何かを探りだしているのか。
何故、カノトがそんな顔をするのか。
何故、カノトがそんな質問をするのか。
始貴には分からなかった。
ただ、カノトに昨日の事を話してしまえば、昨日の出来事が現実だと認めてしまうようで嫌だった。
数秒とも数分とも思える沈黙の後、始貴が出した答えは、
「……は、はは、いきなり、どうしたんだ?」
カノトの言葉を冗談のように受け取る事だった。しかし、誤魔化すにしてはあからさまに引き攣った笑顔と声。
どんなに鈍い人間だって、彼の反応は怪しいと気付くだろう。
それがカノトのように鋭い観察眼を持っている人間ならば尚更だ。
嘘をついています、と如実に語っている始貴の態度にカノトはまっすぐ始貴を見つめる。
何かを探ろうとしている紫苑の双眸から逃げるように始貴は視線を逸らす。
そんな始貴の態度に目の前の少年は諦めたように溜め息をついて、ようやく口を開いた。
「……まあ、話したくないならいいけどね。僕の知らない所で、面白い事に……おっと、危ない目にあってないなら、別にいいよ」
「おい、いま面白い事って言わなかったか?」
「え? 言ってないよ。始貴君、幻聴は流石にヤバイんじゃない?」
いけしゃあしゃあと吐かすカノトは、もういつも通りだ。先程までの重苦しい雰囲気もない。
その事に始貴は安堵の息を漏らして、先程の自分の心に浮かんだ感情を疑問に思う。
(……俺、何でカノトの事、警戒したんだ?)
警戒。
そう、木野枝始貴は確かに先刻まで白露カノトを警戒していた。理性がじゃない。始貴の中の本能が警鐘を打ち鳴らしていたのだ。
「始貴君?」
「っ!」
自らの思考の海に沈んでいた始貴は、突然の声に大きく肩を揺らした。
大げさに驚いた始貴の反応に声をかけた少年の方が逆に驚いたようで、紫苑の瞳を丸くさせている。
「……あ、ごめん」
バツが悪そうに俯いた始貴にカノトは、口角をニッと上げた。
「別にいいよ。始貴君が変なのはいつもの事だからね」
「悪い……って、いま凄く失礼な事言っただろ」
「あはは」
楽しそうに笑うカノトを見て、始貴は先程までの自分の考えを恥じる。
(……そうだ。カノトは俺の様子がいつもと違うのに気付いて、心配してくれただけだ。それなのに、そんなカノトを警戒するなんて……どうかしてる。相当昨日の事が参ってるみたいだ)
「カノト」
「ん?」
「……ありがとう」
「…………」
お礼を言えば、何故か目を見開いて硬直するカノトに始貴は不思議そうに首を傾げる。
「俺、変な事言ったか?」
「っ、い、いや、まさか始貴君が僕にお礼を言うなんて思わなくて、吃驚しちゃったよ」
「俺だって、お礼くらい言うぞ」
「あはは、てっきり瀬乃さん限定なのかと思ってた」
茶化すように笑うカノトに始貴は内心、お礼を言った事を後悔した。
僅かに眉を寄せて、先程から放置したままだった蕎麦を麺つゆにつけて、食べだす始貴にカノトは笑う。
ひどく嬉しそうに。
ひどく悲しそうに。
ひどく楽しそうに。
ひどく苦しそうに。
様々な感情が入り混じる複雑な笑顔は蕎麦を食べている始貴に目撃される事なく、すぐにいつもの笑顔の中に消えたのだった。
昼食を終えて教室に戻る帰り道。
始貴の不幸体質がこんな所でも発動してしまい、彼等は遠回りを余儀なくされた。
なんて事はない。彼等の担任である五十貝に捕まり、雑用を押し付けられてしまったのだ。
『次の時間に授業で使う教材を資料室から取ってきてくれ!』
そんな言葉だけ残して、五十貝は始貴達の返事など聞かずに去ってしまった。
仕方なく始貴達は資料室がある校舎に向かっていた。
昼休みだというのに彼等以外の人通りがない渡り廊下を歩く。
資料室や美術室、生徒会室などがある校舎に向かう渡り廊下を昼休みに使う人なんてたかが知れてる。始貴達だって五十貝から雑用を押し付けられなければ、絶対に通る事はないだろう。
雑談を交わしながら渡り廊下を歩く二人の耳に届いた声。
女子特有の甲高い声が口汚く何かを罵っている。
その声を聞いた始貴とカノトは互いに顔を見合わせて、そっと声のする方を覗き込む。
渡り廊下からは覗き込まないと見えない場所で起こっていたのはお約束と言えば、お約束過ぎる展開だった。三人の女生徒が一人の女生徒を囲んでいるという、最早使い古された典型的な光景。
そんな光景を目にしたカノトは、ケラケラと馬鹿にしたように笑う。
「うわー、今どきあんな事する人達本当にいるんだねー。写真でも撮っておこうかな」
「止めておけ。それに囲まれてる子……」
携帯端末を取り出したカノトをたしなめる始貴。
始貴の言葉にカノトは残念そうに唇を尖らせたが、女生徒達に囲まれている人物が誰だか気付いたのか先程まで浮かべていた笑顔を消して、目を細めた。
「……瀬乃さん、だね。となると、理由は僕のせいかな? あーやだやだ、勘違い女子ってこれだから嫌いだよ」
「助けないと」
誰に言うわけでもなくそう呟いて、飛び出そうとした始貴だが、すぐに何かに気付いたように動きを止めた。
動こうとしない始貴にカノトは不思議そうに小首を傾げる。
「どうかした?」
「俺が助けたら、また……」
口惜しそうに唇を噛み締めて、拳を強く握りしめたまま俯いてしまった始貴にカノトは珍しく困惑の表情を浮かべる。
カノトには何故始貴がつぐみを助ける事を迷うのか、理由が分からずに俯く始貴と女生徒に囲まれたつぐみを交互に見やる。
女生徒達はカノト達の存在に気付いていないのか、甲高い耳障りな声でつぐみを
「だーかーらー、目障りだって言ってんの! 分かる?」
「というか、日本語通じてる? さっきから黙りこんで、バカにしてんの?」
「きゃは、通じてないのかも。ほらあ、おバカさんだから、カノト君が迷惑がってんの分からないんだよお」
「ああ、それ納得! そっかそっか、バカだから、ウチラの言葉理解出来ないんだ? 大丈夫でちゅかあ? 小学校からやりなおちまちゅかー?」
「ぎゃははっ! 何その喋り方? キモッ! でも、あんたみたいな鈍臭いブスにはそれくらいレベル下げないと駄目かー」
ぎゃはは、と下品に笑いながら会話を繰り広げる女生徒達。
その会話内容にカノトは不快そうに眉を寄せる。
常に笑顔を浮かべているカノトにしては珍しく、苛立った雰囲気を纏わせている。
そんなカノトの態度に気付いた始貴が、びくりと体を揺らす。
カノトは始貴に対して苛立っているわけではない。そう理解しているのにあまりにも珍しい……始貴が知る限り、初めて見せた怒りらしい怒りに動揺する。
始貴だって、いまの会話内容を不快に思っている。彼女達に負の感情を抱きそうになっている。だが、始貴がそんな感情を抱いてしまえば、彼女達にどんな不幸が襲うか分からない。だからこそ、始貴は湧き上がりそうになる感情を必死で抑える。
本当ならば、始貴もカノトのように素直に自分の感情を吐き出したかった。
今すぐここを飛び出して、女生徒に囲まれて俯いている少女を助けたかった。
きっと怯えてる。
きっと怖がってる。
彼女にはそんな顔は似合わない。
笑顔がよく似合う女の子。いつだって優しくて、その優しさが何度も始貴を助けてくれた。
出来る事ならば、彼女に何度も助けてもらったように彼女を助けたかった。だが、その結果、起こる不幸を彼は知っている。
自分が関わる事で、余計彼女の身に不幸が降りかかる事を彼は知っている。
(深く関わったらいけない……いけないんだ……)
全てから逃げるように自分の殻に閉じこもる。
何度も何度も自分に言い聞かせる。
今にも彼女の元に駆け寄ってしまいそうな体を抑えこむ。
「始貴君」
普段よりも低いカノトの声。
名前を呼ばれた始貴は僅かに顔を上げて、今にも泣き出しそうな顔でカノトに懇願する。
「……カノト。お願いだ。瀬乃さんを助けてくれ……」
白露カノトには何も分からない。
何故、始貴が自分で助けに行かないのか。
何故、始貴が泣きそうな顔をしているのか。
何故、始貴の体がこんなにも震えているのか。
何も分からない。
彼は木野枝始貴に関わる不幸を何も知らない。
彼は木野枝始貴が今迄どれほどの人間を不幸に巻き込んできたか知らない。
彼は木野枝始貴がどんな闇を抱えているのか知らない。
何も知らない。
彼にとって木野枝始貴との友情は彼の目的の一つに過ぎなかったのだから。
何も知らない。
知ろうとも思わない。
知ろうともしない。
彼は木野枝始貴という人物を完全に理解していなかった。
だからこそ、彼の感情を読めない。
だからこそ、大げさともいえる彼の反応を理解出来ない。
ただ、彼と……彼等と過ごした期間がカノトの脳裏にフラッシュバックして、カノトは自分でも驚くぐらい素直に頷いていた。
「任せて」
自然と零れ出た言葉。
その言葉に驚いたのは他の誰でもないカノト自身だった。
たかが、中傷されている女生徒を助けるだけ。
たかが、数人に囲まれて怯えている女生徒を助けるだけ。
たかが、よく会話をする少女がイジメられているだけ。
それだけだ。
別に今すぐに助けないと殺されてしまうわけでもない。
心に……もしくは、体に傷を負うかもしれないが、死ぬわけでもない。
それなのに、今すぐ彼女を助けないと死んでしまうとでも言いたげな始貴の反応に自然と頷いていた自分が信じられなかった。思わず自嘲の笑みが溢れる。
自分の心の中で渦巻く感情に気付かないフリをしたカノトが女生徒達の元へ一歩、足を踏み出した時――。
ずっと黙り込んだままのつぐみに焦れて、一人の女生徒がつぐみの顔を殴ったのだ。
殴られた少女は小さく呻いて、よろけた体は地面に倒れた。
その光景を目にした瞬間、始貴とカノトの表情が変わる。彼等の表情に一瞬にして、怒りが帯びる。だが、彼等が行動を起こすより先に響いた声。
「そこで何してるの?」
その場にいた誰のものでもない。
穏やかで、聞いてる者の心を落ち着かせるような静かな声。
その声に誰もが弾かれたように声のした方向へと視線を移す。そこには窓枠に手をついている一人の男子生徒がいた。
無造作に跳ねた茶髪に清流のように穏やかな翡翠の瞳。見る者全てを包み込むような穏やかな雰囲気を纏う男子生徒にその場にいた誰もが目を奪われた。
彼は穏やかな笑みを絶やさずに、ぐるりと周囲を見渡すと倒れているつぐみを見て、僅かに目を見張った。
「あまり良くない状況みたいだね。……君、大丈夫?」
「……は、はい」
「そう、良かった。君達も喧嘩は駄目だよ。人が見てるみたいだしね」
「え?」
男子生徒の言葉に女生徒達は怪訝そうに振り返り、ようやく始貴達の存在に気付いて、顔を青ざめさせた。
「あ、か、カノト君。これは……」
「ま、待って。木野枝もいる」
「ひっ! ね、ねえ、もう行こう」
カノトの存在に気付いた女生徒達は言い訳しようと口を開くが、始貴の存在に気づくと更に顔を青ざめさせて、そそくさとその場を離れた。
遠ざかっていく背中を最後まで見送る事などせず、カノトは倒れているつぐみに手を差し出す。
「大丈夫? ごめんね、僕のせいで」
「い、いえ、白露君のせいではないですから」
つぐみはカノトの手を借りて立ち上がると、制服についた土を払って礼を言う。
始貴はそんな光景を黙って見ていた。
二人の元に近付こうとしないのは、助けようとしなかった自分への後悔か、苛立ちか。
その感情を知るのは本人だけだった。
「もう生徒会室の前で喧嘩したら駄目だよ。目立つからね」
変わらずに穏やな笑みを浮かべたままの男子生徒に始貴はようやくそれが誰であるか気付く。
以前、屋上から見ていた人だかりの中心人物――この学校の生徒会長だった。
思わず身構えてしまった始貴に気付いたのか、彼は始貴に視線を移すと僅かに笑みを濃くする。
その笑顔に、人を包み込む穏やかな雰囲気に、彼が何故大勢の生徒達に慕われているのか分かった気がした。
人の心を惹きつける『何か』を彼は持っている。
(……本当に、俺とは正反対だ)
知らずに自嘲の笑みが漏れた。
自分の体質のせいで助けられなかった……助けようとしなかった少女が自分とは正反対の少年にお礼を告げる光景を見て、始貴は眩しそうに目を細めたのだった。
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