#03-1 臆病者


「お前達! 一週間後に体育祭がある事を知っているか?」


 朝のホームルームの時間。

 神妙な顔つきでそう言った担任の言葉に生徒達は不思議そうに首を傾げた。


「あはは、流石に知ってるよー」

「そうだぜ、カイちゃん! 馬鹿にすんなよ!」

「カイちゃん言うな! 五十貝大先生だいせんせいと呼べ! ……って、そうじゃない! いいか、お前ら! ウチのクラスだけだぞ? まだ誰がどの種目に出るか決まってないのは!」


 五十貝の言葉に生徒達はきょとんと目を丸くさせ、互いに視線を交わし合う。そして、暫しの沈黙の後、全員が綺麗に声を揃えた。


『なんでもいいでーす』


 見事な団結力に五十貝は小さな体をぶるぶると震わせる。

 そんな担任の心情など知らずに生徒達は声を上げた。


「どうせ負けるしなー」

「そうそう! どうせ負けるなら、頑張る意味ないだろ」

「無駄な時間になるのは目に見えてますし、それなら、勉強に時間を割いた方がよほど有意義だと思いますよ」

「お前らな! まだ負けるかなんて分からないんだから、少しはやる気出せ!」


 教卓を叩いてそう言った五十貝に生徒達は再び目を丸くさせて、笑い出す。

 その反応に怪訝そうに五十貝が眉を寄せる。


「あはは、それ本気?」

「冗談にしてはセンスないぜ。カイちゃん」

「俺は冗談が嫌いだ。すなわち、本気だ」

「あはは、無理無理。無理に決まってるよ」

「だって、このクラスには……」


 そこで笑っていた生徒達の表情が一瞬にして変わる。

 その表情は人によって様々だが、彼らに一貫していたのは恐怖だった。

 彼らはそれ以上、言葉を紡ごうとしない。恐怖が見え隠れする表情で俯いたままだ。


「……このクラスには、何だ?」


 妙な反応を示す生徒達を不思議に思い、尋ねた言葉だったが、それに反応する者はいない。先程と違い、静まり返った教室内に響いたのは場違いともいえる明るい声だった。


「……始貴君がいるから、でしょ?」

「木野枝がどうかしたのか?」


 クラスメイト達は……否、学校中の生徒達は知っている。

 彼等の中で、暗黙の了解とされている事柄を。


――『木野枝始貴には関わるな』


 それは彼等にとって身を守る手段だった。

 その事に始貴本人も納得しているし、仕方のない事だと諦めている。それが、カノトにとっては面白くなかった。


 五十貝は三ヶ月前に交通事故に遭って亡くなった前担任の代わりにこのクラスに……この学校に来たばかりだ。だから、始貴の事を不幸体質の少年としか見ていない。

 彼に関わる様々な出来事を知らない。だからこそ、他の生徒達や教師と違い、普通に接してくる。


 木野枝始貴に関わらない。

 木野枝始貴の話をしない。

 それが彼等なりの自衛だった。

 その結果が、二週間ほど前に来たばかりの教師がただ一人状況を理解出来ない原因。

 そんな教師にカノトはにっこりと笑い、なんでもない事のように口を開いた。


「なんてことないです。去年の体育祭で、始貴君のクラスメイトの多くが原因不明な高熱で倒れて、競技中に落ちてきた看板に巻き込まれて怪我人が続出しただけです。不幸な偶然が重なっただけのただの事故を始貴君のせいだと勘違いして、怯えてるだけですよ。あはは、馬鹿馬鹿しいですよね」

「笑い事じゃない!」


 ケラケラと笑うカノトに一人の生徒が叫んだ。

 その声に釣られるように他の生徒達も口を開きだし、教室内は再び喧騒に包まれる。


「あいつのせいで一体何人が怪我したと思ってるんだ!」

「そうよ! 死にかけた子だって、体に障害が残った子だっている!」

「そうだ! あいつは疫病神なんだ! あいつに関わった奴は全員不幸な目に遭ってるじゃないか!」

「あは、それ本気で言ってる?」


 スッと細められた紫苑の瞳。

 彼の瞳に冷たさが込められた事に気付かない生徒達は当然だとばかりに頷いた。


「僕はいままで一度も危ない目にあった事ないけど? 過剰反応し過ぎじゃない?」

「過剰なんかじゃない! お前だっていつか分かる! その時になって後悔しても遅いんだからな!」

「あはは、僕を君達と一緒にしないでよ。僕は絶対に大丈夫だし、たとえ何かあったとしても人のせいにしない。人のせいにするなんて弱い奴のする事だしね。自分で決めた事の責任ぐらい自分で背負うよ」

「今に後悔するぞ」

「させてみなよ」


 ふっと勝ち気な笑みを浮かべたカノトに男子生徒は言葉を失う。それと同時に教室の扉がガラリと開かれる。

 開かれた扉の先に立っていたのは、何故か泥まみれの始貴だった。

 話の渦中にいた人物の登場に教室中が静まり返る。

 そんなクラスの妙な雰囲気に気付いたのか、始貴は訝しげに眉を寄せた。


「木野枝、また遅刻だぞ。それにしてもまた、今日は一段と酷いな」

「すみません」

「とりあえず、理由は後だ。シャワー浴びて着替えて来い」

「はい」


 五十貝の言葉に始貴は頷いて、ジャージを取るために教室内に足を踏み入れる。

 始貴と視線を合わせないように視線を逸らす生徒達の中で、始貴を見る者が二人。

 カノトとつぐみだ。


「おはよう、始貴君。また随分と面白い格好をしてるね」

「悪かったな。……おはよう」


 眉を顰めた後、バツが悪そうに挨拶を口にする始貴にカノトは笑う。

 そんなカノトを睨みつけて、教室の後ろにある自らのロッカーに向かう。途中、心配そうな顔をしたつぐみと目が合った。

 つぐみは目が合うと心配そうな表情を消して、優しく微笑んだ。


「おはようございます」

「おはよう、瀬乃さん」


 軽い挨拶を交わして、横を通りすぎる。

 自分のロッカーから、赤いジャージを取り出して、そのまま後ろの扉から教室を出て行く。始貴がいなくなり、教室内の重苦しい空気が緩んだ。

 その変化にカノトとつぐみは僅かに表情を変えたが、何も言う事はなかった。


◇◆


「体育祭?」


 休み時間、カノトが言い出した言葉に始貴は目を丸くさせた。


「そう、始貴君は何に出る?」


 ニコニコと笑うカノトに始貴は暫し思案した後、ゆっくりと首を振った。


「……いや、俺は参加しない」

「え? なんで?」

「分かってるくせに聞くのは性格悪いぞ」

「何を今更」

「それもそうだな」


 二人で顔を見合わせて笑い合う。

 ひとしきり笑うと、不意にカノトが真面目な表情を浮かべた。

 その表情の変化に思わず身構える。


「僕は気にしなくて大丈夫だと思うけど」

「けど、去年は俺のせいで……」

「逃げるのは格好悪いよ。大体、去年の事だって、始貴君のせいとは限らないでしょ」

「っ、俺のせいだ!」

「本当にそう思うの?」

「……当たり前だ。昔から、俺のせいでみんな……」


 そこまで言いかけた始貴だが、カノトが溜め息をついたことにびくりと体を揺らして、カノトを見た。


「僕達が始貴君の傍にいて無事なのが、始貴君のせいじゃないっていう何よりの証拠だと思うけど。始貴君はそう思わないの?」


 真っ直ぐな視線に射抜かれて、始貴は気まずそうに視線を逸らす。

 俯いて、目を逸らして、カノトの瞳に映る情けない自分から逃げたのだ。


「木野枝君」


 俯いた始貴の耳に届いたのは優しい声。

 勢い良く顔を上げれば、そこには優しい表情をしたつぐみが立っている。


「五十貝先生が呼んでましたよ」

「え? あ、そうか。忘れてた。ありがとう、ちょっと行ってくる」

「はい。いってらっしゃいませ」

「頑張ってねー」


 優しく笑うつぐみといつものように笑顔を浮かべるカノトに見送られ、始貴は教室を出て行った。

 二人は暫く始貴の出て行った扉を見つめていたが、やがて、カノトが口を開いた。


「瀬乃さんは、あれでいいと思うの?」


 唐突に主語もなく言われた言葉。けれど、つぐみにはしっかりと意図が伝わったようで、彼女は少し困ったように笑う。


「始貴君はとても強い人です」

「え?」

「とても強くて、とても優しい人です。だから、大丈夫ですよ」


 カノトが驚いたのはつぐみが始貴の名前を呼んだ事なのだが、つぐみの今にも消えてしまいそうな儚い笑顔に目を奪われ、言葉を失った。

 今にも消えてしまいそうな儚い笑顔だが、どこか強い意志が込められているようにも思えて、カノトは表情を緩めて頷いた。


「……そう、だね」

「はい」


 お互いに笑い合って、それから二人は始貴が戻ってくるまで何も言わなかった。

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