#01-2 日常
「そ、それじゃあ、私はこれで」
「待った」
気恥ずかしさから、体を翻そうとしたつぐみの手を掴んで、止めたのはカノトだった。
何故かニコニコと笑っているカノトにつぐみは僅かに表情を強張らせる。
「な、なんでしょうか?」
「あはは、そんなに怯えなくても何もしないよ。ねえ、瀬乃さんも一緒にお昼食べようよ」
「え?」
「始貴君もいいでしょ?」
「あ、ああ、勿論」
「良し、決まり! 屋上にでも行こうか!」
「え? え?」
困惑するつぐみの腕を強引に引っ張り、始貴が受け取った包みをひったくり、教室を出て行くカノトに始貴は呆れながらもその後に続いて、教室を出た。
一足先に屋上に出たカノト達に続くように始貴が扉を潜ると同時に周囲がざわつく。
思わず視線を動かせば、屋上にいた数人の生徒達が顔を青ざめさせて、始貴を見ていた。
彼らは始貴と目が合うと、大きく体を揺らして、そそくさと広げていたお弁当を片付け始める。
始貴が口を開くよりも早く、手早くお弁当を片付けた生徒達は始貴の横をすり抜けて、足早に屋上を出て行く。
その時、すれ違いざまに一人の女生徒がペットボトルを落とした。
咄嗟に手を伸ばして拾ってから、しまったと思う。顔を上げれば、顔面を蒼白にさせている女生徒。
「……ごめん」
謝りながら、水の入ったペットボトルを差し出すが、女生徒は顔を青ざめさせたまま動かない。
彼女の顔に浮かぶのは感謝でも嫌悪でもない。ただの恐怖だ。
何か得体のしれないものを見るかのような視線を始貴に向けている。
「……あの」
「っ!」
動かない女生徒の手にペットボトルを渡そうと一歩、近付いた時だ。
パン、と何かが破裂するような音と共に右手に痛みが走る。
視界の隅でペットボトルが転がっていくのが見えた。始貴が手を叩かれたのだと理解するのに暫く時間が経った後であった。
女生徒は自分のしてしまった行為に自らの手と始貴を交互に見て、体を震わせる。
始貴は赤くなった右手を左手で擦りながら、女生徒を安心させるように笑う。
「気にしてないから。……ごめん」
「っ!」
始貴の謝罪に女生徒は罪悪感からか、表情を歪める。何か言おうと口を開こうとするが、結局は何も言葉を紡ぐ事なく、踵を返して脱兎の如く屋上を飛び出した。
まるで始貴を拒絶するように勢い良く閉じられた扉を彼は悲しそうな顔で見つめる。
これは仕方のない事なんだと、自らの心に言い聞かせる。
そんな始貴の心情など知ってか知らずか、重苦しい空気を切り裂くように明るい声が響く。
「しーきーくーん! 早く来ないと始貴君の分も食べちゃうよー!」
「し、白露君! 駄目ですよ!」
振り返れば、コンクリートの地面の上にレジャーシートを敷いて、その上に座りながら笑顔で弁当箱を掲げているカノトと彼に盗られた包みを取り返そうとしているつぐみの姿が見えた。
始貴はそんな二人の姿を暫く呆然と見つめる。そして、不意に口元に小さく笑みを浮かべて、彼らの元に駆け寄って、腰を下ろした。
「ごめん、二人共」
「大丈夫ですよ。お弁当は死守しましたから」
えへん、と少し誇らしげにお弁当箱を差し出してくるつぐみに始貴は思わず笑う。
「ありがとう」
「始貴君。僕には?」
「何で、お前にお礼を言わないといけないんだ?」
「あー、そういう事言う? 始貴君の分のお弁当を食べなかった僕の優しさに感謝すべきだと思うな」
「いや、人の弁当を食べないのは当たり前だぞ」
「……本当に食べてやれば良かった」
ぼそりと呟かれたカノトの言葉を無視して、始貴はつぐみから受け取った弁当箱の包みを開いて、蓋を外す。そして、中身を見て、感嘆の息をはきだす。
お弁当の定番である玉子焼き、タコさんウインナー、アスパラ肉巻き、ポテトサラダ、唐揚げ、小松菜のお浸し……といった具合に女の子らしく綺麗に飾り付けられた中身は見ているだけで食欲がそそられる。
そんな始貴の反応に横からひょいっとお弁当箱を覗きこんだカノトは中身を見るなり、瞳を輝かせた。
「おお、美味しそうだね! ひとつもーらい!」
「あ、こら!」
始貴が止めるより早く、横から伸びてきた手が玉子焼きを掴み、口に放り込まれる。
「ん……美味しい! これ、玉子焼きの中にチーズが入ってるんだ! へえ、瀬乃さんって料理上手なんだね」
「あ、ありがとうございます」
「ああもう! 素手で食べるな! 行儀悪いだろ!」
「え? そこなんだ? じゃあ、箸で食べるから残りも食べていい?」
「良い訳ないだろ。大体、自分の分はどうした?」
「もう食べちゃったよ」
ほら、と弁当箱……否、重箱を見せられる。
三重にも積まれている重箱の中身は見事に空だ。それを見た始貴は呆れたように溜め息をつく。
「相変わらずよく食べるな。というか、その量を既に食べ終わってる事に正直驚いた。いつ食べたんだ」
「始貴君を待ってる間にね。今日はお腹が空いてるんだよ。現在進行形でね」
「まだ入るのか!?」
「あの、白露君。もし良かったら、私の分食べますか? まだ手をつけていませんし」
控えめに自らの弁当箱を差し出すつぐみにカノトは目を輝かせる。
「え? いいの? いやー、流石瀬乃さん! どこかの誰かさんと違って心が広いねー」
「それ、俺の事を言ってるのか? とにかく、駄目だ! 瀬乃さんの分が無くなるだろ!」
「えー? でも、本人が良いって言ってるんだから、ありがたく貰わないと。人の好意を無下にするのは良くないと思うな」
「私は大丈夫ですよ。そんなに食べないので」
「ほら、本人もこう言ってるし……いっただきまーす!」
笑顔で食べ始めるカノトに始貴は溜め息をついてから、つぐみに視線を移す。
「良かったら、これ半分食べない? といっても元々瀬乃さんのだけど」
その言葉につぐみは虚をつかれたように目を丸くさせる。それから暫し思案してから、おずおずと口を開いた。
「木野枝君がそれでいいなら、お願いできますか?」
「ああ、勿論だ」
頷いて、弁当箱の蓋に手早く中身を半分載せて、弁当箱をつぐみに差し出した。つぐみはそれをお礼を言いながら笑顔で受け取る。
その様子を見たカノトが楽しそうに茶化す。そうして、和気藹々とした昼食の時間が流れるのだった。
「ご馳走様。すごく美味しかったよ」
「いえ、口に合って良かったです」
「それじゃあ、そろそろ教室に戻ろうか。ほらほら、シートしまうから退いて」
カノトにせっつかれて、始貴は慌ててシートから降りる。
「誰の物かと思えば、お前のだったのか」
「当然でしょ。地面に直接座るなんて、絶対に嫌」
綺麗にレジャーシートを折り畳んで、鞄にしまうカノトを眺めていれば、不意に下の方が騒がしくなった事に気付いて、視線を移す。
落下防止用の金網の隙間から見えるのは中庭だ。
芝生があるそこは屋上と同じで昼食時には生徒達に大人気の場所。そんな中庭の中央に人だかりができていた。生徒達が群れを成して騒いでいる。
何事かと、怪訝そうに眉を寄せた始貴だが、人だかりの中心にいる一人の生徒に気付いた。大勢の生徒に囲まれているというのに穏やかに微笑んでいる男子生徒。
「……うわー、相変わらず凄いね」
いつの間にか隣に立って、始貴と同じように金網の隙間から下を覗いているカノトの言葉に始貴は顔を上げた。
「カノトはあれが誰か知ってるのか?」
「当然でしょ。あんな有名人。知らない人のが珍しいんじゃない?」
「悪かったな。で、誰なんだ?」
「生徒会長だよ」
「生徒会長?」
思わず聞き返した始貴にカノトは頷く。
(どうりで知らない訳だ。一度も全校集会とか出てないからな……)
一人で納得した始貴はもう一度人だかりの中心に視線を移す。
そこにはやはり、この学校の生徒会長だという男子生徒を中心にした人だかりがある。
生徒達の中心で穏やかに笑いながら、言葉を交わしている姿は生徒の人気者にしか見えなくて……。
自然と溜め息が零れていた。
そんな始貴の様子に気付いてないのか、カノトは何かを思い出したようにケラケラと笑う。
「そういえば、生徒会長ってすごく運が良いらしいよ」
「そうなのか?」
「噂で聞いただけだけどね。あはは、始貴君とは正反対だね」
楽しそうに笑うカノトを一瞥してから、再び中庭を見下ろす。そこに広がっている光景を目にして……。
「……そうだな」
小さく同意したのだった。
そこで、始貴は先程から一言も発していないつぐみに気付いて振り返る。しかし、振り返った先には誰もいない。
ぐるりと周囲を見渡すと、その姿はすぐに見つかった。
つぐみは始貴達と同じように金網越しに中庭を見下ろしていた。その姿に始貴は一瞬、掛けようとした言葉を失う。
何故かは分からない。だけど、今のつぐみに声を掛ける事を迷ってしまったのだ。
「わあ、瀬乃さんってば、随分と真剣に見てるみたいだね。どうする、始貴君?」
「どうするって、何が?」
新しい玩具でも見つけた子どものように瞳を輝かせたカノトだったが、不思議そうに首を傾げた始貴に信じられないとばかりに表情を歪めた。
「うわー、始貴君。鈍感は罪だよ」
「は? どういう意味だ?」
「せーのーさん! そんなに熱い視線で誰を見てるのかな?」
「え? きゃっ!」
始貴の問いに答えず、つぐみの顔を下から覗き込むように話しかけるカノト。その声に反応したつぐみは、間近にあるカノトの顔に驚いて体を引いた。
「無視するな! それと、近い! 瀬乃さんが困ってるだろ!」
そう言って、カノトをつぐみから引き剥がそうと間に入ろうとした時だ。
先程女生徒が落としたペットボトルが風に流されたのか、いつの間にか始貴の足元にあり、始貴の足は見事にペットボトルの上に乗っかり、そのまま足を滑らせ、バランスを崩した。
よろけた体は落下防止用の金網にぶつかり――。
本来ならば、始貴の体を支える筈の金網は始貴の体重を支えることなく……あっさりと外れた。
「え?」
「木野枝君!」
「始貴君!?」
体を支えていたものが無くなり、始貴の体は重力に従い、金網と共に空中に放り出された。
(あ、やば……)
何かを考える余裕もなく、ただ体が勝手に動いていた。手を伸ばして、屋上のヘリを掴む。
腕に全体重が掛かり、痛みが走る。
痛みに表情を歪めながらも僅かに安堵の息をついた時、下から金網が落下した甲高い音と幾つもの悲鳴が上がった。
宙ぶらりになった始貴は視線を動かして下を見れば、先程中庭で楽しそうに談笑していた生徒達が顔を青ざめさせて、始貴を見上げていた。
どうやら金網の下敷きになった生徒はいないようで、始貴は安心したように胸を撫で下ろす。
「始貴君! 余所見してないで早く上に!」
「登ってきてください!」
頭上から聞こえる二人の切羽詰まった声に始貴はゆっくりと顔を上げる。そこには見た事ないほど焦った表情を浮かべるカノトとつぐみの姿があった。
二人は同時に手を伸ばして、始貴の腕を掴む。
その光景に始貴は、状況を理解できないように目を丸くさせて、懸命に力を入れる二人の姿を見つめる。
「何呆然としてるのさ! 早く登ってきてよ! 落とすよ!?」
「し、白露君! 何言ってるんですか!? 駄目ですよ!」
落とすよ、と言いながらも更に力を込めるカノト。カノトを窘めるように声を上げながらも全力で引っ張ろうとするつぐみ。
そんな二人の姿を見て、始貴は我に返ったように二人の力を借りて、屋上をよじ登った。
無事に屋上に戻った始貴に二人は乱れた呼吸を整える。
カノトは大きく息をはきだしてから、ギロリと始貴を睨みつける。
「もう! 目の前で落ちるとか勘弁してよね! 思わず助けちゃったじゃんか!」
「ごめん……ん? 目の前じゃなかったら、助けなかったのか?」
謝りながらも、浮かんだ疑問を口にすれば、カノトはこれでもかというくらい良い笑顔で頷いた。
「当然。笑って見てるよ」
「……お前って、そういう奴だよな」
「ありがとう」
「褒めてない!」
二人の掛け合いにクスクスと笑う声。その声に始貴が視線を移せば、つぐみと目が合った。
つぐみは始貴と目が合うと、目尻を下げて優しく微笑んだ。
「でも、無事で良かったです。お怪我はありませんか?」
「ああ、大丈夫。いつもの事だし」
「いつも屋上から落ちそうになるの?」
「……いや、流石に毎回はないけど。高い場所に行くと高確率でそうなるな」
少し思案した後に放たれた言葉にカノトが吹き出した。いつもの事だが、始貴が睨みつけても軽く受け流すだけだ。
「あの、それなら、どうして屋上を選んだんですか?」
「それはね、瀬乃さん。始貴君はそういう嗜好があるからだよ」
「違う! 大体屋上を選んだのはお前だ――」
「こらぁあああああああ! 木野枝! またお前かぁああああああああ!」
「え?」
始貴の言葉を遮って勢い良く開かれた屋上の扉から現れたのは、彼等の担任でもある五十貝だ。彼は始貴の姿を見つけるなり、ずんずんと大股で近づいて来た。
あまりの剣幕に始貴が思わず後退る。
とても二十歳過ぎには見えない童顔な教師は不機嫌そうに眉を吊り上げている。
彼は始貴の目の前まで歩いてくると、ずいっと顔を近付けた。その事に始貴は体を引こうとするが、強い力で肩を掴まれて、痛みに表情を歪める。
「……木野枝。何か言う事はないか?」
「え? えっと……きょ、今日も良い天気ですね?」
「違う!」
「……えーと、あ、五十貝先生。今日は髪の毛決まってますね!」
「おお、分かってくれるか! 実は二時間掛けてセットしたんだ! ……って、違う!」
自らの髪を触って笑った五十貝は再び始貴の肩を掴んで、ぎりぎりと力を込める。
「……質問を変えよう。今月何度目だ?」
「はい?」
「はい? じゃない! 学校の! 備品を! 壊したの! 何度目だ!?」
「えっと……」
五十貝の剣幕に押されて、気まずそうに視線を逸らして言い淀む。
そんな始貴の反応に五十貝はギロリと血走った目で目の前の生徒を睨みつける。
「窓ガラス八回。扉四回。机二回。校門二回。椅子一回。中庭のベンチ一回。そして、たったいま落ちた金網一回。合わせて十九回だ。因みに今日は九月十三日だ」
「…………」
「…………」
流れる沈黙。
始貴の視界の端には楽しそうに笑っているカノトと、オロオロと心配そうに眉を下げているつぐみが見える。目の前には引き攣った笑顔を浮かべた担任の顔。
徐々に強くなっていく力に肩が痛みを訴えて、顔を青ざめさせる始貴。そして、暫く無言の交戦が続き……やがて、五十貝が叫んだ。
「なんで今月十三日しか経ってないのに備品を壊した回数の方が多いんだぁあああああああああ!」
「痛い痛い! すみません!」
「一体一日に何回壊すんだ!? わざとか? わざとなのか!? わざとなんだろう!」
「ち、違います!」
「当り前だ! わざとだったら埋めるぞ!」
「わー、教師の言葉とは思えないね」
茶化すようなカノトの言葉に五十貝の視線が彼に向けられた。
まるで
五十貝は始貴から手を離すと、大股でカノトに近寄り、今度は彼の両肩を掴んだ。
「白露! お前も木野枝と一緒にいるなら少しは備品が壊れないように見張っててくれよ! 毎度毎度、怪我人がいないからいいものの……」
「あはは、無茶言わないでくださいよ。始貴君の不幸体質が僕程度がどうこう出来るわけないじゃないですか。それと、痛いです。離してください」
「お、おう。すまん」
にこやかに笑っているのだが、どこか威圧的なカノトに五十貝は気圧されたようにカノトから手を離した。
それと同時に昼休みの終了を告げるチャイムが響き渡る。
五十貝はそのチャイムにしまったとばかりに顔を歪めて、慌てた様子で始貴に向き直った。
「いいか木野枝! 放課後は職員室に来る事!」
「……はい」
「良し、それならお前達も授業に遅れないように教室に戻る事!」
それだけ言って、五十貝は慌ただしく屋上を出て行く。
自らの担任が出て行った扉を始貴が眺めていれば、同時に両肩に手を置かれた。
「呼び出しご苦労様」
「教室に戻りましょう」
全く同じタイミングで発された二つの言葉。
声を出した二人はお互いに目を合わせて、始貴は一瞬だけ目を丸くして、それから頷いた。
「ああ」
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