#01-1 日常


 始業を告げるチャイムが鳴り響く。

 喧騒に包まれる教室内の空気を切り裂くように大きな音を立てて、扉が開かれた。


「ほらー、チャイム鳴ったぞー。席につけー」


 教室に入ってきた小柄な教師の言葉に好き勝手に騒いでいた生徒達は慌てて自らの席に戻っていく。

 下手すれば高校生でも通じそうな程、幼く見える教師が教壇に辿り着く頃には一人残らず席についていた。

 その素早さに教師は苦笑しながらも一つだけ開いている席を見つけて、またかとでも言いたげな表情を浮かべる。


「なんだ、木野枝このえはまたいないのか。……白露しらつゆ、何か聞いてないか?」


 教師の言葉に退屈そうに窓の外を眺めていた一人の男子生徒が視線を動かす。


「さあ? また川にでも落ちてるんじゃないですか?」


 口元を緩めて楽しそうにそう言った少年に教師は呆れたように眉を寄せた。


「流石に一昨日落ちたばかりだから、それはないだろ。まあいいか。……それじゃあ、出欠をとるぞー」


 手にしていた出席簿を開いて、生徒達の名前を呼び上げていく教師。

 これが彼らの日常。

 毎朝繰り返される光景。

 教室内に響く教師の点呼に白露と呼ばれた少年は退屈そうに欠伸を噛み締めながら、雲一つない晴れやかな青空を見上げる。

 こうして、櫂苑かいえん高校二年一組の日常はいつもと変わらぬ朝を迎えるのだった。


◇◆


 午前最後の授業でもある四限目も終盤に差し掛かる頃。

 ガラリ、と大きく扉が開かれて教室内の生徒はおろか、丁度担当の日本史の授業をしていたこのクラスの担任――五十貝いそがいの視線までもが一斉に扉に向けられる。

 入ってきたのは一人の男子生徒。


 少年は片手で扉を抑えながら、俯いて乱れた息を整えている。

 そこまではいい。ただ遅れてきた生徒が教室に入ってきただけの事だ。

 何も驚く事はない筈なのだが、五十貝は少年の姿を見るなり、目を丸くさせる。


 何故なら目の前の生徒はずぶ濡れだったからだ。ポタポタと黒髪や黒のブレザーから水滴を滴らせている。

 五十貝は少年から視線を外すと、窓の外に視線を向ける。

 窓の外に広がるのは雲一つない青空だ。とても雨が降ったとは思えない。

 五十貝は再び少年に視線を戻して、口を開いた。


「……おはよう、木野枝。なんとなく想像つくが、一応聞いておこう。今日の理由は何だ?」


 五十貝に掛けられた言葉に少年――木野枝始貴しきは、僅かに顔を上げて、目元までかかる長い前髪の隙間から黒い瞳を覗かせた。


「おはよう、ございます。……朝、自転車が盗まれて、バスで来ようと思ったら遅れてて、徒歩で来ようと思ったんですけど、行く道行く道工事中で……仕方なく迂回してたら、いつの間にか知らない道に迷いこんでました」

「そうか、それは災難だったな。それで、どうしてずぶ濡れなんだ?」

「川に落ちました」


 極めて簡潔に告げられた言葉に五十貝は今朝の会話を思い出す。

――『さあ? また川にでも落ちてるんじゃないですか?』

 目の前の少年の友人の言葉が見事に的中していて、五十貝は苦虫を噛み潰したような顔をした。


「……とりあえず、着替えてこい。そのままじゃ、風邪引くぞ」

「はい」


 五十貝の言葉に始貴は頷き、自らのロッカーからジャージを取り出してから、教室を出て行く。

 その後ろ姿を見送ってから、五十貝は再び授業を再開させるのだった。

 


 始貴が学校指定の赤いジャージに着替える終わると同時に四限目の授業終了を告げるチャイムが鳴り響く。

 教室に戻れば、当然の事ながら教室は先程よりも騒がしくなっていた。

 始貴は人の合間をすり抜けて、自らの席に荷物を置くと僅かに息を漏らした。それと同時に頭上に影が落ちて、顔を上げる。


 そこに立っているのは目を疑うほどの美少年。

 光の加減で銀にも見える輝く純白の髪に女の子とも男の子ともとれる中性的な顔立ち。透き通った紫苑の瞳は、今は楽しげに細められている。

 櫂苑高校指定の黒のブレザーの下には着こまれている学校指定の赤いシャツ。黒ネクタイをきっちりと首元まで締めている始貴とは違い、白のネクタイを僅かに緩めている。


「おはよう、始貴君。今日も災難だね」


 ニコニコと笑いながら話しかけてくる少年を見て、始貴は僅かに表情を緩める。


「おはよう、カノト」


 その言葉に少年――白露カノトは、意地の悪そうな笑みを浮かべた。


「それで、今日は何で川に落ちたのかな? 確か、一昨日は飛んできたボールに当たったせいだったよね?」

「お前な……」


 ニヤニヤと笑いながら、尋ねてくるカノトに始貴は眉を寄せる。だが、こうなった状態のカノトが引かない事をよく知っているので、諦めたように溜め息をついた後、口を開く。


「……犬に追いかけられたんだ」

「犬に? なんでまた? 尻尾でも踏んだ? それとも犬の餌でも取ったの?」

「取るわけないだろ! お前は俺を何だと思ってるんだ!」

「え? 始貴君でしょ? 立ち上がればボールに当たり、座ろうと思えば椅子が壊れ、道を歩けば溝に落ちる、超不幸体質の木野枝始貴君でしょ?」


 ニコッとこれでもかというくらい無邪気な笑顔で告げるカノトに始貴は脱力する。

 体の力が抜けて、机に突っ伏した状態でカノトを見上げる始貴。


「……いや、間違ってはないけど……なんでか、お前の悪意を感じる気がするんだけど、気のせいか?」

「気のせい気のせい! それで、本当に何で犬に追いかけられたの?」

「俺が聞きたいよ。……目が合った瞬間、獲物を見つけた猛獣のような勢いで追いかけて来たんだ。しかも、リードが取れててどこまでも追いかけて来て……必死で逃げてたら、バナナの皮を踏んで、転んだ」

「ああー、それで、転がった先が土手で、そのまま転げ落ちて川に一直線! って、感じかな?」

「……正解」


 寸分の狂いなく言い当てられた始貴は、思いっきり表情を歪めて、嫌そうに頷いた。

 カノトはそんな始貴の反応に楽しそうにケラケラと笑い出す。


「あはは、何それ! 本当なんだ! そんなコントみたいな不幸に出くわすなんて、本当に始貴君は面白いよ! 最高!」

「…………」


 お腹を抱えて笑い出すカノトを始貴が半眼で睨みつけるが効果はなかった。

 もっとも始貴の話を聞いて大爆笑するのはいつもの事なので、睨みつけたぐらいでカノトが動じる筈ないと分かっていたのだが。


「と、というか、バナナの皮で転ぶ人なんて本当にいたんだ」

「何言ってるんだ。あれは本当に危険なんだぞ。一度踏んだら最後……三日に一度ぐらいの確率で転ぶぞ」

「あはは、な、なにそのバナナの皮遭遇率!? どうやったら、そんなにバナナの皮に遭遇出来るの!? 始貴君はバナナの皮吸引体質なの?」

「嫌だぞ、そんな体質」

「あはは、だろうね。僕も絶対にごめんだね」


 笑いすぎて出てきた涙を拭いながら、カノトの手が始貴の肩を叩く。


「まあ、それより、そろそろお昼食べようよ。僕、お腹空いちゃった」

「あ、ああ。そうだな。俺も朝から疲れた……」


 そう言いながら始貴も立ち上がり、自らの鞄を漁るのだが、何かに気付いたように動きを止めた。


「……あれ?」

「どうしたの?」

「財布がない」

「あらら、忘れちゃた?」

「いや、落としたな。たぶん犬に追いかけられた時か、川に落ちた時」


 始貴にとって財布を無くすなんて日常茶飯事なのだが、カノトにとってはそうではないのか、神妙な顔をして俯いてしまった。

 てっきり笑われると思っていた始貴は、あまりにも珍しいカノトの反応に動揺して、慌てたように口を開く。


「い、いや、財布無くすなんていつもの事だし、一週間に一度は無くすから、大して入れてないし、カノトが気にする事じゃないから!」


 口早に捲したてた始貴だが、肝心のカノトは何も反応を見せない。ただ俯いて、小刻みに肩を揺らしている。


(……ん? 震えてる?)


 体を揺らしている事に不信感を抱いた始貴はカノトの顔を覗き込み――。


「お前、笑ってるだけじゃないか!」


 目にしたのは、必死で笑いを堪えてるカノトの姿だった。


「ぶはっ! だ、だって、流石に財布を無くすなんて笑ったら可哀相かなって思ったのに、一週間に一度は無くすって……何のカミングアウト!? あはは、本当に凄いよね! その不幸体質」

「笑い事じゃない! 俺にとっては死活問題なんだ!」

「そう? 僕は見ていて楽しいけど」

「あ、あの……」

「俺は見世物じゃないぞ!」

「褒めてるんだよ」

「あの、木野枝君」

「褒めてないよな! 絶対に褒めてないよな!」


 思わずカノトに詰め寄る始貴だが、カノトは全く動じずにニヤニヤと笑うだけだ。


「ところでさ、さっきから呼んでる人がいるのに、無視するなんて始貴君ひどーい」

「は? 何言って……」


 カノトの目線が始貴とは全く別の方向に向かったのにつられて、始貴も怪訝そうな顔をしながら視線を移す。そして、視線の先に立っていた小柄な少女を目にして、目を見開き、慌てて少女に向き直る。


「せ、瀬乃せのさん!? い、いつからそこに!?」

「え、えっと、先程からです」

「ご、ごめん! 無視してたわけじゃないんだ! ただ、気付かなかっただけで……」

「いえ、気にしないでください。白露君と話してる時に話しかけた私が悪いですから」


 ふわり、と優しく微笑む少女の名前は、瀬乃つぐみ。

 艶のある漆黒の長髪に頭に巻かれた赤いリボンが特徴的だ。櫂苑高校指定の赤いシャツに黒のブレザー。そして、男子の黒ズボンとは違う赤チェックのスカートは彼女の真面目さを表わすように校則通りの膝丈だ。第一ボタンまできっちりと留められた赤いシャツの上には大きな白いリボンが存在を主張している。

 小柄な体におどおどとした様子は小動物を彷彿ほうふつとさせる。

 そんな彼女の言葉に始貴は大きく両手を横に振った。


「い、いや、瀬乃さんは悪くないよ! 気付かなかった俺が悪いし!」

「い、いえ、木野枝君は悪くないです! 私が……」

「いや、俺が」

「いえ、私が」

「ねえー、その譲り合いまだ続けるの? 昼休み終わっちゃうよー?」


 お互いに自分が悪いと言い合っていた二人に声を掛けたのは、呆れた顔をしたカノトだった。

 カノトの言葉に二人はお互いに目を合わせ、それから顔を赤くして、笑いあう。


「そ、そうだね。ごめん」

「いえ、私こそごめんなさい」

「ああ、もう! またさっきの繰り返しになるでしょ! ほら、始貴君!」


 カノトに背中を押されて、始貴は目を丸くさせながら、つぐみに向き合う。


「……え、えっと、それで、何か用でもあるの?」

「あ、は、はい。え、えっと……」


 言いづらそうに視線を逸らして俯くつぐみに始貴は不思議そうに首を傾げて、彼女の言葉の続きを待つ。

 つぐみは何度か深呼吸をした後、覚悟を決めたように顔を上げた。


「あ、あの、良かったらこれを」


 差し出されたのは綺麗に包まれた箱のようなものだった。

 始貴はそれが何だか理解できずに目を丸くさせながら、見つめる。


「……えっと、これは……?」

「あ、あの、えっと、今日、考え事しながらお弁当を作っていたら、作り過ぎてしまいまして……えっと、それで、木野枝君、いつもパンばかり食べてますから……日頃の感謝を込めてって事で……」


 かあっと、顔を真っ赤にして俯いてしまったつぐみに始貴は呆気にとられたように彼女が手にしている包みを見つめている。

 そんな始貴の反応につぐみは不安そうに彼を見上げた。


「……え、えっと、め、迷惑、でしたか?」

「…………」

「ちょっと、始貴君」


 何の反応も示さない始貴にカノトが肘でつつけば、始貴は我に返ったように体を跳ねさせる。


「め、迷惑なんかじゃない! あ、ありがとう! 凄い嬉しい!」

「それなら、良かったです」


 始貴の言葉に心底安心したように頬を緩めたつぐみ。

 そんな二人に教室中の至る所から視線を向けられていたのだが、二人は全く気付く事なく、唯一気付いていたカノトが呆れたように苦笑するだけだった。

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