第1章

#00  プロローグ


 その日は生憎の曇り空で、今にも雨が降り出してしまいそうな危うい天気だった。

 空を覆う黒く厚い雲は、その上で輝いているであろう太陽の日差しを完全に遮断してしまい、朝だというのに不気味な薄暗さが周囲を満たしていた。

 そんな天気だと古びた学校の校舎内は普段とは違う陰鬱いんうつさをかもし出してる。

 薄暗い廊下を歩く生徒達の顔も心なしか暗くなっているのはこの天気のせいなのかもしれない。


 午前八時二十分。

 もうすぐ始業時間だというのにそのクラスの生徒達だけは教室に入ることはせず、廊下に立ち往生していた。

 廊下を行き交う生徒達は不思議そうな視線を向けながらも足早に自らのクラスへと入っていく。


「ふわぁ……おはよ。みんなして、こんな所で何してんの?」

「ああ、おはよーさん。アレだよ、アレ」


 大きな欠伸をしながら登校してきた男子生徒の一人が自らの教室の前に集合しているクラスメイトを見て、目を丸くしながら友人に声を掛けた。

 その声に反応を示した友人は、やれやれとでもいいたげな様子で軽く肩を竦めてから、教室の扉に視線を移す。

 男子生徒は友人の視線の先を追うように自らも扉を見て、眉を顰めた。


「……なんだ、あれ?」


 思わずそんな声が漏れる。

 男子生徒が見た物はどの教室にもある何ら代わり映えしない横スライド式の扉。その扉についている小窓は何故か真っ暗だ。

 本来ならそこから教室内の様子を覗ける筈なのだが、唯一教室内を覗ける小窓は内側から暗幕か何かで覆われているようで、真っ暗な闇を映し出すだけ。


「さあな。とにかく教室に入りたくても扉に鍵が掛かってて入れないんだ。窓は見ての通り……あの様だ。隣の教室から見たけど、教室の窓も暗幕みたいなので覆われてて中の様子は一切わからねえ」

「教室の窓もか? なんか不気味だな。……まあ、どうせ誰かのイタズラだろ」

「だな。今、高倉たかくらが職員室に鍵を取りに行ってるから、そのうち……お、戻ってきたみたいだな」


 友人の言葉とほぼ同時に一人の女生徒がパタパタと慌ただしく戻ってくる。


「ご、ごめんなさい! いま開けるから!」


 慌てたように生徒達の間を擦り抜けて、扉に向かう一人の少女。

 このクラスの学級委員でもある少女が扉に鍵を差し込むのを見て、生徒達はようやく教室に入れると安堵したように空気を緩めた。

 だが――。


「あ、あれ?」

「どうした?」

「……扉が開かないの。何かにつっかえてるみたいで……」


 不思議そうに首を傾げる少女に代わり、幾人の生徒達が扉を開けようとするが、硬い何かにぶつかって開けることは叶わなかった。


「高倉ー! 鍵こっちに貸して! こっちからなら開くかも」

「あ、う、うん」


 訝しげに眉を寄せていた少女はクラスメイトの声に我に返り、自分とは反対側の扉にいる生徒に鍵を渡す。

 教卓側の扉は何かにつっかえて入れないが、廊下側の扉からならば開くかもしれない。

 そんな期待を胸に鍵を受け取った生徒は扉に鍵を突き刺し、グルリと回した。

 カチャリ、と鍵が開く音がして、生徒は僅かに息を吐き出し、扉に手を掛けた。

 何の障害もなく、あっさりと扉が開く。

 その瞬間――。教室内に溜まっていた『何か』が溢れだすように周囲に異臭が広がった。


「うわ……なんだこの匂い……」


 思わず腕で顔を隠して、眉を顰める。

 教室内には闇が広がっていた。

 普段ならば、外から入ってくる陽の光が教室内を照らすのだが、現在その教室の窓は完全に遮断されており、一筋の光すら存在を許されなかった。

 もっとも窓を塞ぐ暗幕がなくても、今日のように薄暗い天気では明かりなどあってもそれは大した足しにはならなかっただろう。

 その為、生徒達は手探り状態で真っ暗な教室内に足を踏み入れることとなったのだった。


 生徒達の誰もが携帯の明かりを使おうとしなかったのは、彼らの直感が何かを訴えていたからかもしれない。

 自分達はこれからとんでもないものと遭遇してしまうのではないか、と湧き上がる不安が彼らに僅かな光を求めさせなかったのかもしれない。


 次々に教室内に足を踏み入れていく生徒達の反応は様々だ。

 光を求めて、窓を塞ぐ何かを剥がそうと窓のある方向へ向かう者。

 あるいは、窓ではなく、電気をつけようと自分達が入った扉とは正反対の場所にあるスイッチの元へと壁伝いに歩き出す者。

 光を求めるのは他人に任せ、勘だけで自らの机があるであろう場所に向かう者。

 反応は様々だが、教室内に足を踏み入れた生徒の殆どはそこである違和感に気付く。


――何もない?

 教室内には当然、生徒達が勉強するべき机があり、椅子がある。

 それは教室に所狭しと並んでいる筈だ。

 本来ならば、それが正しい姿の筈なのだ。だが、真っ暗な教室内に手探り状態で足を踏み入れた生徒達は何にもぶつからないのだ。

 それがおかしい。普通なら、こんな一寸先も見えない暗闇の中で教室内を歩こうとすればすぐに何かにぶつかって当然の事。それなのに未だに誰かが何かにぶつかった気配すらない。

 その事に多くの生徒達が不信感を持ち始めた時――。


「おわっ!?」


 ドタン、と誰かが転んだような声が暗い教室内に響き渡った。

 生徒達の多くが音のした方向に視線を向けるが、やはり暗闇では何も解らない。だが、声だけで誰が転んだのか判断したのか、生徒の一人が声を上げる。


「おいおい、大丈夫か?」

「……いつつ。ああ、大丈夫だ。それにしてもなんか床が濡れてる? んー? やっぱ見えねえな。おーい、誰か電気つけてくれ」

「そんな事言われてもなあ……こんな暗闇じゃ、そう簡単にスイッチが見つかるか?」

「ま、待ってください! い、いまつけます!」


 学級委員の少女の声が教室内に響いたかと思えば、それとほぼ同時にパッと教室内が明るくなる。

 急激な明るさに生徒達は思わず目を瞑り、それから安堵したように息を吐きかけ……硬直した。

 明るくなった教室内。

 そこに広がっているのは、目が眩むほどの『赤』だった。

 壁も。床も。教室内の窓という窓を封じている黒い暗幕にも。何故か端に寄せられている机と椅子にも。

 まるで赤いペンキをこれでもかとぶちまけたかのように教室内にありとあらゆるものが赤に侵食されていた。


「……なん、だよ……これ……」


 ポツリ、と漏れた呟きは完全に静寂に支配された教室内にひどく大きく響いた。だが、その声に反応するものはいない。

 誰もが目を疑うように教室内に広がる赤に目を奪われていた。そして、生徒達は気付いた。

 誰からともなく、気づいてしまった。


 いつも彼らが眺めている黒板に。

 教師達が訳の解らない羅列を書き連ねていく黒板に。

 いまなお、赤い血を滴らせ、はりつけにされている少女の存在に――。


 誰もが目の前の光景を理解できなかった。

 誰もが呆然と黒板に磔にされている少女を見つめる。

 長い漆黒の髪が顔を隠しているせいで、それが誰かは解らない。だが、長い髪と赤いシャツと赤チェックのスカートから、磔にされているのがこの学校の女子生徒だという事だけは分かった。そして、おそらくこのクラスの女子生徒だという事も。


 ホラー映画に出てくる吸血鬼に刺すような大きく太い木の杭が少女の両手を深々と貫き、彼女を磔にしている。

 十センチほど浮いた少女の身体から滴る赤い血が、足元に血の池を作り出していた。

 まるで生贄に捧げるかのような異様な光景。猟奇的というよりも何かの儀式のようにも思える。

 そんな異様な光景を前に生徒達は身動き一つ取れず、完全に時を止めていた。


 息をしているのかも分からず、ただ磔にされている少女を見つめるだけ。

 誰も動かない。誰も喋らない。

 この教室だけ切り取って、何もかも停止したように思える空間でただ一人動いた少年がいた。

 ふらふらと今にも転んでしまいそうな覚束ない足取りで、ゆっくりと黒板に近寄る。


 顔面を蒼白にさせた少年の体はふらふらと揺れながら、それでも少年の視線は黒板に磔にされている少女から外れる事はない。

 緩慢な動作で漸く磔にされた少女の元に辿り着いた少年は、僅かに顔を上げて、震える手で少女に手を伸ばす。

 その事に磔にされた少女と少女に近付く少年を呆然と見ていた生徒達の中で、一人だけ声をあげようとした生徒がいたのだが――。

 その声が上げられるより早く、少年の手が少女の顔を隠していた髪を払いのけた。


「……あ」


 少年が出せた言葉はそれだけだった。

 もっともその声すら、少年は出そうと思って出したものではないだろう。

 自然と口から零れ出たという表現がぴったりに思えた。

 露わになった少女の顔を見て、少年は大きく目を見開き……ガタガタと全身を震わせる。

 無意識に後ずさろうとした少年だったが、足に力が入らなくなったのか、がくんと膝から崩れ落ちた。


 それは決して大きな音では無かったのだが、静寂に支配された教室内ではやけに大きく響く。

 その音に時を止めていた生徒達は、ハッと我に返り、漸く動き出した思考が、目の前の状況を理解する。

 顔を青ざめさせた生徒達は唇をわなわなと揺らし、床に崩れ落ちた少年の絶叫と共に大勢の悲鳴が響き渡った――。

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