幽霊少女の幸福
無言の始貴がやって来たのは、一週間前に麗香と初めて出会った河原だった。
始貴自身も無意識に歩いてきたのか、心ここにあらずな様子だ。
そんな彼に麗香は重い空気を消し去るように努めて明るい声を上げる。
「それにしても、驚いたね。まさか公園にトラックが突っ込んでくるなんてね」
「…………」
「私、見てたけど、運転手寝てたよ。いやー、怖いね。居眠り運転なんて」
「……鶴来さん」
「ん? どうしたの?」
俯いていた始貴が顔を上げる。前髪の隙間から見える黒の瞳が真っ直ぐ麗香を捉えた。
「これで、分かっただろ。俺の傍にいるのがどれだけ危険かってこと。今日の窓ガラスも、さっきのトラックも……全部、俺のせいなんだから。鶴来さんが死んだ理由も分かったし、多分犯人は助からないから、友達は助かったと思う。だから、早く俺から離れた方がいい」
その真っ直ぐな視線は純粋に麗香の身を案じているだけだ。
彼はそういう人なのだ。自分よりも他人優先なお人好しなのだ。自分が関わる事で、他人を不幸にするくらいなら、他人と距離を置こうと考えるお人好しなのだ。
そんな彼だからこそ、麗香は心配だった。
もしこのまま自分がいなくなってしまえば、彼はまた一人になってしまうのではないのか、と。
一週間前、出会った時は赤の他人だった。けれど、一週間一緒に過ごす内に麗香は始貴の優しさを知った。
たった一週間。
まだ始貴の事を知ったなんて胸を張って言えるほど、お互いに知らないことが多い。それでも、麗香は始貴の優しさを知ったのだ。
お人好しで、人を傷付ける事に酷く怯える臆病な彼。そんな彼がこのまま一人で生きていくのは勿体無い気がした。
彼の優しさは誰かを救う。
麗香が彼の優しさに救われたように。
だから、彼には前を向いて歩いて欲しかった。自分のせいだと殻に閉じこもらないで、もっと他人と関わって欲しかった。
そんな想いもあるが、ただ単純に麗香がまだ始貴の傍にいたかった。もっと彼を知りたいと思った。
「私は幽霊だよ」
「は?」
「この一週間一緒に過ごして、私がいつ危ない目にあった? むしろ、私は何もなかったよ」
「それは、そうだけど……」
言い淀む始貴に麗香は笑う。
「私は大丈夫。幽霊だから、怪我もしないし、死ぬこともない。木野枝君に関わると不幸になるって言われても、私は不幸になんてなったりしない」
晴れやかに、見てる方が眩しくて目を逸らしてしまいたくなるほど、優しい顔で笑う。
「だからさ、もう少しだけいさせてよ。私、木野枝君の不幸なんかに負けないから!」
その言葉は、始貴にとって予想だにしないものだった。そんな言葉をかけてもらえるなんて思っていなかった始貴は驚きに目を見張る。
今にも泣き出しそうなほど、表情を歪めて俯いてしまう。
麗香は始貴の言葉を黙って待つ。
彼が出す答えに素直に従おうと思っていたのだ。
始貴は幾度も視線を麗香に向けたり、逸したり、口を開いたり、閉じたり。何度も繰り返しては俯く。その繰り返しだ。
相当悩んでいるのだろう。
麗香が言うように幽霊の彼女に起こる不幸など本当にあるのだろうか?
もしかしたら、本当に彼女は安全なのではないだろうか?
けれど、本当に安全なのか?
自分の傍にいることで、思いもよらない不幸が彼女に押し寄せるのではないか?
様々な疑問が始貴の脳裏に過り、消えていく。
不安は沢山ある。
麗香の事を想うならば、突き放した方がいいことも始貴は理解していた。けれど、久しぶりに自分に手を差し伸べてくれた人を。久しぶりに自分に笑いかけてくれた人を。自分の不幸体質を知っても傍にいたいと言ってくれた人を、突き放すことなど始貴には出来なかった。
彼はいつだって希望を抱いて、それを打ち砕かれるのを見てきた。きっと、今度も希望を抱いた所で、打ち砕かれる。それでも、希望を抱かずにはいられなかった。
もう一人は嫌だった。
覚悟を決めて、顔を上げる。目の前では、始貴の言葉を待っていてくれる麗香がいる。
そんな彼女に始貴が自分の考えを告げるより早く、声が響いた。
「残念ながら、それは叶わない願いだ」
始貴の希望をあっさりと打ち砕くような冷酷で無慈悲な声。
聞き覚えのないその声に二人は勢い良く振り返る。そして、二人が振り返った先に立っていたのは黒いロープを被った不審人物。目深に被られたフードのせいで、口元しか見えない為、顔は分からない。けれど、先程の声を聞く限り、男のように思えた。
あからさまに怪しい男の登場に始貴達は訝しげに眉を寄せた。
男はそんな二人の反応など、意に介した様子なく、また口を開く。
「鶴来麗香。君は重大な規約違反を犯した」
「え?」
「死者が生者に取り憑くのは、決して行ってはならない。それがルールだ」
「……あなた、何?」
自分の姿が見えるだけではなく、意味不明なことをいう男に麗香は警戒した様子で、男を睨みつける。
男はフードの下から見える口元を僅かに上げて、告げる。
「私は……君達人間風に言うならば、『死神』と呼ばれるものだ」
「しに、がみ……」
その言葉だけで、充分だった。
目の前の不審人物が本当に死神であろうとなかろうと、最早関係なかった。
彼が麗香に害を為しに来たのだという事だけが分かれば、充分すぎた。
咄嗟に始貴が麗香を庇うように彼女の前に立ち塞がる。その事に始貴の背後で、麗香は目を見開いた。まさか、始貴が庇うなんて思っていなかったのだ。
「鶴来、さんを……どうするつもり?」
その声は酷く震えており、迫力なんてものは微塵も感じられない。
震えているのは声だけではない。麗香を庇うように立ち塞がった猫背気味の体も震えていた。
それでも始貴は男から目を逸らす事なく、顔を上げて、真っ直ぐ男を見つめていた。
「……本来ならば、死した魂を輪廻の輪に運ぶことが我々の仕事だ。しかし、ルールを犯した者には処罰を下さねばならない」
「処罰?」
「魂の消滅だ。罪を犯した者の魂は転生させる事が出来ない。だから、私は鶴来麗香の魂に終わりを告げに来た」
「っ!」
死神と男が名乗った瞬間から、覚悟はしていた。けれど、実際に言葉にして告げられるとその言葉の重みに麗香は顔を強張らせる。自然と体が震えだす。
死神は体を抱えて震える麗香を一瞥すると、表情を青ざめさせている始貴に視線を向ける。
「木野枝始貴。お前は、私の仕事の邪魔をするのか?」
「……お、俺は……」
小さく、か細い声を聞き逃さないようにしたのか、死神は黙って始貴の言葉を待っている。始貴は何度も麗香と死神に視線を移して、それから、ゆっくりと告げた。
「つ、鶴来さんが……消滅するなんて、嫌だ」
「木野枝君……」
「ほぅ」
死神が楽しそうに口角を上げる。その瞬間、周囲の雰囲気が変わった。
重く、今にも押し潰されてしまいそうなほどの圧迫感。禍々しく、声を出すことすら許されない威圧感。
本能が警鐘を鳴らす。
逆らってはいけない。歯向かってはいけない。ただの人間がどうにかできるほどの相手ではない。
自然と膝が笑い、そのまま力が抜けたのか、始貴は膝をつく。
死神が放つ、絶対的な『死』のイメージが始貴の脳裏にこびりついて離れない。
自分では抑えきれないほどの恐怖心が全身を支配する。今すぐにでもここから逃げ出したかった。けれど、そのあまりにも圧倒的な存在感に目を奪われてしまい、逸らすことなど出来なかった。
「君は死ぬべき定めにない。大人しくしていれば、危害は加えない。もっとも記憶は消させてもらうけど」
「え? き、おく?」
「そう、鶴来麗香と過ごした記憶。君の中で、この一週間はなかったことになる。君は、この先永劫に鶴来麗香という少女に出会った事を、鶴来麗香という少女と過ごした日々の事を思い出すことはない」
死神の無慈悲な言葉。
その言葉に絶句したのは始貴だけではない。麗香も同じだった。
「なん……で……」
「それがルールだからだ」
抗えない。他者を屈服させる力を持った声が無情に降り注ぐ。
麗香は瞠目する。
全てを諦めたように息を吐き出す。
これ以上、始貴に迷惑を掛けたくなかった。優しい彼の事だから、このまま麗香が消えれば、心を痛めるだろう。自分の不幸のせいではないかと考える筈だ。しかし、死神が言った通り、麗香との記憶が消えるならば、彼が気に病む事などないだろう。その方が麗香にとっては、よほど良いように思えた。
だから、麗香は……。
「木野枝君、今までありがとう」
「え?」
「私、死んだ後で、木野枝君みたいな人に出会えて良かった。お陰で、幽霊になった後でも楽しかった」
「ま、待って。そんな、お別れみたいなこと……」
「みたいじゃないよ。お別れ、だよ」
笑っていた。
今まで見た中で、一番晴れやかな笑顔で笑っていた。
その笑顔に始貴は言葉を失う。
彼女の意志の強さが、彼女の覚悟が伝わってきて、何も言えなくなる。
麗香が一歩、前に踏み出す。
彼女を庇うように立っていた始貴を追い越す。
一歩、また一歩と死神の元に自ら歩み寄る。
「待って!」
咄嗟に始貴が麗香を引き留めようと、手を伸ばす。けれど、始貴の手は麗香の腕を掴むことなど出来ずにすり抜ける。
麗香は振り返らない。
迷う様子すらなく、自分から消滅への道へ近付いて行く。
それでも、始貴は必死に彼女を引き留めようと何度も手を伸ばす。決して
その顔は今にも泣き出してしまいそうだった。
「お願い、鶴来さん! 待って!」
麗香は振り返らない。
歩みを止めることもない。
「嫌だ。嫌だ、もう一人は、嫌――」
その時だ。今まで動こうとしなかった死神が動いた。
一瞬にして、麗香の視界から消えた死神。驚いて、その姿を探すように麗香が振り返ると彼女の視界に飛び込んできたのは、倒れていく始貴と彼の傍に立っている死神の姿だった。
麗香には何が起こったか分からなかった。
ただ死神が始貴に何かをしたということだけを理解する。
「木野枝君!」
「心配はない。ただ記憶を奪っただけだ」
地面に倒れた始貴を見れば、彼の胸は確かに上下していた。どうやら気を失っているだけのようで、麗香は安堵したように息を吐き出す。
「……木野枝君は、本当に私の事忘れるんだよね?」
「次に目が覚めた時には全てを忘れている」
「そっか。それなら、良かった」
心から安心したように笑う麗香に死神は僅かに首を傾げた。
「何故、笑える?」
「え?」
「お前は、もう消滅する。それなのに、何故笑える?」
「笑うのは可笑しい?」
「お前以外にも大勢の人間がルールを犯し、消滅してきた。そいつらは全員消えるのは嫌だと泣き喚いていた。それなのに、お前は何故?」
泣かないのか、絶望しないのか。
言葉に出さずとも死神がそう言っているのだと察した麗香は、やはり笑うのだ。
晴れやかな、太陽のように眩しいくらい清々しい笑顔で。
「木野枝君と会えたから。木野枝君と話せたから。彼は……木野枝君は私を見てくれたから」
「…………」
「私は幸せ者だよ。幽霊の私を気味悪がずに、あまつさえ、私の心配ばかりするお人好しの人に出会えたから。だから、後悔なんてないの」
「そうか」
死神はそれ以上何も言わなかった。
無言で、どこから出したのか分からない、一瞬にして現れた巨大な鎌を麗香に向ける。
「この鎌で君を斬れば、君の魂は完全に消滅する。心の準備は?」
その言葉に麗香の瞳が僅かに揺らぐ。しかし、それも一瞬だけで、麗香はすぐに笑った。
それが合図だった。
死神が巨大な鎌を大きく振りかぶる。
酷くゆっくりに思える時間は自分が死ぬ時と同じだと感じた。
徐々に自分の命を刈り取ろうとしている凶器から視線を外して、地面に倒れている始貴に向ける。
(……そういえば、伝えられなかったな。私は、木野枝君に会えて幸せだったってこと。不幸になんてならなかったってこと)
いま現在、麗香が消滅という状況に陥ったのは、始貴と関わった事による不幸だったのか。それとも、これが麗香の運命だったのか。そんなことは彼女に分からない。分かるはずもないのだけれど、麗香は決して始貴のせいにはしないだろう。
彼女は木野枝始貴に出会った事を。始貴と関わった事を、全く後悔していないのだから。
こうして自分の命が消滅しようとしているのにも関わらず、その気持ちは変わることなどない。
何度聞かれても、誰に聞かれても彼女は後悔などしていないと言い張るだろう。
それが鶴来麗香の嘘偽りなき本心だからだ。
銀色に輝く刃が更に近付いて来る。
それでも彼女は始貴から目を逸そうとしない。
少女は願う。
お人好しで、一人で傷付こうとする少年を支えてくれる人が現れてくれる事を。
少女は願う。
孤独に生きようとする少年の優しさに気付いて、彼を好いてくれる人が現れてくれる事を。
少女は願う。
少年が笑って過ごせる日常を送れる事を。
ただひたすら、一途に少年の幸せだけを願い続けた。
少女の幸福は、最後の最後に自分を見てくれる人に出会えた事。
少女の不幸は、それを本人に伝えられなかった事。
意識がない始貴には麗香の姿を捉える事など出来ない。
次に目を覚ました時、彼は麗香に関する全ての記憶を失っている。
それでも……それでも、たとえ始貴に見えていなくても、始貴に届かなくても、始貴が覚えていなくても、麗香は笑うのだ。
最後の最後まで、涙を流すことなく、笑顔で始貴を見ていた。
瞬間、巨大な鎌が麗香の体を切り裂き、彼女の姿は瞬時に霧散した。
彼女が確かに存在していたという証すら消し去るように、何の痕跡すら残さず、鶴来麗香という少女はこの世から消えたのだ。
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