幽霊少女の真実


 そこにいたのは一人の小柄な少女。

 長い漆黒の髪の後ろに結われた白いリボンが風に揺られる。大きな黒の瞳は心配の色を携えて始貴に向けられていた。

 彼女が着ている黒のセーラー服は、麗香が着ているものと同じものだ。

 その少女の顔には見覚えがあった。麗香は目を見開き、少女の名を呼んだ。


「つぐみ!」


 けれど、その声は少女に届かない。始貴を見ている黒の瞳が傍に立っている麗香に向けられる事はない。

 少女は声を掛けても反応しない始貴に困惑した表情で暫く様子を窺っていたが、不意に何かを思いついたように駆けだした。

 離れていく少女を視線だけで追いかける。彼女は公園の端にあった水道に駆け寄ると鞄から白いハンカチを取り出して、それを水で濡らすと再び始貴の元に駆け寄ってくる。


 彼女の容姿故に駆け寄ってくる姿はまるで小動物のように思えた。しかし、始貴の不幸体質のせいなのか、それともただ単に彼女がドジだったのか分からないが、駆け寄ってくる途中で躓いてしまう。それにより、彼女が手にしていた水分をたっぷりと含んだハンカチは空中に放り出される。

 麗香が、あっと思った時にはもう遅い。ハンカチは綺麗に弧を描きながら、始貴の顔面に見事に着地した。


 べチョリ、という湿った音と共に少女が顔面を蒼白にさせるのを麗香は視界の端で確認する。しかし、その出来事が幸を成したのか、先程まで反応しなかった始貴が、ガバリと飛び起きた。


「つめたっ!? な、何!? ……え、ハ、ハン、カチ?」

「木野枝君!」

「え……鶴来さん? これは一体……」


 全く状況を理解できていない始貴は目を丸くしたまま、麗香に視線を移す。

 そんな彼に慌てた様子で、一人の少女が駆け寄ってくる。


「ご、ごめんなさい! 大丈夫でしたか?」

「え、えっと……」


 見覚えのない少女に始貴は少女と麗香に交互に視線を向ける。状況を説明してくれとばかりに見てくる始貴に麗香は肩を竦めてから、口を開いた。


「その子、木野枝君を助けようとしてくれたよ」

「ごめんなさい! 私が躓いたばかりにハンカチが顔に……」

「え……い、いや、大丈夫。えっと、これ君のなんだよね?」

「はい」

「そう。ありがとう」

「え?」


 お礼を言いながら、ハンカチを差し出した始貴に少女は目を丸くして、反応に戸惑っている。何故、彼女がそんな反応をするのか分からなかった始貴は、ハンカチを差し出したまま首を傾げた。


「木野枝君。いまの言い方だと、濡れたハンカチを顔にぶつけてくれてありがとうって言う変態の発言になるよ」

「っ! ち、ちが、そういう意味じゃ!」


 麗香の発言に自分の失態に気付いた始貴は慌てて声を上げるが、麗香の声など聞こえていない少女は突然叫んだ始貴にびくりと肩を揺らした。


「あ、ご、ごめん。なんでもないんだ」

「……は、はい」

「ごめん、本当にありがとう! それじゃあ!」

「あ……」


 始貴は無理矢理少女にハンカチを手渡すと、彼女の言葉など聞かずに踵を返す。


「ちょっと、木野枝君!?」


 歩き出してしまった始貴に驚きながら、麗香も彼の後を追いかける。今度は歩いているので、すぐに追いつく。


「あの態度はないんじゃない?」

「い、いや、あの、あれ以上、話してたら危ないし……多分、あの子が転んだのも俺のせいだし」

「それは違うと思うよ。あの子、元々よく転ぶし」

「え?」


 麗香の言葉に疑問を覚えて、彼女に視線を向ければ、麗香は後ろを振り返っていた。始貴もその視線の先を追うように視線を向ける。そこには先程の少女が背中を向けて歩いているのが見えた。

 漆黒の長髪が彼女が歩く度に揺れて、髪の隙間から見える黒のセーラー服を目にして、始貴は気付く。

 少女が着ている制服は麗香と全く同じ――時雨女子中学校のものだ。


「……知り合い?」

「友達」


 素っ気なく答える麗香だが、その表情は寂しげだ。

 遠ざかっていく背中を眺めている麗香に倣って、始貴もその背中を見つめる。そこで、彼はある事に思い当たる。


(鶴来さんの友達なら、死んだ理由を知ってるんじゃないか?)


 そう思った始貴は麗香に提案してみようとする。だが、その時、視界の隅に横切ったものに何の気なしに視線を向けて、訝しげに眉を寄せた。


「どうしたの?」


 始貴の表情の変化に気付いた麗香は不思議そうな顔をして、声を掛ける。始貴の視線はどこかに固定されたままだ。


「あれ……怪しくないか?」


 僅かに低くなった声に驚きながら、麗香も始貴の視線を追う。そして、その先にいた人物を目にした瞬間、目を見開いた。

 視線の先にいたのは二十歳そこそこの青年。ボサボサの髪にダボッとしたジャージを身に纏っている男は、遠ざかっていく少女を陰からじっと見つめているように思える。見るからに怪しさ満点の男を始貴は注意深く観察している。


「っ……」


 不意に隣にいた麗香が頭を抱えて、前のめりになった。


「鶴来さん?」


 頭を抱える麗香は顔面蒼白で、驚愕に満ちた様子で目を見開いていた。その体は小刻みに震えている。明らかに只事ではない様子に始貴は、焦った様子で呼びかける。


「鶴来さん! 大丈夫?」

「……あ、いや……わ、私……」


 けれど、始貴の声など届いていないようで、麗香は見開いた目を青年から外すことはない。


「鶴来さん!」

「っ!」


 一際大きな声と共に麗香の視界に始貴の姿が映り込む。彼女は呆然とした様子で始貴を見つめ返す。


「……この、え、君?」

「大丈夫?」


 心配そうに眉を下げている始貴の顔を見て、麗香は安堵したように小さく息を吐き出した。


「……大丈夫。落ち着いた」

「何かあったのか?」


 その言葉に麗香の表情が強張る。けれど、彼女は硬い表情のまま、どこか憎しみを込めた瞳で男を睨みつけた。


「……思い出したの」

「思い出すって……死んだ理由?」


 小さく頷く。その様子に始貴は嫌な予感が沸き上がってくる。なんとなく彼女が言おうとしている言葉が予想出来たのだ。麗香は始貴に視線を向けることなく、淡々と抑揚のない声で始貴の予想に反しない言葉を紡ぎだした。


「……私、殺されたの」


 予想通りの言葉とはいえ、彼女の口から告げられた事実に始貴は動揺する。


「……十日前、あの男に……殺された」


 感情を一切感じさせる事のない声に寒気を覚える。麗香の視線は相変わらず男へと向けられている。


「突然だった。学校の帰り道、突然襲われた。……あいつ、楽しそうだった。人を殺せれば誰でもいいって笑ってた」


 急激に周囲の気温が下がっていくような気がした。

 麗香から激しい負の感情が渦巻いていく。彼女の雰囲気が禍々しいものに変わっていく。

 その気迫に圧倒されて、始貴は言葉を失う。全身が粟立つのが分かった。


 そこで、始貴は気付く。

 麗香の言葉を聞いた始貴はある事実に気付く。

 彼等の目の前にいる怪しい青年は麗香を殺した張本人。しかも、麗香の話を信じるならば、殺す相手は誰でもいいということだ。そして、その殺人犯が追いかけている一人の少女。


「……もしかして、あの人、鶴来さんの友達を狙ってるんじゃ……」


 無意識に声に出してしまった始貴は慌てて口を噤むが、麗香にはしっかりと聞こえたらしく、勢い良く振り返る。


「それ、どういう事!?」

「え、あ、いや……ただの予想なんだけど」

「それでもいいから説明して!」

「あ、ああ。……あの人が鶴来さんを殺したんだろ? だったら、そんな男がこれ見よがしに見張っている女の子は危ないんじゃないかって思って」


 始貴の言葉を聞いている内に麗香の顔が青ざめていく。

 自分が殺された時の記憶が邪魔をしていて、そんな考えが到底思い浮かばなかったようだ。


「つ、つぐみが危ない! あの子、このままじゃ、私のように殺されちゃう!」

「お、落ち着いて」

「落ち着けるわけないでしょ! あれ、本当に怖いんだよ!? どんなに叫んでも、どんなに痛くても、誰も助けてくれない! 何度も何度もナイフを色んな所に刺されて、血がたくさん出て、もう訳わかんないんだよ! 痛くて、苦しくて、寒くて、怖くて……」


 泣いていた。麗香は泣きながら叫んでいた。

 彼女が語る死に際に始貴は全身から血の気が引くのが分かった。予想以上に凄惨な死に方に恐怖を覚えたのだ。


「とにかく、つぐみを助けないと!」

「あ、鶴来さん!」


 駆け出してしまった麗香。陰から様子を窺っている男には麗香の姿など見えない。そして、つぐみと呼んだ少女の元に近付いて、必死で彼女に訴えている声も訴えかけられている少女自身に届かない。


 声など聞こえない。姿など見えない。けれど、それでも麗香は叫ばずにはいられなかった。このままでは、自分の友達も殺されてしまうのだから。


「つぐみ! お願い! 私の声を聞いて! 届いて! 今すぐ逃げて! 家に閉じこもって、出てこないで! このままじゃ、私のようになっちゃうよ! つぐみ!」


 麗香の悲痛な叫びは狙われている少女に届かない。

 麗香の悲痛な叫びは狙っている男にも届かない。

 麗香の悲痛な叫びは誰にも届かない。

 誰にも届かない。誰にも見えない。ただ一人、麗香に取り憑かれた木野枝始貴という少年以外――。


 麗香は叫び続ける。

 友達に自分の願いが通じることを祈って、叫び続ける。けれど、現実は無情だ。少女に麗香の声は届かない。

 あの日、自分が殺された時にどんなに叫んでも誰も助けに来なかった時のように。

 麗香は知っていた。

 現実は甘くないってことを。

 祈りなんかが通じる筈がないってことを。それでも、叫ぶのをやめられなかった。


「お願いだよ、私の声を聞いて……」


 触ることも出来ない。

 見ることも出来ない。

 声を聞くことすら出来ない。

 何も出来ない麗香は祈るような、縋るような気持ちで言葉を吐き出した。

 ――その時だ。


 ふっと頭上に影が差した。まさか、と思い、勢い良く顔を上げた麗香の前にいたのは彼女が予想していた人物とは違う。

 彼は何かに耐えるような顔で、それでも真剣な表情で、つぐみの腕を掴んでいた。

 突然、腕を掴まれたつぐみは怯えた表情を浮かべる。


「突然ごめん。意味が分からないし、信じられないと思う。けど、君の為に一生懸命叫んでる奴がいるんだ」

「え?」


 少女の表情がみるみる不審なものへと変わっていく。

 それはそうだろう。突然腕を掴まれて訳の分からないことを言われたのだ。

 それでも、始貴は少女の反応を気に留めた様子なく、複雑そうな表情を浮かべている。

 おそらく彼は悩んだのだろう。自分が関わる事で、余計に事態が悪化してしまうのではないかと恐れたのだ。けれど、必死で訴えている麗香の姿を見て、彼も覚悟を決めたのだ。


「このままだと君が危ない。早く家に帰って、決して一人で出歩かないように」

「え、えっと……」


 戸惑った様子の少女。当然の反応だ。


「鶴来さんのお願いなんだ。何も聞かずに言うとおりにしてほしい」

「え? 鶴来って……麗香、ちゃん?」


 麗香の名前に反応を示したつぐみは、真剣な始貴の表情に訳も分からず戸惑っている。何か尋ねようと口を開きかけるが、結局は何も言わずに頷いた。

 聞きたいことは沢山あるだろう。始貴の言うことなど信じられないだろう。訳が分からないだろう。それでも、彼女は何も言わなかった。小さく頷いて、走りだす。

 それは始貴の言うことを聞いてくれたのか、それとも始貴から逃げたのかは分からないが、そんなの始貴には関係なかった。いまは彼女がこの場から離れるのが目的なのだから。

 つぐみが走りだした事によって、陰から様子を窺っていた男が慌てて追いかけようとする。そんな男の進路を塞ぐように始貴が立ち塞がる。


「……あの子に何か用でも?」

「っ」


 始貴に立ち塞がれて、男は忌々しげに表情を歪めた。


「こ、木野枝君」


 心配そうに声を上げた麗香を安心させるように始貴は小さく笑う。けれど、その体は小刻みに震えている。


「……鶴来麗香、という女の子を知ってますか?」


 男は何も言わない。

 始貴の真意を探るような視線を向けるだけだ。


「十日前、殺されて亡くなった女の子の名前なんだけど」


 ぴくり、と男が反応を示す。

 男の瞳は淀んでおり、得体のしれない恐怖が全身に沸き上がってくる。

 始貴の額から、冷や汗が流れ落ちる。暫く、互いに睨み合う。

 一瞬とも一時間ともとれるような時間の感覚が分からなくなる奇妙な沈黙の後、男は笑う。ひどく歪んだ表情で、口角を上げた。


「……どうして、わかったんだ? あの死体はまだ見つかってない筈だが」

「え?」


 その言葉に驚いたのは始貴だけではない。麗香も同じだった。

(死体が見つかっていない?)

 どういうことか尋ねるより早く、男が再び口を開く。


「まあいい。お前がどうやって俺のした事を知ったのかなんて興味ない。お前は俺のした事を知っている。そして、俺の次の標的を逃した。つまり、そういう覚悟は出来てるんだろうな?」


 歪んだ笑み。人の死など何とも思っていないその暗い闇のような笑みにゾッとする。


「木野枝君! 逃げて!」


 その笑みの意味する事にいち早く気付いた麗香が声を上げる。しかし、始貴は動かない。

 恐怖で体が動かないのかと思ったが、始貴の様子を見る限り、そういうわけでもないらしい。


「大丈夫」


 それは麗香に向けられた言葉だ。怯える彼女を安心させる為に向けられた言葉。しかし、麗香の姿を見ることができない男は先程の自分の問いに関する答えを返したのかと勘違いした。


「なんだ、自殺志願者か? それなら、それでもいい。俺は誰でもいい。殺せれば誰でも……」

「木野枝君!」


 懐からサバイバルナイフを取り出す男。それは麗香が殺された時に使われたものと全く同じ凶器で、麗香はより一層顔を青ざめさせた。それでも、始貴は落ち着いた様子だ。

 長い前髪の隙間から見える黒の瞳はどこか虚ろのようにも思える。


「……俺は、不幸体質なんだ」

「は?」

「え?」


 ポツリ、と落ち着きを払った声で紡がれたのはこの場に似つかわしくない言葉。動きを止める男に始貴はゆっくりと視線を合わせる。


「俺に関わる人は例外なく不幸が降りかかる。俺が強い感情を向ければ向けるほど、その確率は高くなる。両親も、妹も、友達も、俺を虐めていた生徒達も、皆不幸が降りかかった。俺はいつもそれを見てるだけ」

「お、お前、何言って――」

「けど、不思議なことにさ。俺、自分が死ぬような怪我したことないんだ。死にそうな目には何度もあったけど、結果として俺は生きてる。俺だけが生きてるんだ」

「木野枝、君……?」

「俺が死にそうな状況に陥った時、何が起こると思う? いつも何が起こったと思う?」


 明らかに始貴の雰囲気が今までと変わっていた。

 見ているだけで、恐怖心を植え付けられるような、どうしようもなく不安な気持ちになるようなそんな不思議な感覚だった。

 始貴が纏う異様な雰囲気に呑まれたのか、男が一歩後退る。

――その瞬間、男は自らの背後に何かの気配を感じて振り返る。そして、男がそれを認識すると同時に男の体は宙へと浮かび上がった。


 激しいブレーキ音。そして、衝突音。

 きっと男には何が起こったかなんて分からなかっただろう。

 急にトラックが突っ込んできたのだ。


「ひっ!」


 麗香だけが声を上げた。始貴は何も言わない。ただ悲しげな顔で落下していく男の姿を見つめていた。

 ぐしゃり、と何かが潰れる音と共に男が地面に落ちる。腕が有り得ない方向に曲がっており、落下した場所から赤いものが広がっていく。始貴はそれを静かに見つめていた。

 激しい衝突音を聞きつけた人々が駆けつけてきて、現場を目撃して悲鳴を上げる。先程まで閑散としていた公園が途端に喧騒に包まれる。


「……こうやって、相手に不幸が降りかかるんだ」


 誰にも聞こえないほど小さな声でそれだけ呟くと、始貴は踵を返して歩き出す。このままここにいたら、面倒だと判断したのだろう。


「こ、木野枝君!」


 男を見ていた麗香は顔を青ざめさせたまま、慌てた様子で近寄ってくる。

 始貴は俯いたまま歩いている為、その表情を確認することは出来ない。

 表情は見えないが、麗香は始貴が悲しんでいるのだろうと思った。

 彼女の目の前で起こった事は確かに驚きだったのだが、相手は自分を殺した男なのだと思うと、同情することなどできなかったのだ。

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