幽霊少女と不幸少年
始貴が校門に足を踏み入れると何か周囲の雰囲気が変わった気がして、麗香は首を傾げる。周囲を見渡してみても特に変わった様子はない。
気のせいかと思い直したところで、いつの間にか始貴が随分と先に進んでしまったことに気付き、麗香も慌てて後を追う。
ようやく始貴に追いついたところで、麗香は先程感じた違和感の正体に気付く。周囲から幾つもの視線を感じるのだ。
ぐるりと見渡すと、昇降口にいた生徒達の視線が全て始貴へと向けられていた。
もしこの視線が超絶美少年に向けられた羨望の眼差しだったりしたならば、麗香も始貴を冷やかすだけで済んだ。けれど、違うのだ。始貴を見る周囲の視線は羨望なんて良いものではなく、むしろ畏怖や嫌悪の類だった。
誰もが始貴を見て、恐怖する。誰もが始貴を見て、得体のしれない何かを見るように嫌悪する。かと思えば、始貴と視線が合うなり、恐怖によって表情を引き攣らせて、そそくさと逃げ出してしまう。
始貴と一定距離以上近付かないように始貴が歩くたびに生徒達は距離を取る。
明らかに異常だった。
麗香には何故生徒達がそんな視線を向けてくるのか分からず、ただその異様な状況に不愉快な気分にさせられる。
不機嫌さをあらわすように釣り上げられた瞳を見るなり、始貴は小さく笑った。その表情は悲しげで、諦めきったものだ。
「……鶴来さんが気にする必要はない」
「気にするよ! 何なのこれ!? あいつら、すっごく嫌な態度!」
苛立った様子で地団駄を踏む麗香にやはり始貴は小さく笑うだけだった。しかし、その表情も自らの下駄箱を見るなり、消え失せる。
始貴の表情が変わった事に気付いた麗香も下駄箱の中を覗きこんで、目を見開いた。
「な、なによこれ!」
思わず叫んだ麗香だが、その声は始貴以外に聞こえる事はなく、相変わらず遠巻きに見てくる生徒達の視線が始貴に向いているだけだ。けれど、いまの彼女にとって、そんな事はどうでも良かった。彼女の視線は下駄箱の中身に釘付けだ。
始貴の下駄箱の中は、ゴミだらけだった。
本来なら、上履きが入っているそこには溢れんばかりのゴミが詰められており、その中に入っているであろう上履きを覆い隠している。
絶句する麗香をよそに始貴は小さく溜め息をつくだけで、すぐに手慣れた様子で近くにあったゴミ箱を持って来て、ゴミを捨てていく。その光景に絶句していた麗香は我に返ったように声を荒らげた。
「ちょ、ちょっと、なんで怒らないのよ!? こんなの明らかなイジメよ!? 怒りなさいよ! 我慢してたら、更に過激になるわよ!?」
怒りだす麗香とは正反対に始貴は酷く落ち着いた様子だ。彼は怒りを露わにする麗香を宥めるように小さく笑う。
「こんなのいつもの事だから」
「いつもの事って……」
「それに、こういう方がまだ安全だから」
「え? それって、どういう意味?」
始貴の言葉の意味が分からずに首を傾げた麗香に始貴はゴミが詰められている下駄箱を一瞥してから、再び麗香に視線を戻す。
「これなら、犯人が分からないから。俺が強い感情を向けないから。まだ安全なんだ」
「意味が分からないんだけど」
始貴は笑う。
ひどく悲しげに、ひどく寂しげに、ひどく自虐的に、小さく笑う。
その暗い笑みを見た瞬間、麗香は彼の抱えている闇を垣間見た気がして、言葉を失う。
「俺が強い感情を向ける人は不幸が降りかかりやすいんだよ。それが好意であろうと、敵意であろうとね」
それだけ言うと、始貴はそれ以上何も言わずに淡々とゴミを捨て続けていく。麗香もそれ以上何も言えずに黙ってその光景を見ていた。
全てのゴミを捨てた後、汚れてしまった上履きを履いて、始貴は歩き出す。その背中はどこか寂しげだ。
麗香も黙って彼の後をついていく。
「木野枝始貴っ!」
教室へ向かうための階段を上がっていく途中、突如響いた大きな怒声に始貴は足を止めた。見上げれば、階段の踊り場に一人の男子生徒が立っている。彼は興奮した様子で、階下の始貴を見下ろしていた。
その事に周囲にいた生徒達が大きくざわついたのだが、男子生徒は気にした様子なく、始貴を睨みつけていた。
「知り合い?」
「いや……」
怪訝そうな顔をした始貴に麗香は問いかけるが、彼は麗香にだけ聞こえる小さな声で、その問いを否定した。
二人は互いから視線を外し、踊り場にいる男子生徒を見上げて、彼の言葉の続きを待つ。
「お前のせいだ! お前がいるから、お前みたいのがいるから! もう来るなよ! もう学校に来ないでくれ!」
突然の言葉はあまりにも無茶苦茶なものだった。突然、見知らぬ人間にもう来るなと言われたところで、大抵の人間は気にも止めないだろう。けれど、始貴はびくりと大きく肩を揺らす。
男子生徒の顔面は蒼白だ。きっと、彼は怯えている。恐怖している。
木野枝始貴という人間に関わることによって、どんな事が起こるのか。自分がこれからどうなるのか分からずに恐怖している。
怒りによって震えているかと思われた体は迫り来る恐怖によって、もたらされているのかもしれない。
それでも……それでも、彼は言わずにはいられなかったのだろう。
「……お前が、一週間前に話した女子のことを覚えているか?」
「一週間前?」
始貴は記憶を探るように眉を寄せて俯く。
「お前が落とした鞄を拾って届けてくれた女子の事を覚えてないのか!」
その言葉に思い当たるフシがあったのか、始貴は男子生徒を見上げた。しかし、視線を上げた先に待っていたのは瞳に涙を溜めている男子生徒の姿だった。
「あいつは……渚は、お前に関わると不幸になるってことを信じてなかった。そんなのただの偶然だって笑ってた! だから、お前の鞄を見つけた時、迷わず届けに行った! その結果、渚は三日前に事故に遭った! 全部全部お前のせいだ! お前が渚に関わったから! お前がいたから、渚が事故に遭った! お前と関わったから、渚が事故に遭った! もういい加減にしてくれ! これ以上、周りを巻き込まないでくれ!」
男子生徒の言い分は普通ならば言いがかりも甚だしい。たかが、話しただけで事故に遭うなど、あり得る筈がない。そんなことを言ったところで、一笑に付されるのがオチだ。けれど、違った。
周囲の反応は男子生徒を馬鹿にするのではなく、始貴に対する恐怖が伝染していくだけだった。
「ちょ、ちょっと、待ちなさいよ! そんなの言いがかりじゃない!」
これ以上は我慢できないとばかりに声を上げた麗香を止めたのは始貴自身だ。麗香の前に出て、ゆっくりと首を振る。もっとも麗香の姿は他の誰にも見えていないので、始貴の行動を理解できない生徒達は更に恐怖するだけだ。
「なんで、止めるの!? そんなのおかしいじゃない!」
「いいんだ」
麗香にだけ聞こえるほど小さな声でそう呟いて、始貴は踵を返して廊下を歩き出す。
それはこれ以上この場に留まって、男子生徒に危険が及ばないように始貴が配慮した結果だったのだけれど、そんな事は男子生徒には通じない。
彼は始貴が逃げようとしたと思ったのだろう。階段を駆け下りてきて、始貴の肩を掴んで、振り向かせる。その事に始貴が目を見開くと同時に……ソレは起こった。
廊下にある窓ガラスに何かがぶつかり、硝子が砕ける音と共に始貴達に勢い良く硝子の破片が降り注いだ。
「うわぁああああ!」
「きゃああああああああ!」
硝子の破片が皮膚を切り裂き、周囲を赤く染めていく。周囲にいた生徒達も巻き込まれたようで、廊下のいたるところから悲鳴が上がる。
「ちょ、ちょっと、木野枝君! 大丈夫!?」
一人だけ、硝子の破片をすり抜けて無傷だった麗香は慌てて
どうやら彼もそんなに怪我はないようで、頬や腕が僅かに切れる程度の軽傷で済んだようだ。その事に麗香は安堵の息を吐き出す。
始貴は駆け寄ってきた麗香など目に入っていないのか、血の気の失せた真っ白な顔で、廊下の惨状を見つめていた。その体は小刻みに震えている。
「……ま、また、俺のせい……?」
「っ、違う! こんなのただの偶然だよ!」
麗香がそう叫んでも始貴には届かない。彼は廊下の惨状に目を奪われたままだ。
廊下には多くの生徒達がいる。しかも、窓ガラスが割れたのは一枚だけではない。長い廊下にある三分の一の窓が一斉に割れたのだ。そして、その破片は廊下にいた生徒達を誰一人として見逃さずに降り注いだ。
そのあまりにも異様な状況を改めて認識した麗香は、ゾッとしたように表情を青くさせた。
「おい、大丈夫か!?」
「なにがあった!?」
教室にいた生徒達や騒ぎを聞きつけた教師達が駆け寄ってくる。その事に始貴は大きく体を震わせて、ゆっくりと立ち上がる。駆けつけてきた生徒達は始貴を見るなり、表情を青くさせる。恐怖によって引き攣った表情は、この惨状を始貴の仕業と思っている事を如実に語っていた。
俯いてしまった始貴の表情は麗香からは見えない。けれど、見えなくても彼が泣きそうな表情をしているだろうという予想は出来た。
「……ごめん、なさい……」
周囲の喧騒の中では掻き消されてしまう程の小さな声で謝罪すると、始貴は脱兎のごとく駆け出した。
「木野枝君!?」
走りだした始貴に気付いたのは麗香だけ。他の人達は怪我人に気を取られており、誰も始貴に見向きなどしなかった。
「木野枝君! 待って! 待ってってば!」
走りだした始貴を追いかけながら、声を上げるも始貴は一向に足を止める気配がない。何かから逃げるように走り続けている始貴の背中を麗香は必死で追いかけていた。
幽霊で浮いている筈の麗香が追いつけないのはひとえに始貴が速すぎるというだけだ。
「こ、木野枝君。足速すぎ! またもや、意外すぎる事実見つけちゃったよ! と、というか、本当に待って!」
いくら麗香が声をあげようと足を止める事なく、走り続けた始貴がようやく足を止めたのは学校からかなり離れた公園だ。もっとも始貴が自分の意志で足を止めたのではなく、何故か地面に落ちていたバナナの皮を踏み、滑って転んだからなのだけれど。
「ちょ、ちょっと、大丈夫!?」
始貴が転んだ隙にようやく追いつくことが出来た麗香は慌てた様子で、声を上げた。その声は始貴に届いている筈なのだが、始貴は仰向けに倒れたまま、ぴくりとも動かない。
ひっくり返った時に後頭部を打ち付けたのか、始貴は目をつぶったままだ。
その事に麗香は驚きながら、とりあえず始貴を起こそうと手を伸ばすが、その手は始貴に触ることなくすり抜ける。
「あ……」
咄嗟に伸ばしていた手を引っ込めた。
その顔はどこか悲しげで傷付いたようにも見える。
「……こ、木野枝君?」
もう一度、名前を呼ぶが、やはり始貴は反応しない。
声を掛ける以外何も出来ることがない麗香は助けを求めるように周囲を見渡す。けれど、麗香の姿を見える人も麗香の声を聞くことをできる人も、いま目の前で倒れている始貴以外いないのだ。
何も出来ずに麗香はオロオロと始貴の周囲を漂う事しか出来ない。
そんな時だ――。
「……あ、あの、大丈夫ですか?」
小さな声。けれど、はっきりと告げられた言葉。それは転んだまま動かない始貴に対して掛けられたものだ。
麗香はその声に聞き覚えがある気がして、勢い良く顔を上げた。
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