第3話 逃亡

(医者)

 医者は白衣のポケットから、入れっぱなしのハンカチを取り出して、タキの汚れた顔をぐいぐいと拭ってやる。途中でタキが自分の手で拭きはじめたので、まぁいけるか、と思った。

 アメリカで汚染地域に現地入りするたびに、こういう反応は見てきた。チームにはゾンビショック・ケアの専門家もいて、危ないかどうかの判断は彼女に任せれば良かった。

 今はその安心感がない。

 日本はまだ、圧倒的に専門家が少ない。今まで汚染が起こらなかった幸運に、あぐらをかいていたとも言える。これだけ大規模な汚染が起きてしまったら、今後の対応にも、調査にもケアにも再発防止にも、あらゆる面で深刻な人材不足が予想された。生きて帰んねぇとなぁ、と医者は思う。右足は、まだ体重をかけるとしくしくと痛む。

 自販機から暖かいお茶を買って飲ませたら、タキは口を漱いで一度吐き出し、それからひとくち飲んだ。はーっ、と息を吐いて、腫れた目で、ようやく医者を見る。医者の右足を見て、ちらっと眉をひそめた顔は、もう完全に理性が戻っていた。

「お茶、買いに行かせて、ごめんなさい」

「謝るな、礼を言え」

「ありがとうございました」

「おう。 ……サワってのはなんだ。あの中にいたのか、家族か」

「……ともだち」

「そうか。追ってきたのか」

 問うと、タキは視線を外して、頷く。なんかやっぱやばいのかなぁと思った。こういう、自分がやってることを分かってるタイプは、静かに危ないことがある。

 多分まだ、関わっておいたほうがいい。

「タキ、お前、オレ送ってけ」

「へ?」

「自転車。漕げんだろ? オレは足がこの通りだ、長くは歩けねぇし、自転車漕ぐのも長くはできそうにない。包囲網のとこまで荷台に乗っけてってくれよ」

 な?と頼み込めば、タキは考えてるような考えてないような様子で、しばらく医者の顔を見ていた。

「二人乗りとか ……けっこう、遅くなるけど」

「あいつら足はそれより遅い。力は強いが動きは鈍い。頭も鈍い。囲まれなけりゃ余裕だよ」

 あと足を痛めなけりゃ、と言えば、やっぱりしばらく考え込んでから、タキは頷いた。


(タキ)

 医者の鞄を前カゴにつっこみ、サドルに跨がって待っていると、荷台の方に重みがきてタイヤがたわんだ。がしっと腕を回される。後ろで、ヒヒヒ、とよく分からない笑い声を医者は立てた。

「悪いなァせっかくの二ケツがこんなおっさんで」

「ほんとだっつの」

 ぐぃ、とペダルを踏み込む。やはり重かったが、車輪が回りだしてしまえば大したことはなかった。寒風が顔を叩いて、息が少し痛い。ハンドルを握る指もじんじんと冷えて、手袋をしてないことを後悔する。

 耳に入るのは、自分の自転車の軋みと、自分の呼吸の音だけ。早朝の街は静かだ、と思ってから、ここが汚染区域で、住民がこぞって逃げ出したから静かなんだ、と気づき直す。

 線路沿いの通りを走る。 S区の周囲十キロが封鎖地域、ということは、どんなに長くても十五キロ走れば端に着くはずだった。それぐらいなら、朝ランで走ってしまうこともある距離だ。

 来るときは必死で周りが見えていなかったけれど、いつもの早朝とは、やはり違っていた。色んな店のシャッターは上げられたまま、店内照明がつけられたままで、朝の明るい路上に無駄に明かりが投げられている。そして、路地ではときおり生肉と骨を咀嚼する音が聞こえ、ゾンビが目的もなく歩いていた。真っ青な肌で、光のない目で、すぐに生きていないと分かる。人間の、『生きてる/死んでる』センサーは結構優秀だ。初めて知った。

 医者の言った通り、自転車に乗ったタキと医者が、ゾンビに追いつかれることはなかった。興味を惹かれたように数歩追いかけてきても、少しして振り返れば、もうこちらに背中を向けている。追いつくのを諦めた、というより、興味の範囲からすぐに外れてしまうようだった。

「ゾンビってさー」

 タキは背後の、『ゾンビ専門家』に聞いてみる。

「何考えてんの?」

「何も」

 素っ気なく、迷いのない答えが返ってきた。

「人間死んだら脳も基本的には死ぬからな。考える能力なんて一番先に死ぬ。あいつらに残ってんのは、食欲と攻撃欲と、ちょっとばかしの生前の習慣と ……あぁ、死ぬ直前に、強く思った衝動が残ることはある」

 そう言って、医者は、トイレのドアを開けては入り、開けては入りするゾンビの話をした。その、ツボと間を心得た喋りに、タキは声を上げて笑う。

「それアメリカの話?」

「おぅアメリカでは鉄板のネタよぅ」

 自慢げな医者の声。その後に、かすかだけれど、ふぅ、と安堵の吐息が続いた。心配されていた。気づかないふりをした。

「ゾンビってさ」

 自転車は漕ぎ続けると体が温まる。後ろに乗ってるだけの医者の方が寒いだろう。

「どーなんの?これから、ここにいる人たち」

「ゾンビは人じゃねぇよ。 ……あー、まず、感染毒が胞子性か粘液性を鑑定してだな」

「なにそれ」

「粘液性はアレだ、噛まれると感染するやつ。アメリカのゾンビ映画なんかで見るだろ」

「ゾンビ映画なんてフキンシンなもの、日本で上映してくれるわけないじゃん」

「マジか。オレあんまり日本にいねぇからな……。粘液性は簡単だ。高温で毒性をなくすから、焼き払えばいい」

「胞子性は?」

「胞子性は、粘液性の変異型だな。胞子性に変異するのは千体に一体くらいの割合だ。もちろん噛まれても体内に入るから感染するけど、それ以上にやっかいな性質がある。毒性の高いやつが高温で焼かれると、胞子が舞い上がって、広範囲に拡散する。これは最近出てきたタイプで、胞子性って気づかずに焼却作戦を行って、百キロ四方の住民に被害が出たこともある。ええと……、半年前か」

「百キロ」

「まぁアメリカの砂漠の方だから、人口密度はうっすいんだけどな」

 しばらく、そこで会話が途切れる。ペダルを踏みながら、タキは医者の言葉について考える。

「つまり、サワたちは、粘液性なら焼き払われる」

「おう」

「胞子性なら」

「中和剤投与で胞子の飛散性をなくす」

「薬があるんだ」

「その後、コンクリートに詰められて、経年で毒性が完全に消えるのを待つ」

「..っ」

 あやうくハンドルを切るところだった。自転車を真っ直ぐに戻す。ペダルを一心に踏む。

 荷台から、ぐっと背中に拳を押し付けられて、強い声を渡される。

「もう、諦めろ。な?」

 タキは、唇を噛み締める。なんでか奇妙に、世界がはっきり目に映った。高架沿いの、きれいでもなんでもない日陰の道。長くどこまでも続く高架線と、高架を支える灰色のコンクリートのアーチの繰り返しと、落書き。コンクリートに這う蔦。……冬の青空。

 後ろに乗ってるのが、サワだったらいいのに。

「意味分かるよな?」

 続ける医者の声は、時折り現われるアーチに響く。

「オレを送ったら、お前さんは汚染区域には戻らず、オレと一緒に外に出る。お前は、生きてる時のサワの記憶を大切にして、他の、サワのことをよく知ってる友達とサワのことを一晩掛けて話し合う。ちゃんと、サワが笑ってるところを思い出してやる。ゾンビじゃなくて」

 医者の言葉は正しい。これ以上、サワのゾンビに執着するなんて無意味だ。タキだけの自己満足で、自己愛の裏返しで、無意味で、みっともない。だって、サワは。

「お前のサワはもう、死んだんだ」

 そうだ。このまま走ったら転ぶ、と、タキは自転車のブレーキをかける。高架下のアーチに、きぃぃっと甲高く響いた。

 そのまま、ハンドルに腕を置いて顔を伏せ、タキはそれしか出来ずに自転車を支える。こみあげるものを何度も押し殺している間、荷台の医者はずっと黙ったままだった。

 そうだ。生きてるサワがいい。ゾンビのサワなんかいらない。それはほんとうだ、でも。

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