第2話 荒廃の街で
(医者の話)
医者は、気絶から醒めて、自分が最悪に近い状況にいることを知った。目が醒めたらゾンビだった、よりはいくらかマシだから、最悪とは言えない。気づいたらゾンビに囲まれてエンド一歩手前、よりもまだマシだろう。
ゴミ投棄コンテナの中に押し込められて、蓋を押しても外側からがっちり閉じられて全く開きそうない、という状況は、最悪から数えて何番目かを考える。
もちろん現実逃避だ。
耳を澄まして、外に人の気配も、車が動く気配も全くしないことを確かめる。医者が政府に進言した通りに、汚染地域の封鎖と住民の完全避難は行われたらしかった。
アメリカのゾンビ汚染事例の現場を踏んだ、数少ない国内研究者として、政府から協力要請を受けたのが昨日。汚染発生の疑いがある時点で封鎖すべき、とその場で返答して、現地入りして、動きの遅い政府を画像付きの報告資料で説得し続けたのが昨夜。
(……さみぃ )
コンテナの中で、医者はどうにか姿勢を変えようとする。捻った右足がずきんと痛んで三秒で諦めた。
何故自分がいる場所がゴミコンテナだと分かるかというと、ここに押し込められる直前の状況をうっすらと覚えているからだ。
(あー ……じえーたいのにーちゃん ……)
『自分ではこの状況を突破できませんが、必ず救助要請は本部に伝達しますので』
こわばった顔で人をコンテナに押し込んで、問答無用で蓋をした彼はまだ生きているだろうか。感染予防を断ったのは、覚悟していたからだろう。あの時点でかなりの数のゾンビに囲まれていた。医者の安全を(こんな方法でも)確保し終えて、その後で逃げ切った可能性は、まぁ、少ない。
『先生はこの国難に必要な方ですから』
(そりゃそうだけどよ)
地味にいま凍死しそうだぜ、と医者は震える。さらに迫り来るピンチがあった。さっきから下半身が間欠的に危急を告げている。なんというかつまり。
(ここで漏らしたらアレだ、泣いちゃうかもしれんねオレは ……)
でもまあ受け入れなければならない現実というのはあるのだ。それを粛々と受け止め、時に耐えて、次へ進むのが人生だ。
と、医者がある種の覚悟を決めた瞬間、その耳に信じられない音が届いた。
油のさしてない古い自転車を、必死に漕ぐ、きぃきぃと甲高い音。
「……う、」
迷っている暇はなかった。ゾンビは自転車を漕がない。何故だか絶対に漕がないから、あれは、人間だ。
「ぉおおーい!ここ、ここ開けて!誰かしらんが開けてくれーっ」
キッ、とブレーキの音が響く。
そうやって医者とタキは、ゾンビ汚染地域の真ん中で、知り合った。
(タキ)
「うぅー ……おふぅ ……」
夜明けすぐの街は気温がぐっと下がって、立ち上がる湯気が白く目で見える。路地で小用を足す、白衣の上にダウンジャケットを羽織った男の背中を、タキはそっと窺った。変な男だ、と思う。まずなんでゴミ箱に捨てられていたのか分からない。理由を聞く暇もなく、ゴミ箱から這い出した男は、体が固まっている変な動きで路地に駆け込んで、今に至る。まぁ、その切羽詰まった状況は理解できたけれども。
「おぅ、助かったたすかった。ありがとな。少年は、逃げ遅れたクチかー?」
路地から戻って来ながら、男がのんびりとした声をかける。ひょこひょこと右足を庇う歩き方にいまさら気づく。
タキが答えに困って口ごもると、男はちょっと変な顔をした。タキはとりあえず、言えることだけを口にする。
「俺、タキ。名前」
「そーかオレは医者だ。ゾンビ専門の偉い医者」
「専門家?」
「そーそ」
せんせーと呼びなさい、と適当そうに言って、ふと医者は口をつぐんだ。自分が閉じ込められていたコンテナの蓋の殴り書きを見つめている。医者のその横顔に、表情はない。
” Open it, Help him, very important person!!”
タキは、これを書いた人はどこにいったんだろう、とぼんやり考える。
逃げ惑う人々の流れの逆へ逆へと進んで、人影が途絶えてからは鍵のかかってない自転車を見つけて足にして、ここまで来た。途中で、何度も「アレ」の群れに行きあった。アレらが、人を襲い、やがて襲われた被害者が軋みながら立ち上がって群れに加わるさまも、何回か見た。
どういうことかは、理解した、つもりだ。
医者が、ゴミコンテナの蓋を改めて開けて、中を覗き込んで鞄を引っ張りだした。黒皮張りで角張った、いわゆる医療鞄というやつだ。
中から、携帯電話を取り出して、哀しげに首を振る。どうやら不通らしかった。タキの携帯もそうだ。回線がパンクしているのかもしれない。
しばらく思案顔をしてから、医者が覚悟を決めたように膝を伸ばす。
「よし、タキ、オレはどーにかして封鎖の外側を目指すけど、一緒に来るか?」
「え」
「えってお前さん、 ..っ、おい、こっち!」
医者がぐいとタキの腕を掴み、路地までひっぱり込む。コンテナの影に隠れるよう、一緒にしゃがませられた。
理由はすぐに分かった。タキたちがいた通りと交差する道を、靴音が渡る。複数。ものを一定に落下させる、一足ごとに、どさり、どさり、と靴底がアスファルトにぶつかる音。生きている人間には出せない足音だ。
「くそ、死にたてばっかりだと匂いが分からんな ……」
夏だと早く腐るんだけどな、と医者が一人ごちる。そうして、コンテナからそっと首を出して、ゾンビの群れの方を窺った。その顔が一瞬こわばる。にーちゃん、と呟くので、呼ばれたのかと思って振り仰ぐ。
「何?」
「……何でもねぇ。頭ひっこめて静かに」
「しない」
医者の腕をかいくぐって、タキは四つん這いの姿勢でコンテナの影から首を出す。反発や好奇心ではない。目をこらして、歩く死人の群れから、ひとつの姿を探し求める。
紺のダッフルコートに赤いマフラーの学生服を、探す。昨晩、家のある地域も危ないと、押し込められた避難所で見た報道映像。その暗い粗い画像の一点に、まぎれていたように、いないか。
サワが。
いた。
タキは馬鹿ではないから、今この街に何が起きているのか、大体理解している。サワに何が起きたのかも。
朝方の道路を、サワは歩いてた。青白い、少し緑がかった頬をして、文字通り死んだ目で、他のアレと完全に同じ歩き方をしている。あの笑い方も、甘い光の黒い目も、並んだ人間を全部捨てて行くようなあの早足ももうどこにもなくて、それでも。
「サワだ ……」
それでも、十何人かのアレ、ゾンビのなかで、タキの目にサワは一人だけはっきりと見えた。夕焼けの日の通学路で、同じ学生服を着た集団の中でも、サワだけがくっきりと目に映ったのと同じだった。
特別だから、すぐに分かる。
サワが、左腕を途中まで上げて、手の置き場がないように、また戻す。それを機械的に繰り返しながら、遠ざかってゆく。見ているうちに、ゆっくりと体の芯から震えが上がってきた。
いつの間にか、慎重に、医者に首根っこを掴まれていた。多分飛び出して行くとでも思われたのだろう。
それどころではなかった。タキは、体を折り曲げて、胃からこみ上げてくる酸っぱいもので、アスファルトを汚した。涙と鼻水と胃液が、目と鼻と口から漏れ出る。ごっそり背骨が抜け落ちるような喪失感と、ものすごい拒否感と、汚い液に塗れた多幸感があって頭ががんがんした。口が苦い。胸が焼けて気持ち悪い。
サワ。
どうしよう。
ゾンビでも、サワが好きだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます