承
2――未解決の巣窟(前)
2.
未解決事件を専門に捜査する特命捜査対策室は、二〇〇九年十一月に設立された警視庁の附置組織である。
ここが現在どんな捜索を手掛けているのかは、警視庁のホームページにも記載されており、
凶悪犯罪の未解決のみならず、各警察署が独自に任意捜査しているものも特命捜査対策室が管理しているため、隠れて調べるのは実質的に不可能に近い。
「おお、あなた方が総合庁舎からお越しの! お待ちしていましたわい。未解決事件を掘り起こすにしても、何かしらのとっかかりが必要ですから、むしろ愉本さんの研究は結果的に大助かりですわな」
江東区白河、警視庁深川分庁舎を訪ねた徳憲と愉本――本庁舎から地下鉄で一本だ――は、手厚い歓迎を受けた。
前述の挨拶は、特命捜査対策室で対応した捜査官の声である。背は低めだが筋骨は太ましく、耳がぺちゃんこに潰れている。恐らく柔道をやっているのだろう。四角い顔立ちはいかにも体育会系で、なぜか右目に眼帯を付けていた。
「過去の勲章ですわな」
彼は自分の右目を指差し、快活に笑い飛ばした。
捕り物劇で自らも重傷を負ったらしい。片眼を失うような激しい交戦があったということだ。徳憲も愉本も、この眼帯刑事の只者ではない
徳憲も検挙率の高い百戦錬磨として知られているが、この御仁はさらに上だ。いくつもの修羅場を乗り越え、数々の事件をねじ伏せて来た剛腕捜査官。だからこそ特命捜査対策室に配属されたのだろうと推察できた。
「ここに資料もありま~す」
書類やUSBメモリーを差し出した愉本は、上半身をくねらせた。
庁舎内の来客用応接室は、ソファとテーブルが置かれただけの簡素な内装だ。そんな場所でも異性を悩殺ポーズでかどわかそうとする愉本の性癖に、徳憲は頭を抱えた。
あいにく眼帯刑事は彼女には目もくれず、テーブルの書類を引き寄せて通読することに専念した。
無視である。
サキュバスの誘惑が効かない。
彼ほどの傑物ともなれば、いわゆるハニートラップへの耐性も高いのだろう。女性のセクシーショット程度では心が乱れない。動じない。見向きもしない。
へぇ、と徳憲は息を漏らした。やはりこの部署は一味違う精鋭ぞろいだ。
「ふむふむ、この事件は覚えていますわい」
眼帯刑事は初めて愉本を見据えた。
左目で眺めた彼女の姿がどう映ったのかは定かではないが、一見すると軽薄な女医の、内面に燃え盛る熱意を汲み取るような視線は、とても頼もしい。
愉本はと言えば、ソファの上で両足を組み直すなどして美脚のアピールに余念がない。それでも一応、眼帯刑事の全てを見通すような慧眼には勘付いているようだ。
「あら~、この事件をご存じなんですか~?」
「実ヶ丘市でちょっとした話題になりましたからな。実は自分も実ヶ丘署出身なんですわい」
「そうなんですか?」
徳憲がたまげる番だった。
彼は巡査官時代から実ヶ丘署に勤めているが、眼帯刑事など見たことがない。片眼を失うような武勇伝を持つ人物が耳に入らないわけはないのだが――。
「ああ、すぐ本庁に戻りましたからな。右目を怪我したのも、転属してからですわい」
「なるほど……」
「これも何かの縁、優先的に再捜査・深堀りするよう、案件にねじ込んでおきますわい」
「ありがとうございます!」
徳憲は深くお辞儀した。
隣の愉本はさらに深々とお辞儀した。長髪が揺れ、たわわな胸も揺れる。
眼帯刑事はそんな二人の挙措に大笑いした。
「わははは。事件の概要は、もともと隣人と騒音トラブルで揉めてたそうですわな」
「そ~なんです~。事件の前日も憶寺はカレシん家に押しかけたらしくて~、難癖を付けて帰ったらし~んですのよ~」
「カレシ……ふむ」左目を細める眼帯刑事。「確か、ホトケさんには兄弟がおりましたわな。事件前日も当日も、自宅に居たはず」
「あ~はい。兄の
――おい、話が脱線しているぞ。
徳憲は眉をひそめたが、愉本には届かない。
仕方がないので徳憲自らが口を開き、割り込むように話題を作った。
「前日の口論は、そのお兄さんが止めに入ったおかげで収まったそうです。何せ惧志堅態平さんが逆切れして、憶寺さんに殴りかかったらしいんで……」
「む~。それは言いっこなしよ~」膨れっ面になる愉本。「態平クンも我慢の限界だったのよ~。連日ひっきりなしに老人が文句言って来るのよ? 手が出るも無理ないわ~」
しつこすぎる憶寺の苦情に逆上した態平は、憶寺の顔面を殴ったらしい。
これは当時の調書にも残っている。
そのせいで憶寺は口の中を切り、軽く出血している。
そこへ態平の兄・恊平が仲裁に来て、さすがに暴力を振るった弟が悪いと断じた。彼自身もギターの騒音には思う所があったようで、弟をいさめる格好だったという。
「恊平さんはお仕事の関係で資格試験、技能検定の勉強中だったそうです。だから彼も、弟の出す騒音には辟易していて、憶寺さんに同調しつつあったようですね」
「態平クンは集中力が凄いのよ~。だからつい夢中になって練習してしまうんです~」
「そんな兄弟を見て、憶寺さんもいったんは矛を収めたようです。殴られた傷も痛みますし、逃げるようにガレージを出て行ったとのことです……が」
が。
翌日、ついに事件が勃発する。
やはりギターの練習をしていた態平へ、再び憶寺が訪問したのだ。
玄関先のガレージで相まみえ、昨日と同じ悶着を繰り返す――と思いきや。
「憶寺さんは覚悟を決めて来たんでしょうね。前日殴られた恨みも込めて、ガレージに置いてあった車いじり用の工具を手に取り、態平さんを襲ったそうです」
人の恨みは恐ろしい。
ましてや憶寺には、ギターの騒音に苦しんでいるという大義名分がある。態平への憎悪が爆発し、頭をバールで叩き割ったらしい。
もちろん、態平も黙って殺されたわけではない。
必死に抵抗した。素手で殴り返した。
けれども初撃のダメージが強かったのだろう、頭部の激痛でまともに反撃できなかった態平は、ほどなく絶命したのだった。
「兄の恊平さんが騒ぎを聞いてガレージに駆け付けると、すでに態平さんは足下のマットに血を流して倒れていたそうです。そして、ガレージから逃げる憶寺さんの後ろ姿も目撃したんだとか」
「これだけで決定的なのよね~。証言もある、動機もある、凶器もある~……」
「しかし、バールには指紋がなかったと聞きましたわい」
眼帯刑事は冷静に異議を述べた。
指紋が、ない。
憶寺は手袋でもしていたのか――いや、違う。
正確には、バールの取っ手部分は綺麗に拭き取られていたのだ。
「ガレージに常備された工具の中には、汚れを拭く
「小癪な細工よね~。そんなことしても、逃げる姿を目撃されたんだから無意味だわ~」
「……逆に言うと、目撃証言しか手がかりがないんですわい」
眼帯刑事の落ち着き払った重低音な発言が、むしろ物々しい。
愉本の先入観を淡々と払拭させて行く。
「本件がお蔵入りしたのも、それが原因ですわな。目撃証言だけでは弱いんですわ。物的証拠が何もない。凶器には指紋がなく、唯一の手掛かりと言えば、マットに染み付いた血痕……反撃を受けた憶寺さんも軽傷を負って、わずかに血を流したそうですが、当時の科学技術では単一の血液を抽出できなかったんですわい」
「でも~、憶寺にだって怪我の跡があったでしょ~? 明らかに態平クンと取っ組み合いになって付いた傷が~」
「それは『前日の口論で殴られた傷だ』と憶寺さんは話したんですわ。前日も態平さんに殴られて怪我したそうですからな」
「ええ、まぁ……」
「つまり憶寺さんは、事件の日には惧志堅宅のガレージになど行っていない、の一点張りでも筋が通るんですわい」
重要参考人は、こうして言い逃れした。逃げおおせた。
任意同行で自供を狙っても、ついぞ口を割らなかったのだ。
「加えて憶寺さんはミオパチーを患っていますからね……」徳憲の補足。「特に撲殺は、腕力が欠かせません。ミオパチーで痩せ衰えた筋力で、成人男性を殴り殺せるでしょうか……犯罪の実行性に疑問符が付きましたね」
こうして、事件は証拠不十分でお開きとなった。
おさらいすればするほど、愉本の血痕分析が鍵を握っていることが判る。
血痕からDNAを鑑定し、憶寺の出血だと証明できれば、彼が現場に居た証拠となり得たのに。前日流した血なのか否かも、鮮度が高ければ識別できたかも知れない。
「兄の恊平クンとの付き合いも~、それっきり疎遠になっちゃったのよね~……さすがに本命のカレシが死んだあとじゃ~、浮気なんてしていられないものね~」
「あなたの頭にはソレしかないんですか」
「だって~せっかくの若い男が……それはともかく、恊平クン自身も態平クンをいさめよ~としたり、喧嘩を止めに入ったりして~、憶寺に同情的ではあったのよね~」
「まぁそれは、ギターの音が実際に近所迷惑だったからじゃないですか? それにお兄さんの目撃証言があればこそ、憶寺さんの容疑が浮上したわけですし。一概にどっちの味方とかは断言できませんよ」
「はぁ~……ほんと最悪~。アタシはそれからず~っとカラダを持て余しているのよ~。最愛の人を喪って、夜泣きするカラダを鎮めよ~と男漁りに精を出すよ~になったの」
「いや、あなた態平さんと交際中に、お兄さんにも手を出していたんでしょう? 男癖の悪さは昔からじゃないですか」
「何よ~文句あるの? も~二度と徳憲クンを誘惑してあげないわよ?」
「その方が助かります」
「き~っ!」
愉本が頭髪を振り乱して徳憲へ掴みかかったが、さすがにそれは眼帯刑事が一喝した。
「落ち着きなさいな、と!」
テーブルを拳で叩いた。凄まじい振動と轟音が室内を穿った。
徳憲も愉本も凍り付く。眼帯刑事は席を立ち、二人を外へ手招きした。
「憶寺さんに思い当たる節がありますんで、別室へ調べてみますわい。お二人もどうぞ」
「あ、はい……」
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