1――セフレの矜持(後)
「愉本さん、困りますよ! まだやっていたんですか、その分析」
――が。
一人で出勤した愉本を待ち受けていたのは、他でもない捜査官だった。
名は
弱冠三〇歳にして警部補の階級まで上り詰めた若きエースである(現在は巡査部長に降格したが)。東京郊外にある
「あ~ら徳憲クン、おはよ~。ど~したの、アタシのカラダが欲しくなった? いよいよ欲望が爆発しそ~なのね! 本能が肉欲を求めているのね~?」
「違います、って抱き着かないで下さい!」
息をするようにスキンシップを図る愉本は、男と見れば誰彼構わず食指を伸ばす。
絡み付くように手足で徳憲をがんじがらめに密着しては、顔を寄せて耳元に息を吹きかける。サキュバスの異名は伊達ではない。もはや痴女だ。
徳憲は強引に振りほどいてから、赤面もごまかすように咳払いした。三十路のくせにウブだ。仕事一筋でろくな女性経験がない。愉本は楽しいオモチャを見付けた感覚で、ことあるごとに逆セクハラを実行する。
「じゃ~何しに来たの~?」
「だから、その自由研究をやめさせるためです。任意捜査は認められません。実ヶ丘署で過去の事件を整理していたら、依頼を出しっ放しのものがあったと知って――」
「ちぇ~、残念。こ~なったら色仕掛けで黙殺してもらお~かしら?」
「壁際へにじり寄らないで下さい、追い詰めないで下さい、俺に壁ドンしないで下さいってば」女体を押し付けられる徳憲。「未解決事件の鑑定には手続きが必要なんですよ」
「手続き~?」
「はい。これはもうコールドケース対策室に持ち込まれている案件ですから、正式に調べたいならそっちを通してもらわないといけません」
コールドケース対策室。
正式名称を『特命捜査対策室』と言う。
警視庁捜査一課の附置組織として発足した部署で、
「お蔵入りした未解決事件の再捜査を管理統括する部署なのよね~?」
愉本はずばり言い当てた。
「そうです」知ってるじゃん、とこめかみに手を当てる徳憲。「今の日本は、時効による無罪放免が軒並み延長しています……つまり、未解決事件を放置しても時効では終焉しない! いつまで経っても未解決のまま残り続けるんです」
「それを少しでも潰すために設けられたのが~、特命捜査対策室よね~?」
犯人逮捕に至らなかった無念の数々を、野放しになど出来ない。
警視庁がそう大義名分を掲げて創設したのが、この対策室なのだった。
現在、お蔵入りした事件を調べるには、全てそこを通さなければならない。愉本が勝手に鑑定を進めていたのも、遅かれ早かれ問題視されただろう。
「でもね~徳憲クン、これはアタシにとって、法医科人生を賭けた一大決心なのよ~?」
「元恋人が殺されたんでしたっけ?」事情を知っている徳憲。「その当時、俺はまだ巡査官でした。しかも捜査に動員されていた記憶があります」
「え、そ~なの? そっか~、実ヶ丘市の事件だったものね~。懐かし~い」
愉本も徳憲も、しばし感慨にふけった。昔語りをするつもりはないが、往年の出来事を回想するためには、思い出に浸る時間も必要だ。
「あれは確か、実ヶ丘市の一軒家でしたね。一家四人で暮らす
「騒音トラブルよ~。元カレ……態平クンは昼も夜もギターの練習をしていたから、隣家に住む老人から毎日のよ~に苦情を受けていたのよ~」
音楽による騒音トラブルは、全国でも多発している。
老体には耳障りらしく、しょっちゅう惧志堅宅へ押しかけては口論になっていた。
「老人の名は
「憎たらし~ことにね」派手に舌打ちする愉本。「老人には身体障害があったのよ~。そんな体で殺人なんか出来るわけがない~って言われたっけな~……」
「手足の筋肉が麻痺して動かなくなる神経筋疾患ですね。病名はミオパチーだったかな」
ミオパチー。
筋力低下で四肢が動かせなくなる症状だ。力が入らず、だらけてしまう弛緩性麻痺を引き起こす。また、筋肉そのものも衰えるので、猛烈に痩せ衰える。
さらには合併症として呼吸不全も引き起こすことが知られており、そんな老体で殺人を犯すのは不可能だと結論付けられた。
「アタシは詭弁だと思っているわ~。症状が現れない元気な時間帯だってあったはずだもの。そのとき犯行できるはずよ~」
「ですね。最初は捜査本部もそう睨んで、科捜研に憶寺の証拠品を鑑定してもらおうとしたんですよ」
「う~……」
そこを突かれると、愉本は申し訳なくて何も答えられなくなる。
当時の技術では鑑定できなかった物件。
これさえ分析できれば、犯人を特定できたかも知れない、重要参考物。
それは――。
「当時の科捜研では~、現場に残っていた複数の血痕から単一のDNAを抽出するのは難しかったのよ~……」
DNA鑑定は、法医科の花形業務だ。
当時、入所したての愉本が携わった最初の鑑定が、これだった。
のっけから恋人の殺人事件だなんて悲壮すぎる。愉本の受けた衝撃は想像を絶する。
「事件現場は、惧志堅宅のガレージでしたね。玄関先にある車庫です。足場のマットに、男性二人の血痕が染み付いていました。
「も~一人の方は血痕が混濁して、DNAを鑑定できなかったのよね~」セクシーに指を噛みしめる愉本。「犯人は被害者の反撃を受けたけど~、微々たる出血に過ぎなかったそ~よ。態平クンが出血多量だったせいもあって、余計に薄まっちゃったのよ~」
ゆえに、分析できずに居た。
DNA識別技術は日進月歩しているが、そのときはまだ、単一人物の血液を抽出しきれなかった。これではDNAを検査できない。
でも。
それでも。
愉本の手許には、当時のサンプルが残されている。
「も~少し……も~少しで犯人だけの血液を検出できそ~なの。何年も地道に続けて来た研究が、よ~やく結実するかも知れないのよ~!」
愉本は徳憲の手を引いて、研究室の奥へ進んだ。
彼女の研究スペースには分析機材が所せましと詰め込まれ、一枚のマットの欠片がビニール袋に密閉されて保管してあった。
マットには二種類の血痕が付着している。大半は被害者である惧志堅態平の血液だったが、ほんの一部だけ、テープを貼って区分けされた領域がある。
その血液こそが、犯人の血だ。被害者の流血と混じり合っている。別人の血ということは識別できたが、それが誰なのかまでは鑑定しきれない、歯がゆい証拠品。
「凶器は、ガレージに置いてあった車いじり用の工具、バールです。憶寺はそれを掴んで殴りかかるも、ガイシャの抵抗に遭って自身も軽傷を負ったと思われます……事実、犯行後の聞き込みで憶寺を訪ねると、彼は口許に怪我をしていました」
「あ~それね。本人は『事件とは無関係だ』と言い張っていたっけ~? 白々しい嘘よね~……あ~腹が立つ」
「愉本さん、本当にもうじき鑑定できそうなんですか?」
「もちろんよ――」
すると、徳憲が初めて、彼の意志で愉本に顔を寄せた。
何か思う所があったのだろう。愉本はまさか彼の方から間合いを詰めるとは予期しなかったのか、珍しく目を丸くした。
「俺は実ヶ丘署強行犯係の刑事です。特命捜査対策室にかけ合って、この未解決事件を再捜査するよう提案してみましょうか?」
「え! い~のっ?」
「はい。そうすれば愉本さんも任意捜査の鑑定依頼として成立しますし、今度こそ元カレの仇を討てますよね? 俺も数年前に捜査した身ですから、雪辱を果たせます」
「わ~本当っ? 徳憲クン素敵~! 愛しているわ~お股が濡れちゃう~抱いて~!」
「それは遠慮します」
飛び付いて来た愉本を、徳憲は軽く回避した。
さすが第一線で働く刑事、体捌きや護身術がしっかり身に付いている。その気になれば愉本の逆セクハラなど簡単にいなせるのだ。
「一丁、やってやろうじゃないですか。お蔵入りは俺も寝覚めが悪いですし。今度こそ愉本さんの得意なDNA鑑定で、事件解決に花を添えてやりましょう!」
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