第三幕 扉は開かれたまま
起
1――セフレの矜持(前)
1.
窓の外で、スズメが鳴いている。
もう朝か……
3LDKのマンションである。ここはその寝室。
彼の住む家であり、勤務地である警察総合庁舎まで地下鉄で一本という好立地だ。
一人で寝るには広すぎるダブルベッドには、言うまでもなく彼以外のぬくもりがまだ残っていた。
セックス・フレンド。
同じ職場に勤める同僚の女性――
同年代かつ同門出身という境遇と、ともに盛りの付いた
恋愛感情は曖昧だ。嫌いではないが、明確に意識はしていない。性行為するくらいだから一定の好意は抱いているものの、所詮は性の捌け口でしかないとも思う。
割り切った仲であり、友人であり、同胞。
それは愉本の方も承知した上で付き合っているはずだ。
今、その彼女が見当たらない。
寝室の扉は、開かれたままだ。外はダイニングへ繋がっており、ふわりとコーヒーの香りが漂って来た。
誘われるように悦地はフローリングの床へ足を下ろし、そちらへ歩く。
案の定、そこに愉本は居た。
ダイニングの中央、テーブルの上に行儀悪く尻を乗せた愉本が、コーヒーカップを口に付けている。すでに服を着ており、艶めかしい肢体は拝めなかった。化粧はまだしていないが、それでも彼女の横顔は女優顔負けの美貌を見せ付ける。
背中まで届く茶色い長髪には寝癖も見られたが、それもまたアクセントになっていて美しい。髪が窓から射し込む光を浴びて煌めくたび、幻想的な女神像に感嘆した。
(女神……いやァ、とんでもない。彼女は小悪魔、サキュバスなんだよねェ)
悦地はかぶりを振って、誘惑を払いのけた。
すっかり魅了される所だった。彼女はサキュバスだ。男を虜にする魔性の淫魔。欠伸を噛み殺す仕草すら愛くるしい。
などと見とれていると、愉本もこちらに気付いたのか、ゆっくりと首を巡らせた。
「おはよ~、エッチ休憩クン?」
「おはよォ……って、その呼び名はやめてくれないかィ? 確かにボクは悦地憩……字間に『休』を入れれば『エッチ休憩』に聞こえるけどさァ」
「きゃはは~、そこは認めちゃうんだ~、語呂が似ているのよね~」
けらけらと笑い飛ばす愉本に、悪気は感じられない。
コーヒーカップをテーブルに置いて腹を抱える仕草も艶やかで、体の曲線があらわになる。もともとタイトなワンピースを一枚着ているだけなのだ。ストッキングも穿いているようだが、肌と同じ色で見分けが付かない。
悦地は感嘆から一変して嘆息を吐くと、首を横に振り振り近付いた。
「全くゥ。寝起き早々に軽口を叩かれるとは思わなかったよォ。寝覚めが悪いじゃないかァ……どォだい、出勤時間までベッドの中でもォ一戦」
「や~よ」唇を突き出す愉本。「あいにくアタシはも~出かける時間なのよね~」
「はァ? こんな早い時間にかィ?」
悦地は反射的に壁時計へ目をやった。
まだ朝の五時半だった。今から出勤しても何も出来ないと思うのだが。
「ん~、でもちょっと調べたいことがあるのよね~。てへへ」
わざとらしく、ぺろりと舌を出す。
お茶目を装ったつもりだろうが、悦地の目はごまかせない。とはいえ彼女の行動には思い当たる節もあって、無理に引き止めたりはしなかった。
「あァ……例の『任意捜査』かィ?」
任意捜査。
堅苦しい四文字の漢字に、愉本はぴくりとこめかみをうずかせた。
その瞬間だけ、美人の双眸が笑わなくなる。すぐ元の陽気な美人に戻りはしたが。
「こらこら~悦地クン? アタシたちは科捜研よ~、ただの研究員に捜査権はないでしょ~? 任意捜査なんて出来ないわよ~?」
「似たよォなものだろォ? 自主的に調べものをするなんてさァ」
「だから~、捜査って言うよりは自発的な鑑定、自由研究と言うべきかしらね~?」
自由研究。
科捜研は研究職なので、通常業務の他にも各自のテーマで研究実験を行なっている。
それをこなすには、時間外労働も当然ある。飽くまで自主活動ゆえ給料は出ないが、研究員として研鑽を積み、将来のキャリアアップに繋がる下積みだと思えば自然と捗る。
対して、任意捜査は刑事捜査官の業務だ。
俗に言う未解決事件――お蔵入り・迷宮入りした刑事事件――を警官が自発的に掘り起こすことを指す。事件に執着のある刑事が余暇を利用し、独自に洗い出す場合がほとんどだ。余裕がないと出来ない。
「とある未解決事件の鑑定依頼がね~、まだ分析しきれていないのよ~。もたもたしているうちに~、事件はお蔵入りしちゃったわ~」
「変な所で律儀だなァ。そんなの捜査本部が解散した時点で、依頼も白紙に戻ったろォ」
「でも~、証拠品のサンプルはまだアタシの手許にあるのよね~」
「刑事部も杜撰な管理だなァ……ま、サンプルが証拠品の一部を切り取ったものだと、大部分は刑事部に残っているから、回収忘れも気付かないことがあるかァ……」
いかにうやむやのうちにお蔵入りしたのかが察せた。何ヵ月経っても進展しない場合、捜査陣の士気は著しく低下するし、なし崩し的に打ち切られる。
証拠や資料の回収も雑になり、とりあえず書類上でモノがそろっていれば良しとされることもあった。愉本の場合がまさにそれだ。大半は警視庁に保管されるため、一部だけ貸したきりになっていることに気付いていない。
「アタシは仮にも法医科よ~? 医学に携わるインテリのプライドがあるのよね~。受けた依頼はやらなくちゃもったいないじゃない?」
「本当にそれだけかィ?」
悦地は愉本の正面に立った。
顔を寄せる。息がかかる距離。
視界いっぱいに迫る美貌。彼女の方はまばたきすらせず、余裕綽々に悦地を見据えている。強い女だ。決して臆さない。
「ボクのテクニックで、未解決事件のことなんか忘れさせてあげるのになァ?」
「冗談はよしてちょ~だい」
「だってその事件、もう数年前のヤマだろォ? 当時の科捜研の技術では鑑定しきれず、証拠不十分で容疑者を検挙し損ねたじゃないかァ。ボクもキミも当時は新人で、ろくに力になれなかったよねェ?」
「
…………。
…………。
「……そォだっけ!?」
悦地はまばたきを繰り返した。
しまった、負けた。愉本はまだ目を見開いたままだ。勝ち誇って微笑んですら居る。
「そ~よ。ギターが得意でね~。よくアタシへ捧げる愛の歌を弾き語ってくれたわ~」
「
「そ~も行かないでしょ~? アタシにとってのケジメなのよ~。いわば弔い合戦なの。事件を放置したら元カレが浮かばれないわ~」
言うや否や、愉本は一瞬だけ悦地の唇に自らの唇を重ねた。
コーヒーの味が唇越しに伝わる。
しかしすぐに顔は離れ、残滓が途絶えた。悦地の体も押しのけられる。
愉本はテーブルから腰を下ろして、ダイニングを出て行った。玄関のハンガーにかけられた上着を羽織って、ハイヒールに爪先を納める。
出勤するつもりだ。
悦地は引き止めようと思ったが、わずかに躊躇したのち、諦めた。
自由研究はもはや、愉本にとって日課なのだ。鑑定依頼の打ち切りも来ないため、踏ん切りが付くまで調べ続けようとする意固地。
(昔の思い出を引きずっていそォだなァ……)
悦地は、玄関の扉が開かれる音と、再び閉ざされる音に顔をしかめた。
悦地では彼女の心の溝を埋められない。
その事実が、とにかく悔しかった。寂しかった。
二人はセフレでしかない。互いの心を癒すパートナーにはなり得ない。
恋人になんか、なれっこない。愉本の心に元カレの残照がある限り。
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