結
4――だとしたら(前)
4.
翌日、徳憲忠志は捜査主任として数名の部下を引き連れ、貝原惷作の勤める実ヶ丘市民病院へと足を運んだ。
傍らには、同行を依頼した――という名目だが実は勝手に付いて来た――忠岡悲呂の姿もある。
ここを訪れた理由は言うまでもなく、看護師の時田慄子に話を聞くためだ。科捜研の見立てでは、ほぼ時田が真犯人で間違いないと白羽の矢を立てている。徳憲としては貝原を拘留した手前、あまり歓迎できないのだが致し方ない。時田の真偽を確かめる意味でも、この訪問は重要だった。
「飽くまでも形式上は聞き込み調査だからな」捜査官たちに告ぐ徳憲。「まだ時田の逮捕状は取れていない。任意同行で署まで引っ張るか、あるいは貝原が犯人という一発逆転の証拠を新発見できれば御の字だ」
「はい」
「承知しました」
「了解です」
部下たちが銘々、頷いた。徳憲が迷っているせいか、部下たちもどこか頼りない。
市民病院の門をくぐり、ピロティを経て棟内へ。最後尾をのほほんと闊歩する忠岡が、一人だけ場違いだった。彼女だけ白衣姿というのも浮いている。
「これで時田がクロだったらー、誤認逮捕の謝罪会見しなきゃいけないねー」
「嫌なこと言わないで下さい」
受付ロビーに向かう速度が鈍った。徳憲はまだ、貝原犯人説を信じている。もはや誰も耳を傾けない孤軍奮闘ではあるが、最後まで望みを捨てたくはない。
「いー加減諦めなってばー。ここの精神科は今ー、主力の貝原さんが不在なせーでてんやわんやなのよー? 早く釈放してやんなきゃ気の毒でしょー?」
忠岡は徹頭徹尾、貝原の無罪を力説している。
病院が慌ただしいのは、徳憲も肌で感じた。ただでさえ医療事務の岸根志乃が欠員になったのだ。さらに精神科のエースが不在で、看護師の時田まで警察に連行されるかも知れないとなれば、病院関係者の非難は根強い。警察の到来も白い目で見られた。
「時田さんなら今日、精神科の開放病棟のシフトに入っていますが――」
受付で時田の居場所を聞いた徳憲一行は、脇目もふらず踏み込んだ。
精神科は、心の病――神経症や精神疾患――を受け持つ科だ。心因性の体調不良も心療内科と協力して診察している。患者の悩みを聞くカウンセリングも併設されており、患者との距離感は非常に近い。
精神科の入院病床は別棟に設置されていた。患者が自由に外出可能で見舞い客とも面会できる『開放病棟』と、厳重な密室に隔離された『閉鎖病棟』の二種類がある。
後者はさらに身体拘束も課せられるため、暗いイメージが強い。大半の精神病患者は問題なく過ごしているが、一部では言動が支離滅裂だったり傷害行為に走ったりする者も居るため、精神科の看護師はなり手が少ない。時田は貴重な人材であり、病院側も手放したくないはずだ。
開放病棟はドアの施錠もなく、見舞い客もちらほら居て、陽の光が射し込む明るい空間だった。全室が相部屋で、患者どうしも気さくに雑談を交わしている。中には鬱気味で塞ぎ込んでいる者も見受けられたが、総合的には穏やかな雰囲気だ。
そんな光景を眺めつつ、徳憲たちは精神科のナースステーションを目指した。時田が見回りに出ていなければ、そこに居るはずだ。
と。
忠岡が不意に、一室の前で立ち止まった。
「あたしの姉さん、ここに入院してるのよー」
「は?」
ギョッとして足を止める徳憲だったが、それもまた忠岡の計算だろうか。部下たちも彼に倣って休まざるを得ず、忠岡に迷惑そうな視線を投げた。
「以前話したでしょー? あたしの姉さん、精神を病んでるのよー。心身を捧げた婚約者が実は結婚詐欺師でさー、純潔も全財産も奪われた挙句、捨てられちゃったのよねー」
「ああ、そう言えば聞きましたね」
「人生の全てを失った姉さんはー、ほとんど心神喪失状態だったわー。うちって両親が若い頃に蒸発しちゃったしー、あたし一人じゃ面倒見切れないんで、ここに預けてるのー」
「蒸発?」
「育児放棄ってやつよー。まー娘に『悲呂』って名付けるよーなクズ親だもん……『悲しい』なんて縁起の悪い字をあてがう親が、どこの世界に居るっつーのよ」
「……だから貝原さんの肩を持つんですか? 姉の治療に支障が出ないように?」
「そーじゃないけどー。それ言ったら時田を逮捕しても病院に支障出るでしょー?」頬を膨らます忠岡。「週イチでお見舞いに来るたびに、姉さんがやつれてくのよねー……一日中ぼーっと窓の外を眺めてるだけだしー」
顎で指し示された室内は、相部屋に独りで居座る華奢な女性が見て取れた。
病院指定の貫頭衣をかぶっただけの、簡素な佇まいだ。ベッドに腰かけたまま、虚ろな双眸で外を眺めている。
人形のごとく微動だにしない。陽光を浴びた肌は青白く、頬が痩せこけ、手足も棒のようだ。伸び放題の髪が妹と瓜二つなのは、妹が身だしなみを整えるべきだろう。
「ろくに食事も
「よほどショックだったんですね。恋人に裏切られたことが……」
「うーん、ちょっと違うのよ」
「え?」
「ショックはショックだったんだけどー、今も詐欺師が自分のもとに戻って来ると信じてるのよー……でもそれが実現しないから鬱になってるわけ……はぁー……」
「ええっ? 騙されたのに待ち続けているんですか?」
「騙された事実を受け入れられず、頭の認識がちぐはぐになってるみたいー。現実逃避による
どうやら
自分が酷い仕打ちを受けることで、彼氏の役に立っている……と自分を慰め、歪んだ世界観を築き上げるのだ。いわば、家庭内暴力に悩む女性が共依存で別れられないのと似たパターンだった。
「だから姉さんにはー、貝原さんの治療が必要なのよー。あの人の医療とボランティアが続いて行けばー、いつか姉さんも社会復帰できるに違いないから――」
そう紡ぐ忠岡には、確固たる未来像があった。
姉を遠く見守る眼差しは、さらにその先――姉が元気に日常生活を送る姿――を夢見ている。忠岡もまた一介の臨床心理士であり、公認心理師だから。
今は叶わぬ願いだとしても、心理学が発展すれば道は開ける。その活動を止めてはいけない。貝原のように優秀な医者を逮捕するのは社会的な損失なのだ。
「あら、刑事さんたち、いらしていたんですか」
一人の看護師が、早足で通りがかった。
カルテと診察道具を携えた妙齢の女性だ。入院患者の定期検診にでも来たのか。彼女は警察と面識があった。何せ、徳憲たちが捜していた人物だったからだ。
「時田さんだー! ちょーど良かったー」
重要参考人である。ナース服を着こなした足の長い美女。職業柄か、ナース帽に納めた頭髪は短く切りそろえ、爪も深く切っており、とにかく清潔感を優先している。
「何かご用ですか? 今は勤務中でして……」
「あー手短に済ませますよー。ほらー忠志くん、聞き込みー」
忠岡が肘で小突いた。
徳憲はいったん深呼吸し、居住まいを正す。
「時田さん、睡眠薬を飲まれていると聞いていましたが、お仕事しても平気なんですね」
「はい。全快には程遠いですが、通常業務くらいなら何とか……」
「それは良かった。先日、貝原さんが逮捕された件で、もう一度お話がしたいんです。可能であれば、ゆっくり署の方で――」
「警察署まで行くのはちょっと……あと少しで休憩なので、そのときなら」
「そうですか……判りました」
任意同行は拒否されたが、話す時間は取れそうだった。
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