3――稲妻を司りし白銀の堕天使(後)


 化学科は、第一化学科と第二化学科に分かれている。

 第一化学科はガス爆発や爆弾事件、火薬関連の鑑定と検査を担当している。幸い、爆弾テロ事件は日本では事例がほとんどなく、警察も馴染みが薄い。

 もっぱら出入りするのは『第二化学科』だ。


 二人が戸口を開け放った瞬間、さっそく目当ての研究員に鉢合わせた。


「おんやぁ? 珍しい組み合わせのカップルだなぁ」


 穏やかに歓迎した研究員は、丸顔で目尻の下がった中年男性だった。眼鏡も丸いフレーム、体型も小太りで丸い。かどの立ちようがない人の良さがにじみ出ている。


怒木いかるぎ慫矢しょうやさん」


 徳憲は握手を求めた。

 彼の知る限り、科捜研では唯一まともに会話できる常識人だ。何事にも動じない温和な装いが居心地よく、本人もそれを自覚しているようで、来る者を拒まない。

 尤も、逆に言えば鈍感かつ無感動であるらしく、マイペースな愚鈍さが妻の不興を買って、離婚した過去を持つが。


「先日、怒木さんからいただいた家庭菜園の野菜、とても美味しかったです」

「それは重畳。土いじりが趣味だからなぁ。あ、嫁さんに逃げられてからは裁縫も始めたよ。仕事でも、土壌分析と繊維質の鑑定が第二化学科のオハコだからねぇ。趣味と実益を兼ねている……と言えるのかなぁ?」


 笑みを浮かべる怒木に、毒気は微塵も存在しない。

 柔らかな雰囲気は人望も厚く、いずれは化学科の管理官ポジションにと嘱望されているが、資格などの関係で本人は否定している。


 土壌分析と繊維質鑑定は、化学科の花形業務だ。確たる物証がない知能犯は年々増加しており、それに対する有効打として、犯人が残した靴の土砂や、犯人が着ていた衣服の繊維が注目されている。どんな知能犯も、ミクロな粒子までは証拠隠滅しきれない。

 動植物の天然素材はもちろん、人工繊維さえも埃ひとつで選別できる。繊維が判れば、犯人の服装を特定できるし、土埃からも犯人がどの土地から来たのかが鑑定できる。


 さらにそれは、今までの犯罪の常識を封じる決め手にもなっていた。なぜなら――。


「怒木さん、凶器には指紋がありませんでした。犯人は手袋を着けていましたか?」

「そうだなぁ。から、それを鑑定すれば街の防犯カメラで手袋の装着者を探せるし、犯行当日の目撃者も募れる。手袋の流通経路をたどって購入者も絞れる。おのずと犯人が浮かんで来るさぁ」


 今の時代、手袋で指紋を隠しても無駄だ。拭き取っても布巾の繊維が残る。

 これからの犯人は、衣服の埃さえも現場に遺留してはならない。いかに完璧なトリックを作ろうとも、化学科が犯人を暴く。旧来のミステリー小説なんてもはや成立しない。


「手袋は特定済みだぞぉ。病院で看護師が着ける手袋……使い捨てのPVCグローブがあるだろう?」

「そうか、勤務先の……! 使い捨てなら毎日大量に置いてあるし、ひとつくらい持ち出してもバレませんよね!」

「着脱しやすいよう裏面に粉末をまぶしたPVCグローブがあってなぁ、その粒子がたまたま凶器に付着していたよぉ。犯人はPVCグローブで犯行に及んだと見て間違いないなぁ」

「貝原か時田の仕業ってことですよね?」

「無論さぁ。ただしPVCグローブには、粉なしのタイプもあるんだなぁ。粉が手に付くとかぶれる人も居るからねぇ、一般的には粉なしの方が普及しているなぁ」

「! となると、粉ありPVCグローブを使っている人は限られる……?」


「そうだねぇ」にっこりと笑う怒木。「時田慄子さん、だっけ? あの人、粉ありPVCグローブを愛用しているらしいよぉ」


「ええええっ!?」

「ちなみに貝原医師は、粉の感触が嫌いで、PVCグローブは粉なし派だそうだ」


 徳憲の『ストーリー』は徹底的に瓦解された。

 粉あり手袋は時田が使う……時田が凶器を握った張本人? 

 隣では忠岡が、にやにやと意地悪そうに横顔を覗き込んで来た。憎たらしい。


「もー確定じゃなーい?」

「い、いや、まだガイシャが飲まされた睡眠薬が不可解ですし――」

「あぁ、睡眠薬なら同僚の慂沢ようさわくんが調べていたなぁ。おぉい、慂沢くぅん!」


 怒木が同僚を呼び付けた。

 反応したのは、室内でもひときわ赤ら顔の、ビール腹が目立つうらぶれた壮年だった。

 何日も生やした無精ひげ、寝癖そのままの頭髪、肌は酒焼けしたように赤黒く、まぶたは酩酊したような半眼、吐息は酒臭い。体臭も酒気を帯びている。飲酒しているわけではないのだが、骨の髄まで酒が染み付いている。


「うぇぇい、オレサマのこと呼んだかよう?」


 千鳥足で寄って来たそいつは、一応はシラフだった。

 おちゃらけた様子だが、その瞳はしっかりと徳憲たちを見据えている。曇りがない。


「あーお酒臭ーい」


 忠岡が無遠慮に鼻をつまむと、壮年は咄嗟に否定した。


「いやいや待ってくれよお嬢ちゃん、さすがにオレサマも勤務中は飲まねえよ。ま、無類の酒好きってえのは本当だがね」

「慂沢友悸ともきくんは薬品やアルコールの鑑定を得意とするんだなぁ。こちらも趣味と実益を兼ねているよねぇ」

「よせやい怒木。てめえほどじゃねえよ」悪態をつく慂沢。「ま、うちは犯人の酩酊度合や酒気帯び、麻薬のラリ度まで検査するからよ。特に揮発性の強い毒劇物やアルコール、シンナーは厄介でな。ヘッドスペース・ガスクロマトグラフィーっつう機器で検査するんだぜ。副作用や中毒症状も余すことなくビッグデータ化されてらあ」


 酒好きの男がアルコールの鑑定に携わる――これもまた一つの天職だろうか。

 すらすらよどみなく口上を垂れたことからも、彼が酔っていないのは明白だった。どうにも気の抜けた立ち居振る舞いと、白衣をだらしなく着崩しているのが難点だが、職務に関しては信頼しても良い。


「ええと、おたくの依頼は、睡眠薬の特定だったっけか?」

「はい、そろそろ結果が出る頃ですかね?」

「モチのロンよ。ほらよ、目ん玉引ん剥いて熟読しやがれってんだ」


 ぶっきらぼうに書類が押し付けられた。

 一枚ずつめくって目を通す。被害者に盛られた睡眠薬は、鬱病患者などに処方される、精神科医から主に出されているものだった。

 ここまでは予想通りだ。貝原ならば病院からたやすく薬を拝借できるだろう。それを飲ませ、乱暴して殺害した……というのが徳憲の組み立てたストーリーである。

 が――。


「でもこの薬、時田慄子も服用していたらしいぜ」

「え?」


 慂沢が意外な情報を耳にねじ込んで来た。

 徳憲は目を丸くした。科捜研の連中が検査結果だけでなく、独自に聞き込みをしたような新ネタをもたらしたのだ。


「どうして科捜研が、そんな情報を」

「初動捜査んときオレサマたちも臨場要請されたじゃない? そんとき関係者から連絡先を聞いて、ちょくちょく電話入れてたんだぜ」

「そ、それはまた直截的なことを――」

「まあいいじゃねえか。でだ、時田は貝原とデキてたが、結局捨てられたんだよな? 貝原の本命は岸根だったから……それ以降、時田はショックで鬱気味になったらしいぜ。仕事に支障こそねえものの、不眠に悩まされ、睡眠薬を買ってたそうだ」


 時田も睡眠薬が手に入る立場だったのか。のだから、労せずして手に入る。


(また時田か! 時田が真犯人なのか?)


 徳憲は立つ瀬がなかった。

 どいつもこいつも時田を犯人視する情報ばかりだ。徳憲は間違っていたのか。


「じゃー署に戻って結論をまとめよーかー?」


 忠岡が笑いをこらえつつ、徳憲の肩を叩いた。

 勝ち誇っている。貝原が無罪だと証明できそうで、うきうきしている。伸び放題の黒髪が顔にかかるのを払いつつ、短い歩幅でせいぜい闊歩してみせるのだった。


「さーて、ここからがあたしの出番だねー。数々の状況証拠から、犯人の動機や犯罪心理を包み隠さず暴いちゃうぞーっと」




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