転
3――稲妻を司りし白銀の堕天使(前)
3.
時田慄子が真犯人――?
それはほんのわずかな可能性でしかないのに、あたかも真実のように断言する忠岡悲呂へ、徳憲は底知れない
法医科を出た二人は、皮肉げに冷笑を湛える忠岡と、腑に落ちない徳憲とで、明暗がはっきり分かれた。足がすっかり止まってしまう。
「そんな馬鹿な……俺のストーリーでは貝原がクロだと思ったのに」
「まーだ寝ぼけたことぬかしてんのー? 事件は初動捜査が命ってゆーけどさー、精密な捜査を繰り返すうち、あとから新事実が発覚することもあるでしょー?」
忠岡はとても上機嫌だ。彼女の思惑通りに事が進んでいるため、徳憲の鼻を明かした気分なのだろう。ちょっと忌々しい。
「楽しーなー。法医科だけじゃなくてー、他の科も別人が捜査線上に浮かんでるかもね」
「勘弁して下さいよ……って、他の科にも寄るんですか」
「当然でしょー? さー次行こー次ー」
乗り気でない徳憲の背中を押した忠岡は、同じフロア内にある別室の戸を開いた。
『物理科』
という表札が張り出している。
ここは文字通り、物理的な状況分析を行なうスペースだ。科はさらに『電気係』と『機械係』の二つに分かれていて、専門分野も各々異なる。
電気係は電気事故および火災の原因を検査することや、声紋および音響の調査などを担当している。電話の逆探知も電気係が担う職務だ。
機械係は、機械類の誤作動による事故や交通事故の原因究明、銃器や刀剣類の詳細、金属片や摩耗痕などの鑑定を任されている。ひき逃げのタイヤ痕や金属面の抹消刻印を調べるのもここである。
「やっほー物理科の皆さーん、心理係がお邪魔するわー」
あっけらかんと入室する忠岡の後ろ姿を、徳憲は所在なげに追従した。
法医科もそうだったが、物理科もまた室内に所せましと実験機材や設備が押し込まれている。迂闊に背伸びすらままならない。
どれが何のための装置なのか、徳憲にはさっぱり判らない。スピーカーを通した音声の波形がコンピュータで解析されているモノや、塗料痕を薬品に混ぜて成分を記録しているモノはかろうじて判別できるが、大半は正体不明な未来空間だった。
「――――……」
そんな両名に突如、立ちふさがる人影が現れた。それも無言で。
小柄な忠岡はともかく、徳憲さえも影が覆いかぶさる巨漢である。身長は二メートル近い。筋骨隆々で肩や胸が異様に盛り上がり、二人を遮る腕も、女性の腰より太そうだ。
「これ以上は勝手に踏み入るな、ってことですね?」
徳憲が身を引くと、巨躯の男は黙したまま相槌を打った。
「こんちゃー
忠岡がひらひらと手を振って挨拶する。
怖川
無口で武骨な偉丈夫だ。見ての通り、肉体を鍛えるのが趣味らしく(筋肉は悦地の比ではない)、力仕事も得意らしい。外見だけならいかにもブルー・カラーで、研究職ではなく現場の警察官をやっていてもおかしくなかった。事実、護身術の心得もあるらしい。
「しかし、本当に口を利きませんね」
「――――……」
「確か、黙々と機械いじりや研究に没頭したくて、この職に就いたんでしたっけ?」
「――――……」
こくこく、と何度か頷かれた。
正直、ちょっと怖い。名は体を表すと言うが、怖川の『怖』と惶太郎の『惶』は、どちらも『おそれる』と読む。仏頂面な巨体らしい氏名ではある。周りになめられず、
「機械係には、事件の刀剣鑑定を頼んでいましたよね」
徳憲は改めて尋ねた。怖川はやはり口を開かず、無言で首肯を繰り返すばかりだ。
刃物による刺し傷や切り傷は、それぞれ特徴がある。刃物の種類によって傷の付き方が異なるし、刺し傷の挿入角度や体表面の裂け具合からも、どんな刀身で付けられたのかが特定できる。何百何千パターンもの傷痕が全国通浦々から集積され、ビッグデータとして管理されている。
刀剣類そのもののデータベースもそろっている。例えば刀身を
銃刀法に抵触する犯罪が起きれば、瞬時にここからデータをピックアップ出来る。
「――――……」
怖川は手招きして、二人を自分のデスクへと導いた。
他の研究員たちが忙しなく立ち回る中を、この男は器用にすり抜け、かいくぐる。巨人に似合わない軽やかな足取りに、徳憲は目を見張った。鍛えた体は伊達じゃない。
口数こそ少ないが、彼は「言葉など不要」なのだろう。見れば判る、空気を読む、間合いを測る、口先ではなく行動で示せる逸材。
「――――……」
一冊の書類が、怖川のデスクから引っ張り出された。
事件の凶器にまつわる報告書だ。凶器は医療用メスで、刃先に付着した血痕が被害者と一致したのは前述した通りである。眠らせた被害者を正面から刺したのではなく、うつ伏せにして殺したことも、すでに考察されていた。さすがである。
その刺し方だと、手で直接刺すよりも不安定なので、傷跡にブレが生じ、えぐれたような痕跡になる。実際、被害者の患部写真が添付されており、そのようになっていた。
「えーと何々ー? こうした刺し方は特殊ではあるがー、自らの体重を乗せるだけで刃物を突き刺せるため、非力な女性でも致命傷を負わせられるー……だってさー」
また女性の犯行が示唆された。
むしろ女性だからこそ、こんな殺し方をしたと言えそうだ。非力な女性が正面きって心臓をえぐるのは難しい。仰向けの被害者へ馬乗りになって刺した……という線も考えられるが、それだと血痕の説明が付かない。
徳憲は絶望して天を仰いだ。
天井の蛍光灯が、虚しく彼を照らしている。
鑑定が進むにつれ、徳憲のもくろみがどんどん外れて行く。捜査主任は、最初に『ストーリー』と呼ばれる全貌を想定し、それに沿って証拠を集めるのが常套手段だ。
なのに、ストーリーと大きく異なる事実ばかりが浮上している。貝原が犯人ではないとなると、いよいよ誤認逮捕が現実味を帯びた。
「フフン。誰かと思えば捜査主任殿じゃあないかッ」
――やにわ後ろから話しかけられた。
振り返ると、そこにはやたら痩身の男性が、両足を広げて立っていた。右手で顔を覆うようにポージングし、左手は腰に当てている。肩に羽織った白衣がふわりと翻り、勤務中なのに華美なシルバー・アクセサリーをじゃらじゃらと身に着けていた。
髪の毛は右半分を銀色、左半分を青色に染めている。
目元には、メイクで描いたのだろう謎の縫い跡が見受けられた。
「あー、電気係の
忠岡がこれまたフレンドリーに会釈した。
怯間はフッと微笑し、足を交差させて腰をひねり、胸に手を添えて上体をそらした。何だその姿勢は。
「その通りッ! 我こそは幾億の星が眠る天界を追放された一筋の
やけに芝居がかった大見得が鼻についた。
と言っても科捜研では見慣れた光景なのだろう、怖川は無視して通常業務へ戻ってしまった。忠岡だけが仕方なく彼に話を合わせている。
「はーいはい、電気係だけに稲妻ねー。中二病おつー」
中二病って何だ?
徳憲は首を傾げざるを得ない。
忠岡は心理係だから、きっと心の病気なのだろう。精神疾患か、神経症か、症候群か。例えば、患者の精神年齢が中学二年生で止まっているとか?
さらに怯間は、瞳の色も左右で異なっていた。
右が琥珀、左が紺碧。カラー・コンタクトを入れているのか。シルバー・アクセサリーもそうだが、中二病は自分を粉飾するのが特徴らしい。
「怯間くーん、放火の出火原因を教えてくれるー?」
「フッ。いいだろうッ! 電気と炎、火花を操りし『電気係』の名に賭けてッ!」
いちいち大袈裟なポーズ――多分意味はない――を取るのは、周りにも迷惑そうだった。手を振りかざすたびに機材をかすめている。
徳憲の懸念をよそに、怯間が鑑定結果の報告書を差し出した。忠岡が徳憲そっちのけで受け取ると、我が物顔で目を通す。
「ふーん、
「我が見立てに過ちなどないッ」ビシッと天を指差す怯間(多分意味はない)。「ガイシャのアパートは一〇三号室ッ! 裏庭に面しており、そこから火が放たれたッ! 燃焼残渣は焼け跡に遺留する燃えカスのことだなッ! それを分析すると燃焼促進剤――ガソリンや木炭などの燃料だ――が解明できるというわけだッ、フハハ!」
「促進剤はー、灯油って書いてあるねー。この暑い時期に灯油なんて置いとく人は居ないだろーから、人為的にまかれたんだろーねー」
「灯油はガソリンスタンドで簡単に調達でき、放火に悪用されやすいッ!」
「どーして屋外で点火したのかなー? 死体を燃やして証拠隠滅したいならー、屋内で火をつけるはずよねー?」
「それは知らんッ。心理分析は貴様らの範疇だろうッ?」
「それもそっかー。まー想像は付くけどねー。忠志くんもそーでしょ?」
「え? いや、俺は事態に付いて行くのがやっとで……」
「使えないなー。それでも主任なのー?」
ずけずけと言葉のトゲを刺して来る。
貝原が犯人ではなさそうなので気が滅入っているのに、新たなストーリーを考える余裕なんか全然ない。気概が湧かない。
忠岡だけが意気揚々と、徳憲の手を引っ張った。
「じゃー最後は化学科に行こーっ。睡眠薬と繊維質の鑑定をしてもらってたよねー?」
徳憲はもはや、金魚の糞よろしく忠岡の付属物に成り下がった。
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