2――サキュバスは遺伝子が欲しい(後)
*
好青年で知られる貝原惷作が、女遊びに興じていることは公然の秘密だった。
遊び相手はよりどりみどり、むしろ女の方から集まる入れ食い状態で、実直な外面とは裏腹に好色だったことが窺える。
そんな彼も、所帯を持って落ち着きたいと考えたのだろう。遊びの女を次々と縁切り、身辺整理に勤しんだという。
捨てられた女性からの恨みも、水面下で相当買っていたと思われる。
被害者である岸根志乃は、そんな貝原を忌避していたようだ――。
*
「岸根さんは一度、女癖の悪い貝原を振ったんですよ」
徳憲は渋面をかたどりつつ、忠岡に話す。
警察総合庁舎に到着した二人は、七階にある科捜研までエレベーターで上昇した。
その間、二人でだんまりするのも気まずいから、おさらいを兼ねて語っている。
「貝原は相当ショックだったようです。女に振られるなんて人生初でしょうから。岸根さんは恋愛に奥手だったらしく、貝原のような放蕩野郎は苦手だったようです」
「誰から聞いたのそれー?」
「病院の聞き込みとか、岸根さんの交友関係とかですよ。でも、その振られ方が逆に新鮮だったらしく、貝原はますます岸根さんに熱を上げたんです。自分の思い通りにならないからこそ、手に入れたくなったんでしょうね。
「忠志くん、私情が入ってなーい?」
「いえ、別にそういうわけじゃ……俺は仕事一筋で異性に無縁だったけど、決して羨ましいわけじゃありませんよ」
「……まーいいけどさ。続けてよ」
「貝原は女性関係を清算し、二名まで婚約候補を絞ったそうです。岸根さんともう一人」
「もーひとりー? どこのどいつよー?」
「看護師の
「でもー、貝原さんは最終的に、岸根さんを選んだのよねー?」
「はい。貝原が言うには、岸根さんを口説き落とすべくアパートを訪ね、懐柔に成功して帰宅。ですが、岸根さんは死体で発見され、部屋も放火されました」
「放火かー。随分と派手ねー」
「ボヤ騒ぎでしたけどね。アパートの隣人が早々に発見したので、ほとんど焼けていません。で、警察も出火原因を調べに行ったら、岸根さんの死体を発見した案配です」
「そーだったっけ? すっかり忘れてたわー」
忠岡が悪びれもせず吐き捨てた。
もはや徳憲は突っ込まない。この人の雑さは今に始まったことではない。大体にして、貝原と会うまで容疑者の名前すら気にしていなかった輩なのだ。
「死体の状況も、おかしな点がありましたよ。岸根さんは寝巻きをはだけた状態で、解剖の結果、睡眠薬の成分が検出されました」
「それで強姦だと早合点したのねー?」
「だって薬で眠らされた女性と『和姦』ってあり得ないでしょう?」
少なくとも徳憲は真実だと考えている。乱れた衣服は、女性の承諾を得ない姦通によく見られるし、医者ならば睡眠薬もたやすく用意できるだろう。精神科医は不眠症患者などに処方することがままある。
「本当は貝原が強引に押しかけて、ガイシャを犯して殺したと考えていますよ俺は」
「ふーん。まー予断は許さずに行こーか。さー着いたよー」
科捜研の受付窓口が現れた。
忠岡は素通りして中へ入るが、徳憲はそうも行かない。
『第一法医科』
と表札が掲げられた窓口は、科捜研の庶務も兼ねている。鑑定依頼の手続きや、刑事部からの臨場要請など、あらゆる業務はここを通す必要がある。
科捜研は、鑑識課が集めた証拠や資料の中でも、さらに高度な科学調査・分析を要するものが持ち込まれる場所だ。徳憲は今、科学捜査の最先端に足を踏み入れている。
「まずは第二法医科から窺って良いですか?」
「いーよー」
徳憲は目に
第二法医科。
第一法医科は受付窓口だが、第二は本格的な医学鑑定を請け負う。血液や唾液の鑑定と検査、精液その他体液の鑑定と検査、体組織全般の鑑定と検査、酵素類の鑑定と検査。
その他、医学的な捜査に関わる研究開発も、ここの職務に含まれる。
「ああ、緊張して来た。慣れない場所に来ると身が引き締まりますね……」
「あははー、固くなり過ぎ――」
「あ~ら徳憲クンじゃな~い? 今日もギンギンに固くなってる?」
――不意に話しかけて来たのは、第二法医科の女性研究員だった。
徳憲と同じ目線の高さ、長身のセクシー美女が居る。白衣をはだけた下には、肩を露出したタイトなワンピースを一枚着たきりだ。すそは短く、ともすれば下着が見えそうだった。
ファッションモデルさながらのスリーサイズは見る者を悩殺し、小顔から吐き出される息遣いは甘く、背中まで届く茶色い長髪は煌びやかだ。お固い警察組織とは思えない。
「お世話になります、
「あら~? アタシと徳憲クンの仲じゃな~い、下の名前で呼んでよぉ~。ついでに下のカラダもお世話になってくれて構わないわよ~?」
「か、
女性――愉本華恋――がしなだれかかって来たので、徳憲はしぶしぶ受け止めた。
アタシと徳憲クンの仲、と言われたが大して親しくない。その証拠に、愉本は徳憲を苗字で呼んでいる。なのに向こうだけが親密さを要求して来る。女性本位なのだ。
「捜査だけじゃなくて~、プライベートでもお話したいな~。そ~思わない~?」
「思いません。耳元に息を吹きかけないで下さい。豊満な胸を押し付けないで下さい、太ももを絡ませないで下さい」
「つれないのね~。生物学的に男と女はもっとたくさんまぐわうべきなのに~。遺伝子を研究すればするほど~、いろんなタネを掛け合わせるのが楽しくなるわよ~?」
「人間で、しかも生身でやろうとしないで下さい」
持って生まれたフェロモンの塊でもある愉本は、男と見るや篭絡したくて仕方がないらしい。息をするように男を求め、男漁りに終始する。徳憲も彼女の攻略対象だった。
……一方、忠岡はと言うと、こっちはこっちで別の研究員に粉をかけられていた。
「やァ忠岡さん、今日はボク以外の男を連れ歩いてるなんて、何の当て付けだィ? 淋しいなァ、そんな奴よりもボクと今晩付き合って欲しいんだけど?」
「あーもーそーゆーのいーから仕事しなよー
冴えない地味子の忠岡には、口説き文句が通じない。
悦地と呼ばれた研究員は、貝原とは別系統の美男子だった。細面の貝原に対し、悦地は野性味あふれる精悍な顔立ちで、ほどよく筋肉が付いたスポーツマンタイプだ。浅黒い肌が健康的な色気を醸している。あと、開口するたびに白い歯がいちいち光る。
「残念だなァ! ボクは若い女性なら誰でもウェルカムなのにィ! 忠岡さんは恋愛に奥手なだけ。勇気を出してごらん、あっという間に乙女の肉欲を開発してあげるよォ?」
開発って何だ。怪しい言い方をするなと徳憲は聞き耳を立てた。
忠岡も呆れたように悦地を手で制している。
「だーまーれ。どーして法医科にはこんなサキュバスとインキュバスしか居ないのよー」
サキュバスとインキュバス。よく言ったものだ。確かにどちらもセックスアピールが尋常ではない。異性を見ると誰彼構わず誘惑し始める。
悦地も白衣の下は薄手のシャツとスラックスしか着ておらず、それは夏だからというよりは引き締まった肉体美をひけらかすためのようだ。
フルネームは悦地
付いたあだ名は『エッチ休憩』。
なるほど、語呂が似ている。
「愉本さんと悦地さん、二人の頭文字を取って『愉悦』ペアって揶揄されていますよね」
「あら~、アタシをそ~やって覚えてるのね~! 嬉し~い!」
愉本が再び抱き着いて来た。今のは嬉しがる所なのか?
美女に密着されて悪い気はしないが、暑苦しい。そこへ悦地が割って入り、二人を引き離した。手には一束の書類を携えている。
「キミの用事はこれだろォ? 血液検査による犯行現場の詳細」
「あ、はい、そうです」
「読んだらさっさと帰りなよォ? オトコを視界に収めてもボクは楽しくないからさァ」
知るかそんなこと。
徳憲は書類を受け取ろうとしたが、愉本に抱擁されたせいで思うように動けない。忠岡は冷めた態度で関わろうともしないし、本当に困った。
愉悦ペアの属する第二法医科は、さらに法医第一係と第二係に分かれている。肩書きが『第二法医科・法医第二係』とかになって、とても紛らわしい。
(第一係は血液に関する調査が得意なんだよな。現場の血痕や血飛沫から、どんな凶器が使われ、どんな体勢で襲われたのかまで仔細に分析できる)
刃物で刺された姿勢、返り血の形状などから、犯行の経緯をつまびらかに解明できる。
「初動捜査のときはァ、現場近くの公園に捨てられてた凶器をボクに渡したよねェ?」
「はい。鑑識が拾った医療用メスに血液が付着していたんで、悦地さんに依頼しました。その結果、岸根さんの血液型と一致したので、これが凶器だと断定しました」
「現場の資料によるとォ、被害者は抵抗した痕跡が皆無だったよねェ。睡眠薬で眠らされてたとしてもォ、真正面から刃物が刺さってるのに返り血が綺麗すぎるなァ」
「返り血が?」
「ルミノール薬液を現場にまいて、返り血の形状を調べたのさァ。普通、心臓部に刃物を刺して抜き取ればァ、血が噴出するだろォ? でも……現場にはそれがなかったねェ」
ルミノールは血液中のヘモグロビンと反応し、血痕を青白く光らせる働きを持つ。いかに血痕を拭き取っても、微量な成分が残っていれば必ず反応するはずだが――。
「悦地さん、血痕ならガイシャの寝ていたベッドが血の海でしたよ。シーツや布団が流血を大量に吸っていました」
「心臓の血圧をなめちゃいけないよォ? ドンピシャで風穴が空いたら、返り血は天井まで届くはずさァ。ということはつまりィ――」
「じゃあ死体は仰向けではなく、うつ伏せで殺された、と?」
「
第一係は、血痕の有無だけでここまで克明な経緯を解き明かせる。
「けどさァ、普通わざわざこんなことするかなァ? 寝てる体を引っくり返したり戻したりって、結構しんどいよォ? 心臓を正確に刺したのは医療関係者ならではだけど」
「返り血を浴びて証拠にならないよう、慎重に慎重を重ねたのでは?」
「どォもちぐはぐだなァ。ボクには貝原が犯人だとは思えないねェ――」
「でしょー!? エッチ休憩のくせに良いこと言うじゃーん」
忠岡が急に悦地と迎合した。
貝原の無罪説を猛烈に支持している。予断は許さずに行こーと言ったのはどこのどいつだ。思いっきり偏った見方をしているではないか。
「気が合うねェ忠岡さん、今夜ボクとホテルで食事しないかィ?」
「それはやだー」
「あ~ら悦地クン、そんなちんちくりんよりもアタシとい~ことしましょ~よ」
愉本が徳憲から離れて、同僚を口説き始めた。
美男美女でしょっちゅう欲情しているから、こんな会話も日常茶飯事のようだ。とはいえ双方とも割り切った間柄だし、良くてセックス・フレンド止まりだろうが。
「愉本さん、ふざけてないであなたの進捗も教えて下さい!」
「んふふ~、よくぞ聞いてくれたわ~。やっと本題よ~。本番ってヤツね、本番♡」
愉本は艶っぽい肢体をくねくね動かし、自身のデスクから書類を差し出した。
そこには法医第二係の分析結果が記されている。第二係はDNA鑑定に一家言を持つ部署である。貝原の精液を鑑定したのも彼女なのだ。
「アタシはDNAの専門家だからね~。アタシも男のDNAをたくさん浴びたい~」
「話がズレていますよ」
「つれない男ね~」ほっとけ、と思う徳憲。「え~と、本件は科捜研の秘密兵器『ALS』を投入して~、現場から毛髪を細かく採取したわ~」
「ALS?」
「Alternative Light Sources、略してALSよ~。可視光線の中でも特殊な波長や紫外線・赤外線を当てることで~、肉眼では見えない遺留品も発見できるのよ~」
「へぇ。何か見付けたんですか? 今まで報告が遅れていたようですけど」
「分析には時間がかかるのよ~。最近よ~やく、時田慄子の毛髪を見付けたの~!」
「ええっ!?」
徳憲が声を裏返した。それに驚いた忠岡も飛び跳ねた。
時田慄子と言えば、貝原の婚約候補だった看護師ではないか。最終的に捨てられたが。
なぜ彼女の毛髪が、岸根志乃の住居に――?
「時田慄子も、ガイシャ宅を訪れていた? 岸根さんに婚約の座を奪われたから、嫉妬して殺そうと……?」
それ以外に考えられない。そうでなければ、彼女の遺留物が現場に残るはずがない。
「貝原さん以外の訪問者が居たのねー! しかも恋のライバルである時田慄子!」瓶底眼鏡を輝かせる忠岡。「もー真犯人はこいつ以外にあり得ないんじゃなーい?」
*
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