1――ポリグラフの踏襲(後)
軽やかな――というよりも極めて軽薄な――緊張感のない挨拶が室内を穿った。
入口で手を振るその人物は、とても小柄で、剽軽で、人を食ったように斜に構えていて、耳障りな甲高い女声を響かせた。
そう、女性だ。
童顔に
今度は徳憲が外へ出る番だった。廊下の傍らには弁護士が立ち控えていたが、気にせず打ち明ける。
「遅かったですね、
徳憲は安堵と同時に、彼女が弁護士より
彼女は意に介さない。にひひ、と黄ばんだ歯を見せて笑い飛ばす。
「あははー。まーあたしはこー見えても慎重派なのよねー。しっかり時間をかけて機材のチェックを終えてー、検査機器の正当性を保証しとかないとー、せっかくのウソ発見器が本当に正しーのか疑われちゃうじゃなーい?」
見た目のガサツさとは裏腹に、仕事面は几帳面だったりする。
忠岡はそばに立つ弁護士にもお辞儀をしてみせた。
「このたびー、実ヶ丘署捜査本部の依頼を受けてー、科捜研の文書鑑定科・心理係に所属するあたしがポリグラフ検査しに馳せ参じたって寸法でーす、よっろしくぅー」
「心理係ぃ?」
「そーでーす。あたしは臨床心理士、公認心理師、ついでに心理学博士号も持ってまーす。科捜研で犯罪心理学を研究してる忠岡
いちいち間延びした物言いが、弁護士の調子を狂わせた。
科捜研――正式名『科学捜査研究所』。
警視庁刑事部の附置機関である。東京都には総勢八〇名、各都道府県警にも小規模だが配属されており、主に犯罪調査の科学的な裏付けを鑑定・検査するのが職務だ。
それぞれの専門分野によって法医科、物理科、化学科など部署が細分化され、文書鑑定科はいわゆる筆跡鑑定に始まり、犯罪心理を研究する『心理係』も設置されている。
「ポリグラフ検査を、貝原さんに
弁護士が気圧されつつも、最小限の言葉を吐き出した。どうにかして反論したかったらしい。自分のペースを取り戻すために。
忠岡は大きく相槌を打った。
「そーですよー。検査には同意が必要なんでー、被検者のサインをもらいに来ましたー」
「ふん。ポリグラフだと? この僕を?」
貝原も部屋を出て来た。もはや取り調べが台なしだ。
どうやらポリグラフを知っているようだ。彼は精神科医――心理学を修めた医者――だから、ポリグラフに聞き覚えがあっても不思議ではない。
貝原と忠岡が目を合わせ、互いに睨む。
そのまま視線が火花を散らす――かと思いきや、話は思わぬ方向へ
「って、あれれー? 貝原センセーじゃーん!」
忠岡が目を丸め、あまつさえ貝原へ親しげに肉迫したではないか。
彼女の奇行は慣れっこだったが、マルヨウに取る行動では到底ない。ついには貝原の手まで握りしめた。
「おや。僕の知人が現れるとは」
「心理学をかじってればー、知らない人は居ないですよー。実ヶ丘市民病院の名医ですしー、精神病患者や心的障碍者の待遇改善・地位向上を目指す市民団体も有名ですよねー」
突然、丁寧語になった。
風向きが変わった瞬間だった。忠岡は貝原にぺこぺこ頭を下げ始める。徳憲は嫌な汗が止まらなくなったが、決して暑さのせいではない。
「僕の活動もご存じでしたか。献金先の政治家には、法案の提出も頼んでいますよ」
「さっすがー! 心の病気はまだまだ世間の理解が低いですもんねー。国の支援や介護体制を強化するためにもー、貝原さんのよーな名医が啓蒙活動してるのは心強いですー」
完全に共感している。
どうやら貝原は医業の傍ら、ボランティア活動もしているそうだ。
しかし、今は関係ないだろう。貝原は逮捕された被疑者であり、忠岡はそれを検査する心理学者でしかない。余計な感情を挟むべきではない。
徳憲は頭を抱えたが、忠岡は構わず貝原に顔を寄せる。非常に近い。
「実はあたしの姉もー、精神を病んでてー、鬱気味で仕事も手に付かないんですよー……だから貝原さんには期待してるんですー。姉が社会復帰できる未来を実現するためにー」
「忠岡先生ストップ!」さすがに引き止める徳憲。「マルヨウに肩入れしないで下さい。公正に検査してもらわないと困ります!」
「あー、そっかー。はー。検査、検査ねー。なーんか急に面倒になっちゃったなー」
あからさまにやる気をなくした忠岡が腹立たしい。プロのくせにムラがあり過ぎる。
「じゃー貝原さん、さっさと別室でポリグラフ検査をしちゃいましょーか。立ち会いはそこの朴念仁がしますんでー」
徳憲をぶしつけに指差した。貝原には猫なで声のくせに、徳憲には邪険そのものだ。
まずい。忠岡は腕前こそ確かだが、性格面に難ありというか、私情を仕事に持ち込む側面がある。
なまじ貝原が人格者で、社会に貢献して好感度が高いのも不運だった。
「いちおー検査するけどー、ポリグラフって所詮は精神状態の生理反応を見るだけだからー、誤診も多かったりするのよねー」
「やる前から不穏なこと言わないで下さいよ! 正確を期すために時間かけて準備していたんじゃないんですか!」
「あたしは貝原さんを
「予断は許しませんよ! 中立で検査して下さい! 何て心理士だ全く」
不安すぎる。徳憲は嘆息を吐いた。
「さーて、どーしたもんかしらねー。貝原さんを無罪にした方が、社会的な損失は少ないんだけどー。あ、もちろん検査はちゃんとするわよー? ほんとーだってばー信じてよー忠志くん、あたしと同じ『忠』の字を持つ仲じゃなーい?」
同じ漢字を持つから何だというのだ。
先が思いやられた。それはもう、とてつもなく思いやられた。
汗はいつの間にか、冷や汗に変わっていた。
本編は、この破天荒な心理係研究員と、その手綱を引く羽目になった捜査主任の顛末である。
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