うちの心理係は腹黒い!
織田崇滉
第一幕 うちの心理係は腹黒い
起
1――ポリグラフの踏襲(前)
1.
東京郊外・
駆け付けた消防が速やかに鎮火した所、火災の発生した一〇三号室に住む
岸根志乃は衣服に乱れがあり、左胸を刃物のようなものでえぐられた痕跡も見られた。
遺体からは男性のものとおぼしき体液が検出されたため、警察は強制性交等致死罪および殺人罪と見て捜査を進めている。
また、出火原因は人為的な放火の可能性が高く、犯人が証拠隠滅のために岸根志乃の部屋を燃やしたと思われる。
だが、集合住宅という立地上、隣人たちにボヤを早期発見され、逆に事件発覚が早まるという皮肉な結果となった。
*
「あなたが岸根志乃さんを
密閉された取調室は、うだるように暑い。
8月の陽気はますます容赦を知らず、ヒートアイランドの名を
省エネ反対、とつくづく考えながら、この席に臨んだ捜査官は、喉を
なのに、どんなに言葉を連ねても、
必然的に警察側だけが、自供を引き出すべくあれこれ喋り倒さねばならず、余計に喉が渇き、声がかすれ、滑舌も鈍った。
名は
階級は警部補で、今回の
ここ実ヶ丘署で最多の検挙記録数を誇り、この年齢で結婚はおろか恋人も作らず、寝ても覚めても捜査に明け暮れた仕事一筋の実直さが、彼を構成する全てだった。
「あなたは明後日に検察へ送られますが、その前に確認したいんですよ」
取り調べも彼が行なっている。他は制服警官が記録係としてノートに尋問を記述しているが、会話には口を出さない。徳憲しか喋っておらず、さぞかし退屈な記録だろう。
対座したマルヨウは唇を真一文字に結んだまま、ふんぞり返っている。憎たらしい。
徳憲より遥かに仕立ての良い
こんな金持ちの色男が、強制性交等致死罪――旧名・強姦殺人罪――の逮捕状を突き付けられるなんて、つくづく反吐が出る。
「
「……なら、一言だけ語らせていただきますが」声色も爽やかで格好良い貝原。「今、僕の顧問弁護士がこちらへ向かっている最中です。それまでは何も話しません」
「ぐぬぬ」
徳憲は苦虫を噛み潰した。
そうなのだ。この美形紳士は、顧問弁護士なんてものを雇っている。
こいつが涼しげに座って居られる理由。
実に面倒臭い。経験豊富な徳憲だからこそ、このパターンは芳しくないと直感した。
「粘っても無駄ですよ、貝原さん! あなたの体液と頭髪が、現場に残っていたんですからね! だから逮捕状を取れたんです!」
「…………」
「犯行当夜、
「…………」
「あなたの職業は医者、それも学会で一目置かれる新進気鋭の精神科医だとか。頭脳だけでなく容姿にも恵まれ、言い寄る女性も数知れず」
「…………」
「これほどの優良物件、女遊びも派手になる。百戦錬磨なあなたのことだ、仮に女性関係で揉めても、美貌と財力で揉み消せたんでしょうが――さすがに殺人は駄目ですよ」
「…………」
「岸根志乃さんは、病院に勤める医療事務担当でしたね。院内の若い女性へ手当たり次第に唾を付けていたようですが、そんな黒い噂を知った岸根さんは、あなたを生まれて初めて拒絶した女性だった。病院の裏庭で振られた場面が、職員に目撃されています」
「…………」
「あなたはプライドが傷付き、何が何でも彼女をモノにしようとアパートへ押しかけ、強引に
「失礼します! それは憶測と決め付けが過ぎますぞ、刑事さん!」
「――!?」
取調室の扉が開け放たれ、警官に案内されて来た一人の老紳士が大声を出した。
一糸乱れぬスーツの胸には、弁護士バッジが輝いている。
ついに来た――顧問弁護士だ。
張りのある声は年齢を感じさせない。それだけで周囲を彼の空気に呑み込む威厳が
「刑事さん、容疑者が黙っているのを良いことに、言いたい放題とは感心しませんな」
弁護士は入口の外から、徳憲をじろりと見据えた。
取調室内に部外者は立ち入れないが、尋問を一時中断することは出来る。貝原は徳憲に一言申し入れ、弁護士の元へ駆け寄った。
「助かりました、自白を強要される所だったんです」
「最悪ですな! 警察の仕立てた『事件のストーリー』を容疑者に押し付け、無理やり白状させようとする手口……
「全くその通り」
「何度も『ストーリー』を言い聞かされるうち、容疑者はやってもいない虚構を刷り込まれ、洗脳され、自供してしまう前例は多々あります。これは『フォールス・メモリー』という現象で、今なお世界中で濡れ衣が発生しています」
フォールス・メモリー?
徳憲は室内で首を傾げた。これだから弁護士は厄介だ。小難しい専門用語で偉そうに立ち居振る舞う。無論、そうした冤罪の事例があることは、徳憲も知ってはいたが。
弁護士から入れ知恵された貝原が、改めて取調室に戻って来た。徳憲は渋面で問いただす。
「状況的にも、物的証拠もそろっているんですよ。ガイシャの膣内から検出された精液は、間違いなく貝原さんのDNAでした。ガイシャ宅に遺留した頭髪も、衣服の繊維だって」
「僕はやっていません」
貝原は堂々と突っぱねる。弁護士のおかげか、ずいぶんと強気だ。
徳憲は目をすがめた。
「
「うまいこと言ったつもりですか? 僕はそろそろ女遊びを清算し、身を固めるつもりでした。彼女のアパートを訪ねたのは真剣に婚約を申し込むためで、彼女も最後は受け入れたんですよ! 僕の真摯な説得に折れたんです。だからそのまま、一夜を共に過ごしました。結婚が前提なので、避妊もしませんでした」
「和姦だったと言うんですか?」
「はい」
「じゃあなんで殺したんですか?」
「殺していません。僕が帰ったあとに殺されたんですよ。真犯人は別に居ます」
「そんな与太話が通用するとでも――」
「通じますよ。現場に僕の遺留物があってもつじつまは合いますから。僕が帰ったあとに別の真犯人が来たと考えるのが自然です」
「ご都合すぎます。今後、ますます証拠が出て来ますよ、現在も鑑定中の物があって――」
「鑑定中? つまり未確定な物があるにも関わらず逮捕したと? 警察の勇み足で逮捕状を取ったと自らおっしゃるんですね? 警察の傲慢さが垣間見えますよ」
「うぐ」
貝原は揚げ足取りがうまい。言葉による駆け引きを知っている。
つい口が滑った徳憲も失策だが、DNA鑑定が一致しただけで逮捕状を請求したのは事実だから、何も言い返せなかった。
けれども、徳憲はめげない。警察にも切り札がある。
「そうやって居られるのも今のうちですよ。そちらが弁護士を呼んだように、警察側にも助っ人が来る手筈ですから」
「助っ人?」
貝原の表情が曇った。
ようやく一矢報いた徳憲は、マルヨウの吠え面をまぶたの裏に焼き付けておく。
「本件は、科捜研にも協力を要請していましたからね!」
「カソーケン?」
「そうです! 貝原さんのDNA鑑定も、そこの研究員に分析してもらったんです。さらに現場への臨場要請もして、念入りに切り札の準備を整えました」
「準備とは?」
「ポリグラフ検査、ですよ」溜めてから言い放つ徳憲。「犯人の真偽をあぶり出すために開発された最先端科学の結晶! 専用の心理学者が執行する『ウソ発見器』です」
ウソ発見器。
徳憲が言い終えた途端、再び取調室の扉が開かれた。
蒸し暑い室内へ、わずかな風が入り込む。
「やっほー忠志くーん、ポリグラフの用意が出来たわよー!」
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