うちの心理係は腹黒い!

織田崇滉

第一幕 うちの心理係は腹黒い

1――ポリグラフの踏襲(前)


   1.




 東京郊外・実ヶ丘みのりがおか市のアパートから火の手が上がり、隣人が消防署へ通報した。

 駆け付けた消防が速やかに鎮火した所、火災の発生した一〇三号室に住む岸根きしね志乃しの(二八)が遺体で発見された。

 岸根志乃は衣服に乱れがあり、左胸を刃物のようなものでえぐられた痕跡も見られた。


 遺体からは男性のものとおぼしき体液が検出されたため、警察は強制性交等致死罪および殺人罪と見て捜査を進めている。


 また、出火原因は人為的な放火の可能性が高く、犯人が証拠隠滅のために岸根志乃の部屋を燃やしたと思われる。

 だが、集合住宅という立地上、隣人たちにボヤを早期発見され、逆に事件発覚が早まるという皮肉な結果となった。




   *




「あなたが岸根志乃さんを強姦レイプし、刃物で刺し殺したんでしょう?」


 密閉された取調室は、うだるように暑い。

 8月の陽気はますます容赦を知らず、ヒートアイランドの名をほしいままにしている。ましてやパイプ椅子とスチールテーブルしかない殺風景な取調室には、扇風機すら見当たらない。

 省エネ反対、とつくづく考えながら、この席に臨んだ捜査官は、喉をらして尋問を続けた。クールビズという名目のワイシャツを第二ボタンまで外し、必死に空気を取り入れる。汗がしとど流れて鬱陶しい。とにかく水が飲みたい。


 なのに、どんなに言葉を連ねても、容疑者マルヨウは口を割ろうとしないのだ。

 必然的に警察側だけが、自供を引き出すべくあれこれ喋り倒さねばならず、余計に喉が渇き、声がかすれ、滑舌も鈍った。


 名は徳憲とくのり忠志ただし


 階級は警部補で、今回の事件ヤマの捜査主任も引き受けている。キャリアでもない三十路みそじが警部補まで出世できた例は少ない。現場の叩き上げでこつこつポイントを重ねた賜物だ。

 ここ実ヶ丘署で最多の検挙記録数を誇り、この年齢で結婚はおろか恋人も作らず、寝ても覚めても捜査に明け暮れた仕事一筋の実直さが、彼を構成する全てだった。


「あなたは明後日に検察へ送られますが、その前に確認したいんですよ」


 取り調べも彼が行なっている。他は制服警官が記録係としてノートに尋問を記述しているが、会話には口を出さない。徳憲しか喋っておらず、さぞかし退屈な記録だろう。

 対座したマルヨウは唇を真一文字に結んだまま、ふんぞり返っている。憎たらしい。

 徳憲より遥かに仕立ての良い紳士服スーツを着こなし、この暑いのにネクタイもゆるめない。豊かな黒髪を真ん中で分け、知的なシルバーフレームの眼鏡が蛍光灯を照り返し、高い鼻梁と鋭角な顎はいかにも美男子だ。上背も高く、徳憲は上目遣いで話しかける構図だった。

 こんな金持ちの色男が、強制性交等致死罪――旧名・強姦殺人罪――の逮捕状を突き付けられるなんて、つくづく反吐が出る。


貝原かいばら惷作しゅんさくさん」マルヨウの名を呼ぶ徳憲。「黙っていても、話が進みませんよ?」

「……なら、一言だけ語らせていただきますが」声色も爽やかで格好良い貝原。「今、僕の顧問弁護士がこちらへ向かっている最中です。それまでは何も話しません」

「ぐぬぬ」


 徳憲は苦虫を噛み潰した。

 そうなのだ。この美形紳士は、顧問弁護士なんてものを雇っている。

 こいつが涼しげに座って居られる理由。

 実に面倒臭い。経験豊富な徳憲だからこそ、このパターンは芳しくないと直感した。


「粘っても無駄ですよ、貝原さん! あなたの体液と頭髪が、現場に残っていたんですからね! だから逮捕状を取れたんです!」

「…………」

「犯行当夜、被害者ガイシャ宅を訪れたあなたの車が目撃されています。朝方に出て行く姿も!」

「…………」

「あなたの職業は医者、それも学会で一目置かれる新進気鋭の精神科医だとか。頭脳だけでなく容姿にも恵まれ、言い寄る女性も数知れず」

「…………」

「これほどの優良物件、女遊びも派手になる。百戦錬磨なあなたのことだ、仮に女性関係で揉めても、美貌と財力で揉み消せたんでしょうが――さすがに殺人は駄目ですよ」

「…………」

「岸根志乃さんは、病院に勤める医療事務担当でしたね。院内の若い女性へ手当たり次第に唾を付けていたようですが、そんな黒い噂を知った岸根さんは、あなたを生まれて初めて拒絶した女性だった。病院の裏庭で振られた場面が、職員に目撃されています」

「…………」

「あなたはプライドが傷付き、何が何でも彼女をモノにしようとアパートへ押しかけ、強引に手籠てごめにし、それでも気が収まらず、怒りのまま殺した――」




「失礼します! それは憶測と決め付けが過ぎますぞ、刑事さん!」




「――!?」


 取調室の扉が開け放たれ、警官に案内されて来た一人の老紳士が大声を出した。

 一糸乱れぬスーツの胸には、弁護士バッジが輝いている。


 ついに来た――顧問弁護士だ。


 張りのある声は年齢を感じさせない。それだけで周囲を彼の空気に呑み込む威厳がうかがえる。頭に白髪は一切なく、顔もしわがない。精力的に活動する現役弁護士の証だった。


「刑事さん、容疑者が黙っているのを良いことに、言いたい放題とは感心しませんな」


 弁護士は入口の外から、徳憲をじろりと見据えた。

 取調室内に部外者は立ち入れないが、尋問を一時中断することは出来る。貝原は徳憲に一言申し入れ、弁護士の元へ駆け寄った。


「助かりました、自白を強要される所だったんです」

「最悪ですな! 警察の仕立てた『事件のストーリー』を容疑者に押し付け、無理やり白状させようとする手口……冤罪えんざい事件の典型的パターンですぞ」

「全くその通り」

「何度も『ストーリー』を言い聞かされるうち、容疑者はやってもいない虚構を刷り込まれ、洗脳され、自供してしまう前例は多々あります。これは『フォールス・メモリー』という現象で、今なお世界中で濡れ衣が発生しています」


 フォールス・メモリー?


 徳憲は室内で首を傾げた。これだから弁護士は厄介だ。小難しい専門用語で偉そうに立ち居振る舞う。無論、そうした冤罪の事例があることは、徳憲も知ってはいたが。

 弁護士から入れ知恵された貝原が、改めて取調室に戻って来た。徳憲は渋面で問いただす。


「状況的にも、物的証拠もそろっているんですよ。ガイシャの膣内から検出された精液は、間違いなく貝原さんのDNAでした。ガイシャ宅に遺留した頭髪も、衣服の繊維だって」

「僕はやっていません」


 貝原は堂々と突っぱねる。弁護士のおかげか、ずいぶんと強気だ。

 徳憲は目をすがめた。


否認ひにんするんですか。避妊ひにんはしなかったくせに」

「うまいこと言ったつもりですか? 僕はそろそろ女遊びを清算し、身を固めるつもりでした。彼女のアパートを訪ねたのは真剣に婚約を申し込むためで、彼女も最後は受け入れたんですよ! 僕の真摯な説得に折れたんです。だからそのまま、一夜を共に過ごしました。結婚が前提なので、避妊もしませんでした」

「和姦だったと言うんですか?」

「はい」

「じゃあなんで殺したんですか?」

「殺していません。僕が帰ったあとに殺されたんですよ。真犯人は別に居ます」

「そんな与太話が通用するとでも――」

「通じますよ。現場に僕の遺留物があってもつじつまは合いますから。僕が帰ったあとに別の真犯人が来たと考えるのが自然です」

「ご都合すぎます。今後、ますます証拠が出て来ますよ、現在も鑑定中の物があって――」

「鑑定中? つまり未確定な物があるにも関わらず逮捕したと? 警察の勇み足で逮捕状を取ったと自らおっしゃるんですね? 警察の傲慢さが垣間見えますよ」

「うぐ」


 貝原は揚げ足取りがうまい。言葉による駆け引きを知っている。

 つい口が滑った徳憲も失策だが、DNA鑑定が一致しただけで逮捕状を請求したのは事実だから、何も言い返せなかった。

 けれども、徳憲はめげない。警察にも切り札がある。


「そうやって居られるのも今のうちですよ。そちらが弁護士を呼んだように、警察側にも助っ人が来る手筈ですから」

「助っ人?」


 貝原の表情が曇った。

 ようやく一矢報いた徳憲は、マルヨウの吠え面をまぶたの裏に焼き付けておく。


「本件は、科捜研にも協力を要請していましたからね!」

「カソーケン?」

「そうです! 貝原さんのDNA鑑定も、そこの研究員に分析してもらったんです。さらに現場への臨場要請もして、念入りに切り札の準備を整えました」

「準備とは?」

「ポリグラフ検査、ですよ」溜めてから言い放つ徳憲。「犯人の真偽をあぶり出すために開発された最先端科学の結晶! 専用の心理学者が執行する『ウソ発見器』です」


 ウソ発見器。

 徳憲が言い終えた途端、再び取調室の扉が開かれた。

 蒸し暑い室内へ、わずかな風が入り込む。




「やっほー忠志くーん、ポリグラフの用意が出来たわよー!」


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