*知恵を学んだ心

 あの日、私たちはバスに乗ってノームに会いにいきました。


 私は楽しかった。うれしかった。けど、すぐに着くと思っていたのに、バスはなかなかノームの家に着かなかった。コタローは「しょうがないだろ」と顔をしかめたけど、きっと運転が下手なんだと思う。ガズラがいなくなって残念です。


 イトナはしばらくつり革につかまって立っていたけど、バスが揺れるたびふらふらしていたので、ついにコバがすそを引っぱって、怖い顔をして言った。

「見ているだけでこっちが酔いそうだわ」

 それでイトナは大人しくコバのとなりに座ったので私は笑った。


 私はバスのうしろをうかがった。カヤが座って、ぼんやりと窓の外を見ていました。私は立ち上がって、手すりや座席につかまりながらうしろへ歩いていった。イトナが心配そうに私を見たけど、何も示さなかった。


 私はもう、彼を殺したいとは思っていませんでした。彼が苦しんでいたのを、知ってしまったから。私と同じで、愛されなくて苦しんでいたと、わかったから。



 カヤは私に気がつくと驚いて目を広げました。彼女はもともとアリトンだったそうです。私を作った悪魔。けど、彼女はアリトンに見えなかった。言われてみれば似ているかもしれないけど、アリトンはもっと美しかったし、身体もなかったのでいいにおいもくさいにおいもなかった。けど、カヤは血が通っていた。私と同じだった。


 私は何も言わずにカヤのとなりに座った。バスにははじめて乗ったけど、二人がけのイスは並んでおしゃべりするのにはちょうどいいと思った。向かい合っていないから、相手の顔も見えない。外をながめながら話すのは楽だと思えた。


「あなたは本当にアリトンなの?」

 私は訊いた。彼女はどきどきしているように見えた。そんなふうなのも、アリトンらしくないと思った。

「アリトンだった。だけど、今はカヤとして生きてる。もう、霊者の力は何もない」

 私はうなずいた。

「それなら、私に魂を与えることもできない」

 彼女は私をじっと見て、かすかにほほ笑んだ。

「魂なんて、たいした要素じゃないよ」


 私はカヤを見つめた。気に食わなかった。

「どうして?」

「心の中に、大事なものは全部そろってる。揺れ動く心こそが、神の祝福だから」

 私にはよくわかりませんでした。けど、彼女は言った。

「アリトンは魂を創れなかったし、自分の魂を分け与えることもできなかった」

「霊者だったときでも?」

「もしできたとしても、しなかったと思う。そんなことをすれば、あなたはアリトンの子どもではなく、アリトンの分身になってしまっただろうから。そんなもの、美しくないでしょう」

 私はじっとカヤを見た。初めて、彼女がアリトンだと、心が納得していた。


「魂は元々そなわっているものじゃなく、心が創りだすものなの。そのための知恵を、神は人間と霊者に与えている。パイモンはあなたに知恵を学んでほしくて、本を書けと言ったんだと思う。彼は正しかった。あなたは……もう、魂を持っているんじゃない?」

「私が?」

 私は自分の胸に手を当てた。けど、それは目に見えなかった。大切なものは、目に見えないのかもしれない。

「魂は、知恵があるとできるものなの?」

「大部分は」


 私は驚いていました。魂は、神様が人間に与えてくれるものだと思っていた。けど、たしかに赤ん坊には、心はあるけど魂は感じられない。赤ん坊はまだ何も知らなくて、無垢そのもので、教育次第でなんにでもなれるから。魂というのは、生きていく上でだんだん形作られていくものなのかもしれない。


「私は本を書いたおかげで、魂ができたの?」

 カヤは小さくうなずいた。

「あなたは屈託がなくて、何があっても心を曇らせることがなかった。だけど、本を書くことで客観性を身につけた。あなたはすべてにおいて見違えた。愛を学び、疑いや恐怖や怒りを知った。前はなかったものが、どんどんあなたの心にあらわれてきた。私は……」


 カヤはだんだん小さな声になりました。何か大切なことを告白しようとしていた。

「カエラ。アリトンだったとき……私はあなたが怖かった」

 私は膝の上で手を握った。ふと見ると、カヤの手は私以上に震えていた。


「あまりにも純粋で、美しくて……私なんかがあなたの庇護者でいることに、恐れ多さを感じたの。私では育てられないと思った。いつも逃げ出したかった。あなたは私にとって、まぶしすぎた」

「けど、私はまぶしいはずない。まぶしいのは霊者でしょう?」

「そうかな。私はときどき、人間にまぶしさを見いだしてた。不完全なものに美しさを感じてた。私はあなたがいとおしくて、愛しくて、ちっぽけな自分が怖かったの」

「けど、私が本を書いて、魂を得たなら……私は美しくなくなったんじゃないの?」


 カヤはさみしげに笑った。そして私を見た。

「あなたは美しいよ、カエラ」

「けど、矛盾してる。だってアリトンは、魂を入れたら私が完璧になってしまうから、美しさが損なわれてしまうと言った」

「……そう、そう思ってた」

 彼女は目を伏せた。

「だけど、本当は……あなたの変化と成長を素直に喜べないだけの、馬鹿な親だったの」

 私はカヤの横顔をじっと見て、考えた。矛盾していると思いました。


 アリトンは私が無垢でも怖かったし、私が魂を持ちはじめても、やはり不満だった。私を美しく作ったのに、それがまぶしすぎて困っていた。彼女は私を嫌いだと言ったり、愛していると言ったりした。けど、それはどちらも彼女の真実だった。彼女は意地悪で私を混乱させようとしていたのではない。彼女自身が混乱していた。


 矛盾や混乱は苦しいものです。とりわけ、自分自身の矛盾や混乱は。アリトンは苦しんでいたのだ、と私は思った。


「私は自由になりたいと思ってた。アリトンから自由になって、私として生きたいと思ったの。だから、もう怖がらないでいい。放っといてくれても、私は好きに生きるから」


 彼女は苦しげに笑った。

「でも、あなた……ひとりじゃ何もできないでしょ……」

「そうかな」

 私は首をかしげた。


 確かに、アリトンと比べたら何もできないかもしれない。けど、生きていくくらいなら、私でもできると思った。私にはコバもいるし、イトナもいたから。無理かもしれないけど、不可能ではないと思った。


「きっと平気。たぶん。だから、大丈夫」

 私は言った。カヤはもう笑っていなかった。

「……そう、かもね。そう、だよね」

 彼女はじっと前を見ていました。けど、その目がキラキラ光りはじめたのに私は気づいた。とても美しいと思った。それは涙でした。


 私は彼女を見て、はっと気づいた。彼女の唇には傷がついていた。私が口移しで飲ませようとした毒が、彼女を傷つけたまま治っていなかった。ガズラはカヤを癒していきませんでした。


 私は彼女の手を取った。彼女は悲しげに笑い、私を見た。

「カエラ。お願いだから……幸せになって」

 私はうなずいた。彼女は私にキスをしてこなかった。彼女はもう、悪魔ではなくて人間だから。人間はエロスの愛を抱いた相手としか、舌を入れっこするキスをしないものです。


 私は彼女と抱き合った。彼女はあたたかかった。いい匂いがした。血が通っていた。それは私と同じだった。私たちは手をつないで、バスがエデンの境界を超えるまで、ずっとそうしていた。



 バスが停まり、コタローが立ち上がった。

「境界だ」

 私は、はるか遠くまで続く柵が、トーキョーを囲っているのを見た。バスはその門をくぐったところだった。コバが手を組み、祈りをささげた。


 私はまだ、誰にも祈ったことがない。けど、もしかしたら、ノームに祈れば彼は聞き届けてくれるかもしれない。ここからなら、彼は私の声に気づいてくれるかもしれない。けど、私は祈り方を知らなかった。


 バスのドアを叩く人がいました。コバがはっと目をあげた。イトナがドアを開けて、うやうやしく一歩下がった。知らない男の人だった。鼻が高くて、コバに似ている。背は低くて、コタローより少し高いくらい。それほど美しいとは思わなかったので、人間かと思った。けど、コバが頭を下げたので、天使だとわかった。


「スメル」

 コバが言った。カヤが私のとなりで身じろぎしました。それで私は尋ねた。

「友達?」

「……知り合いだった。でも、いつも可憐な女の姿をとっていたから、気づかなかったよ」

「仕事用の姿なのかな」

「たぶん」


 スメルという名の天使は私たちのひそひそ話が聞こえていたはずだけど、あまり興味を示さなかった。彼は無愛想な顔でコバを見た。

「コバ、よかった。すぐに探さなければいけないと思っていたところだ」

「ノームが復活したのですか」

 私とカヤは、強く手を握り合っていた。スメルは眉をひそめた。

「いや、逆だ。遺体が消えた。今、他の霊者も集まって、ことの解明にあたっている」


 カヤのこぶしにかかった力が一気に抜けていきました。わなわなと震える私に、カヤのささやき声が優しくふりかかった。

「こうなると思った」


 私はカヤを見た。カヤはにっこり笑っていた。それは、意地悪な笑いでもなければ、あきらめきった笑いでもなかった。コバとコタローは、どういうことかとスメルに詰め寄っていたけど、カヤは「大丈夫」と私に言った。


「彼は生きている」

「どうしてそう思うの」

「私がここにこうして、生きているから」

 私はしばらくカヤを見つめ、やがてうなずきました。カヤの言う通りだと思った。神様は正しい。愛がある。死を願った悪魔を人間としてよみがえらせてくれたのなら、死を願った天使も、きっと他の形で生き長らえさせてくれる。


 けど、不安も感じていた。彼が別の形で生きていたとしたら、私は彼に会えるかどうかわからなかった。彼が私を覚えているかわからない。カヤがアリトンだったことを忘れていたように。


 カヤは両手でそっと私の手を包み、言った。

「カエラ。あなたは本当に、ノームに会いたかった?」

「もちろん会いたかった。私はノームが好きだから」

「ううん、ちゃんと自分の気持ちに忠実に答えて。どんな状況でも、あなたはノームに会いたかったの? もしもノームがあなたに会いたくなかったとしても、無理にでも会いたかったの?」


 不安になった。そんな場合までは考えていなかった。そうだとしたら、それでも私はノームに会いたいと思うかどうか。よくわからなくなった。

「本当に会いたいというのは、相手の気持ちを無視してでも会いたいという意味だよ。あなたは本当に、ノームと一緒にいたかった? 彼が拒んでも、ずっとそばにいたかった? 彼がいやがっても、手を握り続けていたかった?」


 私は首をふった。それで気づいた。私はノームに会いたいわけではなかった。彼が無事なら、生きているなら、それだけでいいと思った。彼が幸せなら、いいと思った。それだけで、私はうれしいから。


「会いたかったわけじゃない」

 私は言った。悲しくて涙が出てきたけど、それが本当の気持ちだった。

「すごくすごく会いたいけど、会えなくてもいい。彼が生きていれば、幸せなら、それでいい」

 彼女は悲しそうにほほ笑んで、うなずいた。

「私もそう」


 彼女は顔を上げてスメルたちのやり取りを見つめました。私は気づいた。彼女はみんなの話なんて聞いていなかった。カヤは、じっとコタローを見つめていたのです。



 コバはスメルにカヤのことを話しました。天使はカヤがアリトンだったと聞いて、少し興味深げにじろじろ見たけど「とりあえず、他の天使に意見を聞こう」と言って目をそらした。カヤはかすかに笑っていた。どうして笑っているのと聞いたら、彼女は答えた。

「相変わらず、愛のない天使だと思ってね」

 それは悪いことなのと聞いたら、カヤは少し考えて首をふりました。

「それでも、あいつは誰よりも神の法に重きを置いてる。尊敬すべきところはちゃんとあるよ」


 そのあと、バスはスメルが運転することになった。イトナはバスを降りようとした。コバが立ち上がって、彼を引き止めた。

「おれはエデンに戻れない」

 コバは彼の手話を理解できなかった。それでコタローが彼女に訳した。するとコバは怒りだしました。

「あなたはカエラの世話役なんでしょう? 自分でそう言ったじゃない。逃げるの?」


 私は首をすくめてイトナから目をそらした。コバがこっちを見たのがわかったけど、私は何も言えなかった。コタローが「ケンカでもしたのか?」と言った。誰も何も言いませんでした。カヤが私の手を握って、私は力をもらった気がした。カヤは霊者じゃなくて人間だけど、たしかに私に力をくれたと思った。


「カエラ。あなたはどうしたいの」

 コバが言った。私はそっとイトナを見た。彼は私と目が合うと、気まずそうにした。けど、決して目をそらさなかった。きちんと見ていないと、彼は私の声が聞こえない。彼はじっと私の言葉を待っていた。


「……乗って、イトナ」

 私は言った。彼は驚いていた。コバがぱちんと手を叩きました。

「ほら、さっさとして。これ以上カエラを泣かせたら承知しないわよ」

 私はちょっとだけ笑った。コバの言葉がうれしかった。私を大切に思ってくれているとわかる言葉だったから。



 スメルの運転するバスは、コタローが運転するよりもずっと快適に走り出した。コタローは私たちのふたつ前の席に座りました。彼は窓の外を興味深げにチラチラ見ていたけど、本当は私たちが気になって仕方ないのだとわかった。コバは通路をはさんでコタローのとなりに座った。イトナはぐずぐずとバスの入り口近くに立っていた。


 みんな、私を気にしていた。ノームがいなくなったことで私が動揺しているんじゃないかと、みんなが心配しているみたいだった。とうとうイトナがバスのステップを上がって、私たちの前の席に膝をつけ、手話で示した。


「大丈夫か」

 カヤが笑った。

「うしろを向いてたら酔うよ、イトナ」

 するとイトナは通路をはさんだとなりに座り直して、横を向いてもう一度示した。

「大丈夫か、カエラ」

「大丈夫」

 私は言った。そしてイトナに笑いかけた。

「私にはイトナがいるから」

 イトナはつらそうな顔でカヤを見た。カヤは私の手を少し握り直した。

「本当にいいの、カエラ」

「うん。私はイトナが好きだから」

 私は言った。心からそう思えた。


 さっき、ノームに会いたいかどうかを聞かれたとき、私は自分の本当の気持ちがわからなかった。私は彼を愛しているのであって、会いたいのは二の次だったことに、自分で気づかなかった。それで、イトナについてもちゃんと考えなくてはいけないと思った。


 私はちゃんと考えてみた。イトナが嫌いなのかどうか、本当の気持ちを考えてみた。そうしたら、気づいた。私はイトナが好きだった。イトナが好きだから、彼の気持ちがアリトンに向いていることが悲しかった。イトナが好きだから、彼に無理やりセックスされて悲しくてたまらなかった。


 私は彼が好きだった。彼を愛していると思った。


 イトナだって心を持っている。心はいつも、揺れ動いています。だからきっと、イトナも私を愛してくれるはずだと思えた。ガズラが、愛はいくつでも持てるのだと言っていたから。それならいつか、イトナも私を愛してくれるかもしれない。


 イトナは私に「ごめん」と示した。それから「カエラ」と示した。私は名前を呼ばれたのでその続きを待ったけど、しばらくしてもイトナは何も示さなかった。それで気づいた。イトナは「カエラ」ではなく、「愛している」と手話で示したのだと。


 心が晴れやかになって、胸がいっぱいになって、立ち上がってイトナを抱きしめました。イトナは窓に頭を打ち付けた。前に座っていたコタローがにやにやして「あぶねーなー」と野次を飛ばした。私は幸せでした。ぎゅっとイトナを抱きしめた。彼のあばら骨が折れるんじゃないかと思うくらい、ぎゅっとした。


 どうして今まで気づかなかったのかわからなかった。私はちゃんと、イトナを愛していた。アリトンは「愛じゃない」と言ったけど、私はちゃんと最初から愛を持っていたと思う。


 私はイトナにキスをした。本当にうれしかったので、今までで一番強烈なキスをしたけど、うしろから引っぱられて中断しなくてはいけなかった。不思議に思ってふり返ると、真っ赤な顔をしたコタローと、苦笑いしたカヤと、不機嫌な顔をしたコバが私とイトナをひきはがしていた。


「そういうことは、誰も見ていない時になさい!」

 コバに怒られて、私は素直にはいと言った。それでイトナを見て、あとでセックスをしようねと言ったら、彼は他の三人をうかがいながら、気まずそうにうなずいた。


 コタローが「そういうのは人前で言うな」と真っ赤になって言った。彼はコバとカヤに向かって「本当に大丈夫かね、こいつがエデンに住んでも」と心配そうに言った。カヤは笑って「平気でしょ」と言った。

「無垢な人間も、少しは毒気を学んだ方がいいんじゃない?」


 私はそこではじめて、トーキョーの家にノートを置いてきてしまったことを思い出した。けど、もうどうでも良かった。きっとパイモンが見つけて読んでくれると思ったから。彼は「文章がひどい」と笑うかもしれないけど、きっと最後まで読んで、大切にとっておいてくれると思う。


 信者のために本を書くのは、またいつでもできます。最初から書き直してもいい。いつだって、何度だって、本は書けるから。



 バスはそれから二時間も走った。目的地に着くと、外からドアが開けられて、頭の剃り上がった天使が入ってきた。イズルはコタローを見てうなずき、それから私と並んで座っているカヤを見た。カヤの手が私の手をぎゅっと握るのがわかりました。彼女は少し震えていた。


 イズルは言った。

「アリトン――か?」

 私はカヤを見た。カヤはイズルをじっと見て、かすかにほほ笑んだ。

「今はちがう」

 するとイズルはゆるんだ笑顔になりました。

「じゃあ、おれが絶交した奴はここにいないな」

 それから私たちを見て「疲れただろう」と言った。

「お茶をいれよう。ハーブティーと日本茶、どっちがいい?」

「コーヒーはないの?」カヤが言った。イズルは肩をすくめて笑った。

「あるとも」


 それから私たちはバスを降りて、イズルのいれたコーヒーをいただきました。すごく苦くて飲めないと思ったけど、イズルは私の分に牛乳と砂糖をたくさん入れてくれた。するとコーヒーはとてもおいしくなりました。


 ノームが住んでいた神社には、エードという厭世家と、たくさんの天使がいました。スメルとイズルは私たちを彼らのただ中に案内して、一人一人に証言させた。私たちはアリトンのこと、ノームのこと、ガズラのことを天使たちに話した。最後にはカヤが話をした。


 彼らはカヤがアリトンだったことをあまり信じていないみたいだった。カヤが少しずつ霊者だったことを忘れていて、アリトンが知っていた秘密について何も話せなかったから。しかし、イズルは彼女がアリトンだと信じたみたいだった。それで天使たちは納得した。不本意そうな天使もいたけど、結局は納得した。


 彼らはノームの死因が他者ではなく本人の意思にあったと認めた。霊者を殺す方法はなくて、ただ神様に殺してもらうしかなかったという結論を認めた。


 カヤは彼らに、ノームが今もどこかで生きているとは言わなかった。そんなことを言えば、パイモンのような悪魔が彼を探して、からかうかもしれないから。ノームは今度こそ幸せになるべきだから、彼女は彼が生きていることを誰にも言わなかった。それは、私とカヤだけが知っていた。



 それから一週間はノームの家で過ごした。ノームの担当していた厭世家のエードは、とても優しい女の人です。彼女は眼鏡をかけていて、小柄で、髪が短くて、そばかすだらけで、とてもかわいい。私やイトナのために、ベッドや着替えを用意してくれた。彼女はノームが大好きで、それは私と同じでした。私は彼女と夜遅くまでノームの話をした。そしてときどき、二人で一緒に涙を流した。


 エードはもう、厭世家の仕事はしていないと言った。ノームの死について少しずつ明らかになったので、ふたたび家族のもとへ帰るつもりだと言った。私がさみしいと言ったら、彼女はいつでも遊びにきてと言った。私は必ず行くと約束しました。



 話すことがなくなると、天使たちは自分の担当地区へ戻っていった。もう誰も、これ以上聞きたいことはなさそうだった。私たちは自由にしていいと言われた。


 私とイトナはどこへ行けばいいかわかりませんでした。するとコバはスメルに相談した。スメルは私たち二人に、ぴったりの素敵な家があると教えてくれた。彼はとてもめんどうくさそうだった。彼はコバがいないときに、こっそり教えてくれた。


「おまえたちのために一番いいのを教えろと脅迫されたんだ。まったく貧乏くじだよ。あんなおっかない人間を担当するはめになるなんて」

 どうしてスメルがそんなふうに言うのかわかりません。コバは優しくて、いい人なのに。


 私はコバも一緒に住もうと言ったけど、彼女は首をふりました。

「私は子どもたちに会いにいかなくては」

 私もコバの子どもたちに会ってみたかったけど、コバに断わられた。彼女は記憶を失っているので、子どもたちとは初対面だそうです。それに、イトナは子どもたちと会わないほうがいい、と彼女は言った。イトナは重くうなずいた。


 けど、いつか会え、とコバは付け足した。今は会わないほうがいいけど、いつかきっと会いに来い、とコバは言った。彼女は怖い顔をしていました。それでイトナはうなずいた。私はうれしかった。コバに会いに行けることが決まったから。


 コタローとカヤは、天使たちに証言した一週間のあいだ、何度か二人で話し合っていました。ときどき、イズルと三人で話した。二人は寒い夜に外に出て、ベンチに腰かけた。何を話していたかはわからない。けど、私は声をかけることができなかった。私が見ているかぎりでは、二人はキスのひとつもしていませんでした。


 けど、彼らは最後の日、私たちにお別れを言って、二人で同じ車に乗り込んだ。どこへ行くの、と聞いたら、カヤはにっこり笑って言った。

「どこか、エデンの外に」

 私はびっくりした。


「迷子に戻るの?」

 するとカヤは笑った。

「信者に戻ったつもりもないよ」

「けど、迷子はあと22年で、滅ぼされるのに」

 カヤはほほ笑んで、私の手を握った。彼女は言った。

「利益のために信仰心を持つつもりはない」

 私はうなずいた。彼女がもともと悪魔だったのを思い出した。それなら仕方ないとも思った。悪魔は神様が嫌いだから。そういうものだから。


 コタローは私と握手をしてくれました。それからイトナにも手話で語りかけた。イトナはありがとうと手話で示した。彼らはお礼をいい合い、それからあやまり合った。変だと思いました。あやまり合ってから、お礼をいい合えばいいのに。そうしたら、楽しいままでお別れできるのに。


 コタローが運転席に座りました。カヤは私たちに手をふった。私はイトナと手をつないで、遠ざかる車を見つめた。いつまでもいつまでも、そうしていました。それが、私が二人を見た最後です。



 私とイトナは一緒に暮らしはじめた。


 森の中にある家は、ちょうどいい広さがあって、開放的で、そばには素敵な散歩道があって、少し歩けば中央の施設があって、とても便利でさみしくない。スメルは最高の場所を教えてくれました。そして、エデンの園そのものが最高であることもわかった。


 昔コタローが言っていた話は全部本当でした。周りに住む人も、ときどき来てくれる天使も、みんな信じられないくらい、いい人たちで、愛があって、誰も働いていなかった。


 イトナは引き続き、パソコンで仕事を続けていた。働かなくてもいいのに、変だと思った。けど、みんな、仕事をしているイトナを尊敬していた。耳が聞こえなくても、誰もイトナに殴りかかったりしませんでした。それでイトナはステッキを持ち歩かなくなった。


 私は近所の人たちに料理や裁縫を教えてもらいました。それでイトナのために何度か作ってみたけど、何度も焦がしたり針で指を突き刺してしまったので、とうとうイトナにも他の信者たちにも、代わりにやってあげると言われてしまった。


 私は本を書くことにした。するとみんなは喜んで読んでくれました。イトナは、あまりセックスの話を書くなと言ったので、それ以外を書いた。それから、手話を教えた。みんな優しくていい人たちなので、一生懸命覚えてくれた。私は人の役に立っていた。うれしくて、誇らしかった。


 誰ひとり、文句も嫌みも言わないので、ここはすごいと思った。信者たちはみんな、悩みながらも一生懸命で、迷いながらも愛のある生活を送ろうとしていた。彼らは必ずしも完璧ではなかったけど、幸せになろうとしていた。だから、彼らは幸せでした。


 彼らは私たちに、祈りなさいとは言わなかった。私は前にノームから教えてもらった方法を実践しようと思った。私が幸せでさえいれば、神様はうれしくなる。それだけでいいと、彼は言った。それなら、私にもできる。今もどこかでノームが幸せにしているのなら、こんなにうれしいことはありません。


 私は寝る前に、必ず考え事をする。ノームとイトナとガズラとコタローとコバとカヤとエードを思います。それから、私に書くことをすすめてくれたパイモンや、たくさんの迷子や悪魔や信者のことを思います。


 彼らが幸せならいい。きっと幸せでいてください。毎日そう思っている。祈ったことはないけど、私はかまわなかった。そこには愛があったから。


 私はこれが幸せだと思った。

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