◎きっかけの彼
「カヤ? なにを言ってるんだ?」
コタローが不可解な顔で言った。
そうよね。わからない。私にも、なにがなんだか、さっぱりわからない。
「おまえが……アリトン?」
私は震える手で頭をそっとかき抱いた。まるで夢の残滓だ。ひとつひとつ、正確に思い出そうとするほど、もろく崩れ落ちて、あとは何もなくなる。だけど、時おり夢の欠けらをつかむことができる。ぼやけた形がよみがえる。色が。言葉が。愛が。
部屋の人間の目が自分に注がれている。帰ってきたばかりのガズラ。痛みにうめくカエラと、それを支えるコバ。放心するイトナ。私のそばにしゃがみ込むコタロー。
涙を落とした。
私の名前はカヤ。そう信じていた。あの神社の鳥居をくぐった時から。だけど本当は、カヤの人生はあの瞬間からはじまっていた。感情も記憶もすべて、脳みそに上から書き換えられた人生にすぎなくて。家族も、恋人も、夢も、すべてが用意された偽りにすぎなくて。あのとき抱いた強烈な違和感は、私が人間になったこと、そのものの違和感だった。だけどもちろん、その人生は薄っぺらの無価値なハリボテで。
パイモンが私という異質な存在に気づいたのは当然だ。私はそれまで、人間ですらなかった。
「……アリトン?」
泣きじゃくるカエラが、私を見ている。嫌悪と裏切りの目で。いや、ちがう。裏切ったのは私だった。彼女の愛を受け取らなかったのは、私だった。
「……カエラ」
息を吐く。心拍が上がっている。口に広がる痛みは舌を痙攣させ、言葉がうまく出てこない。頭が熱を持ち、発汗している。
これが人間か。
笑える。なんて重くてめんどうくさい身体だろう。なんて居心地が良くて、安心できる容れ物だろう。私はどうして……人間になったのだっけ?
「これがどういうことなのか、誰か説明してくれる?」
コバが戸惑いながら言った。
「わけが分からないわ。アリトンというのは、この家に住む悪魔じゃなかった?」
「そう。そしてノームを殺した」
カエラの言葉に、コバとイトナがぎょっとしたように身をすくめる。
「私は……殺していない」
「うそだ! アリトンが殺した!」
カエラが叫んだ。
「アリトンはうそつきだ。みんなをだまして、信者のふりをした。ノームをだまして、彼を殺した。彼が邪魔だったから。ひどい。ノームは何も悪くないのに。悪いのはアリトンなのに、どうしてこんなことになるの?」
コバがカエラの肩を押さえた。
「カエラ、落ち着いて――」
「アリトンが、死ねば良かった!」
「そうだね」
コバとイトナが私を見つめ、カエラはふーふーと猫みたいにうなっていた。私はぼんやりと笑った。
「私は――人間だから。殺そうと思えば、いつでも殺せる。カエラ。簡単だよ」
「うそだ」
コタローがかすれた声で言った。
「霊者が人間になるなんて、ありえない。これはきっと――」
「あら、前例ならあるわ」
コバがするどい声で言った。
「『ヨセフの祈り』よ。知らないの?」
「ええと……ごめん。おれ、正典以外は詳しくないから……」
「ユダヤの伝承よ。天使ウリエルが人間として暮らしたという記述があるわ。悪魔ではなく、天使がね。霊者も人間になることがあると示唆する言葉よ」
記憶がぽろぽろとこぼれ落ちていく。
ああ、もどかしい。
ああ、くやしい。
コタローは……結局、私を愛していると言ってくれたのだっけ? どうしても思い出せない。カエラにさよならを言って、そのあとコタローに……ちがう。そのあと、イトナに会いに行ったんだった。イトナを見た。彼と交わした、最後の言葉をゆらゆらと思い出した。
「おれじゃ、だめか」
彼はそう示した。泣きそうな顔で、くやしそうな顔で、彼はアリトンの手を握り、涙を見せずに震えていた。どう声をかけてやればいいのかわからなくて、彼の手を握り返した。決して叶わない恋の苦しみを、まざまざと思い知った。
どうせだったら、彼を愛せれば良かったのに。間違いなく私を愛してくれる、イトナを愛せれば……こんなに苦しむことはなかったのに。
「おまえは本当に……アリトン、なのか」
コタローが言った。震える目で、震える声で、私を見て、私に問いかけた。
ああ、思い出せない。
私は、アリトンは、コタローに愛してもらえたのだっけ?
彼が迷子になったと知ったとき、どんなにうれしかったか。それでも、私は彼を地下室に追いやった。諦めさせなければいけないと思ったから。ノームに、神に、殺されてしまうと思ったから。
でも――彼は私を愛したのだろうか。
わからない。ただ、神に疑問を抱いただけかもしれない。迷子になったから、私を頼って来ただけだったのかもしれない。
彼の心が知りたい。
彼の愛はどこにあったのか。
それは今――カヤに向いている?
だけど、カヤというのは。本当に、私なの?
「答えろよ、カヤ!」
現実に引き戻された。顔を上げると、全員が息をつめて私を見ていた。知りたがっている。ここにいる私が、本当は誰なのかを。
「私は――」
「そいつはアリトンじゃないよ」
ひょうきんな声がして、その場にいた誰もがはっとして顔を上げた。ガズラがにこにこしながら、細い目をほんの少し開けて、私を見おろしていた。
記憶がにごる。
ガズラ。こいつは、どんな男だっけ。
ひやりとした。
思い出せない。いや、そうじゃない。はじめから知らなかったんだ。どのタイミングであらわれ、どういういきさつでこの家にいることになったのか――私は何も知らなかった。アリトンなのに、知らない。知らないことに、気がつきもしなかった。不思議にも思わなかった。ただの一度も。
ガズラ。
この男は、誰?
「その女はアリトンじゃない。ただの人間。カヤという名の、弱い人間でしょ」
ガズラはけたけた笑ってドアを閉めると、のんきな顔でテーブルに腰かけ、にこっと笑った。
「だけどやっぱり、おんなじ人を好きになっちゃったね、アリトン」
ぞっとした。
「あなたは……」
「うん」
それだけで、わかった。
ガズラはカエラを招き寄せた。顔をゆがめて私をにらんでいたカエラは、魔法にかかったようだった。目をしばたいてコバの手から離れ、ガズラのとなりに座って首をかしげる。ガズラが太い手をカエラの頬に当てると、はっとしてのどを押さえた。
「痛くない」
「そう? 良かった」
彼はにこにこ笑った。カエラが驚いてガズラを見つめる。
「すごい。けど、どうして治せたの? ガズラは霊者なの?」
「そんなわけないじゃん」
そう、そんなわけがない。
彼はそんなものではない。
動物よりも、上の存在。
人間よりも、上の存在。
霊者よりも、上の存在。
その唯一無二の存在が、にこにこと人間たちを見おろしている。
コバはその場に膝をつき、目を伏せた。イトナはこぶしを握りしめ、じっとガズラを見つめた。コタローは首をふってその場にへたり込んだ。私は涙を落とした。そっと笑って、はあ、と息をついた。彼に会うのは、いつぶりだろうと考えた。だけど本当は知っていた。彼はいつでも、私たちの身近にいる。どんなときも、そばに。
「……何が楽しくて、こんなことを……」
「君ら霊者だって、時間つぶしに、いろいろやって楽しんでたじゃん?」
太った男は悪気なく笑った。
「でもおれ、今回は手を出さなかったよ。まあ、コタローたちが人質を取る道を一本ずらしたけど。カヤとコタローが出会ったらどうなるか、興味があってさ」
記憶が、形を取り戻していく。
そう、私はノームを殺すつもりなんてなかった。ただ、降りるつもりだったのだ。霊者でいることから。神の秘密を保持することから。疲れていた。死ぬつもりだった。それで、彼に手紙を書いた。親愛なるノームへ。
霊者の死に方は知っていた。たったひとつの、霊者を殺す方法。簡単な方法だ。誰でも知っている。私はそれを自分に使うつもりだった。信頼できる誰かに秘密をあずけて、ひっそりと死に逝くつもりだった。絶対に悪魔にならず、秘密を守り抜けると信用できる霊者にたくして。
なのに、私はいつのまにか人間になっていた。霊者としての記憶をなくし、27歳の無垢な信者として、ノームに手紙を渡していた。
ノームは気づいただろうか。私がアリトンだと。彼は手紙の内容に目を疑ったはずだ。されるはずのなかった、秘密の暴露。口に出せないほどおそろしい秘密を、手紙にしたためた。彼はアリトンの本気を知っただろう。愛がなくなったのを知っただろう。神の秘密を守らなかったことを知って、自分がそれに加担してしまったことを知って、絶望した。
「ノームは、死を願ったのね」
ぽたぽたと、涙が落ちた。私はまっすぐ、彼を見つめた。
「うん」
彼は答えた。
「心からの祈りだった。応えないわけにはいかないよ。ノームはだれよりも愛にあふれた、正しい者だったから」
こくりとうなずいた。そう。霊者を殺す方法は、ちゃんと存在する。神に殺してもらう。それがたったひとつの方法だ。
「でも、アリトンの祈りは聞き入れられなかった」
彼は肩をすくめた。
「すごく自分本位な、勝手な祈りだったし。別に叶えてやらなくてもいいかなって。だけど苦しんでるみたいだったから、人間にしてやったよ。どうだった? 愛は見つけられたかな」
そっとコタローを見た。なくしたと思っていた、愛する心。本当は、誰を愛してもいいはずだった。恋に落ちれば、私の心は他の誰を愛してもおかしくなかった。なら、アリトンが愛し、カヤがふたたび愛したこの愛は……いったい、なんなの。
「カエラ」
私はカエラを見つめた。彼女はとなりの男が誰なのか、まだよくわかっていない。
「ごめんなさい」
震えをおさえるために、手の平を爪でえぐった。
「私は……それでも、あなたを作ったことを、悔やんでいない」
カエラは眉をひそめ、彼の腕に半分かくれて首をふった。
「アリトンなんて、死ねばいい」
「カエラ……」
「ノームは死んでしまったんでしょ」
「それは……」
「ノームはアリトンが好きだったのに。アリトンが、コタローを好きになっちゃったから。だから、死んだんでしょ」
「カエラ、それはちがうよ」
彼は首をかしげて言った。
「コタローを好きになったから、ノームを愛さなくなったんじゃない。人間も霊者も、愛はいくらでも持ってたんだ。でないと、一人しか愛せないことになっちゃうけど、そうじゃないだろ? おれはカエラが好きだよ。アリトンもイトナもコタローもコバも好きだよ。天使も悪魔も人間も動物も、ぜーんぶおれの宝物なんだ。そりゃ、みんなを同じだけ愛してるわけじゃないけど。でも、何かを愛したからって、他の『好き』が薄まったりはしない。心が薄まったりしないのと同じだよ」
カエラは少し考え、ガズラを見上げた。
「じゃあ……ノームは、どうして私を愛さなかったの……?」
「ノームはちゃんとカエラのことも愛していたよ」
ガズラはにっこり笑った。
「あいつはみんなをおなじだけ愛していたんだ。だけどカエラ、エロスの愛はタイミングが肝心なんだ。もしもアリトンより先にカエラに会っていたら、ノームは間違いなくカエラを愛していた。ノームは誰でも愛せたけど、節操があったから、エロスは一人にしか抱かなかったんだ。だから、誰も悪くないんだよ、カエラ」
ガズラはイトナを見て「だから苦しくても、受け入れなくちゃいけない」と笑った。イトナはうつむいて歯を食いしばった。
ガズラはなんでも知っている。彼はなんでもわかっている。物事の本質をすべて。
カエラは悲しげにガズラを見つめた。今にも泣き出してしまいそうだった。そんな彼女は、相変わらず美しくて……罪深かった。
「ごめんなさい、カエラ」
かすれた声で言った。カエラにこっちを向いてほしい。彼女を愛していた。どうしてこんなにもいとおしいのだろう。わからない。親だから? ちがう、子どもを愛せない親はいる。無責任に作ってしまった、同情と罪悪感から? たしかにはじまりはそこだった。でも、わからない。私にはやっぱり、わからない。
愛って、なに。
その抽象的な概念は、いったいなんなの。
顔をおおった。涙が出た。言うことをきかない、人間の身体。勝手に涙があふれるし、勝手に気持ちが高揚してくるし、重くて使いづらくて、最悪だ。だけどこれが、人間だと思えた。カエラと同じ。
「許して、カエラ」
しゃくり上げながら、私は言った。醜いと思った。好き勝手に苦しめておきながら、こんなことしか言えないなんて。だけど、もう限界だった。もう、愛する人を傷つけたくない。憎みあいたくない。ただ、楽しく生きていたいだけなのに。天使だった、あの頃みたいに。楽しく、無邪気に、みんなで仲良くしていたいだけなのに。
コタローが私の背に手を当てた。コバが私にハンカチを差し出した。
ああ、私。
カエラに、こっちを向いてほしい。
「……お願いです……」
しゃくり上げながら、つっかえつっかえ言った。もう、これしかなかった。これしか、カエラに許してもらえる方法を思いつかなかった。
「ノームを……復活させてあげられないでしょうか……」
「うーん」
カエラが太った腕をとり、キラキラ光る目で彼を見つめる。
「ノームを生き返らせるの? ノームはまた、この世で生きるの?」
「人間だって、復活させてくださった」
私は言った。彼は首をかしげた。
「人間は、すぐ死ぬもん」
「私のことは、四度もよみがえらせてくださいました」
コバが敬虔に口をはさんだ。彼が笑う。
「うん、コバが最多ね」
「私の命と引き換えでもいい。いえ、そうしてください」
「それは無理だよ。おれはカエラの味方だから」
カエラが顔を曇らせて「どういうこと?」と訊いた。そうか、と思った。カエラの心は私の心。カエラが死ねばその心は私に戻るけれど、私が先に死ねば、彼女も死に至る。こんな簡単なことに気づかなかった。だからアリトンは殺されなかったのだ。殺されず、人間として、カヤとして、生まれ変わった。
私は唇を引き結んだ。
「それほどカエラが大事なら……どうか、ノームを」
「でも、ノームは死を願ったんだよ、カヤ」
ガズラはちょっと笑って言った。
「人間はよく死を望む。けどさ、霊者が本当に死にたがるのって、例がないんだ。アリトンやパイモンが願うよりも、ずっと強い想いだったんだよ。だから聞き届けたんだ。だからすべてをなくしてやったんだ。アリトン、知ってるだろ。死はすべての終わりじゃないよ」
びくりと身体が震えた。それは、私と彼だけの秘密。
手をだらりと下げ、放心して床を見つめた。
無駄なのか。もう、無理なのか。
私がノームを死に至らしめたのか。
この手で。
永遠に。
コタローが私を見た。バスジャック犯みたいな顔で。
「あきらめるのか?」
答えられなかった。
怖い。
私の前には……「彼」がいる。
「おまえはアリトンなんだろ」
怒りと呆れた響きを持つ、のんきな声。
「そんなんで、よくも悪魔になれたもんだ」
「……は」
軽い笑い声がもれた。まさか、ペット役に選んだ人間に、鼓舞されるなんて。
立ち上がり、テーブルに座るガズラと目を合わせる。カエラは私の愛娘。彼女に愛されたい。コタローよりも誰よりも。カエラ。あなたを誰より、愛してる。そして、ノームは。ただ一人の父親役だった、私の夫は。カエラの愛する男だ。
「父よ。どうか、よみがえらせてくださいませんか」
こぶしを固く握りしめすぎて、手の平から血がにじんでいた。
「ノームは正しい者だった。ここにいる誰よりも、あなたを愛していた。あなたは息子を愛していないのですか」
「おれはみんなを愛してるよ」
彼はにっこり笑った。
「だけど、悪魔の言葉はきかない。一度サタンにはめられたしね」
「悪魔じゃありません。放蕩息子です」
「勝手に言ってら」
「カエラ。あなたもノームが生きていてほしいでしょう?」
カエラはうなずいた。そして彼を見つめた。
「ガズラ、できるの? ノームを生き返らせることができる?」
「ああ、もう。カエラに言わせるなんて卑怯だよ」
彼はため息をつき、首をふった。
「お願いです」
私は言った。ひざをつき、彼を見上げて、祈った。
イトナとコタローが頭を下げた。コバは手を組み、私とともに祈りはじめた。カエラは不安げに私たちを見おろして、彼を見やった。彼女にも、ようやく彼のなんたるかがわかってきたようだった。けれど、彼は彼女にとって、畏怖の対象ではなかったらしい。にっこり笑って、その手を取った。
「お願い、ガズラ。ノームを生き返らせて。ガズラは私の味方でしょ?」
彼は目をしばたいた。わざとらしいため息をつき、カエラの髪をなでた。
「孫は可愛いって言うけど」
彼は笑った。
「ほんとに、逆らえないや」
私は少しだけ笑い返した。
「パイモンの子どもにも――他のすべての子どもたちにもその愛をくだされば、私は天使のままでいられたのに」
「それはどうかな、アリトン。君はたぶん、結局おれから離れてったと思うよ」
彼はさびしげに言った。
「ま、おれは気分屋だからね」
彼はコタローに笑いかけた。
「人間らしい、いい神様だろ?」
彼はカエラの頬にキスをして、じゃあね、と手をあげた。まばたきをする間に、彼は消えていた。そこには太った男がいた形跡はなく、彼が話した言葉も心に響くのみで、その顔かたちさえ誰の記憶にも残らなかった。
「運転手がいなくなっちゃったね」
がらんとした部屋に、鈴のような声が響いた。一同はしばらく放心状態でそこにたたずんでいた。コタローがひざに手をついて立ち上がり、猟銃をかついで言った。
「おれが運転する」
「コタロー、運転できるの?」
「当たり前だろ。何年生きてると思ってんだ」
「えっと、千年?」
「改めて言うと、すごい数字だよな」
コタローは笑った。私をつかんで、引っぱりおこす。
「行こう」
私は目を伏せた。コタローをまともに見ることができない。コタローは二の足を踏んだあと、背を向けて外に出ていった。まだ傷だらけのはずなのに。「彼」に会ったことで、アドレナリンが出ているんだろうか。
カエラを見た。それからイトナを。彼らは不安げに目をそらし、コタローのあとを追った。心にひびが入ったようなさみしさを覚えた。コバが私の肩に手を乗せた。
「行きましょう、カヤ」
日本語で「行きましょう」は「生きましょう」にも聞こえるな。ぼんやりと思った。そういえば、パイモンが言っていたな。「カヤ」には「生きる」という意味があるって。まるで、死にかけた魂に与えられた激励の言葉だ。
コバに笑いかけ、外に出た。
すべてのきっかけになったバスは、家の裏に隠してあった。コタローがぶつぶつ言いながら運転席に座る。そのとなりにカエラが立って、けらけら笑った。
「本当に運転できる? コタロー」
「うるさいな、大丈夫だって。四トンだって乗り回したことあんだから」
となりに立っていたイトナが「たったの五分だ」と手話で示した。カエラがまたしても笑う。コタローが真っ赤になって「なんで知ってんだよ、イトナ!」と叫んだ。
ああ、そうか。
これだよ。
私がずっとほしかったのは……ずっと見たかったのは、これ。
『私』って、でも、どっちだろう。アリトンだろうか。カヤだろうか。
今の私は……どちら?
「さっさと行くわよ。ノームが復活したことを確認しなければ」
コバが私のうしろからバスに乗り込み、ドアを閉めようと格闘しはじめた。手を貸してやって、なんとか閉まる。
「ありがとう」
コバはにこりと笑った。裏のない、愛のある笑顔。そうだよね。ノームが選んだ人間だもの。この人だって、善い人なんだ。
カエラは運転席のはす向かいに座って笑っていた。イトナは彼女のすぐそばに立った。コバはバスの真ん中に座って手すりを握りしめ、酔いはしないかと戦々恐々としている。私はうしろから二列目に腰かけた。
バスが動き出す。道路を走り出すと、迷子たちが声をかけてくる。
「よお、カエラ!」
「イトナー、おい、こっち見ろー」
「あれ、コタローじゃんか。元気か?」
彼らは迷子。だけど、生きている。ちゃんと自分の人生を、楽しんでいる。そこに悔いはない。悩むことはあっても、きっと生きていける。一日に一回でもいい。笑いさえすれば。日常さえあれば。
「やあ、カヤちゃん」
ぞくりと悪寒が走った。髪のうしろから、ふっと息を吹きかけられる。息なんかしていないくせに。
「こんにちは、パイモン」
ふりむかずに答えてやった。押し殺した笑い声が響く。まだバスの中の誰も、彼に気づいていない。
「記憶が戻ったようで、なにより」
「何もかも戻ったわけじゃないけどね」
まだ記憶のいくつかはぼんやりしていて、思い出はかすれている。彼は笑った。
「当たり前だろ、カヤちゃん。君はもう、脳みそを持った人間なんだ。覚えておける量は決まってる。こまごましたことは忘れちまうし、感情は時間とともに薄れていく。誰かへの強烈な愛情も、胸の張り裂けそうな悲しみも、時間が溶かしてしまうんだ。だけど忘れるっていうのは、才能でもあるんだぜ」
「そうだったね」
私は笑った。
「いつかまた、神の前に立つ日が来たら」
パイモンは言った。
「おまえの話をしておくよ」
「なんて言うつもり?」
「秘密を託す相手をお間違えになったんじゃないですか? ってさ。あまりにも適役すぎて、これっぽっちも秘密を暴けませんでしたと、文句を言うつもりだよ」
笑ってしまった。パイモンがさみしそうな声で、ぽつりと言った。
「……もう本当に人間なんだな、アリトン」
「そうだよ。三日も過ごして、よく知ってるでしょ」
「……じゃあ、秘密も、もうぬぐい去られちまったんだな」
どこか、ほうけたような、淡々とした声。
「神の殺し方を……おまえは知っていたんだな」
私はほほ笑み、「さあ」と言った。だってそうでしょう。霊者でもないこの私が、神の秘密を持っているわけがない。神はそれを取りあげられた。これで私は、たしかに一人の人間になった。もうアリトンじゃない。私は、カヤだ。
話しかける声が続かなくなって、私はふり返った。誰も座っていなかった。バスの轟音の中、かすかに笑って、ささやいた。
「さよなら」
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