★悪魔の誘惑
アリトンが地下室から出ると、たいていカエラが待ちかまえていた。
彼女はいつでもにこにことうれしそうに笑う。それを見ると、アリトンはいつも、うれしそうに笑う親友を思い出した。そして同時に、過去の、打ち捨てたはずの自分を思い出し、ときどき吐き気におそわれた。
「コタローは元気だった?」
「ええ。今日はわりと」
「アリトンも元気そう」
「私はいつも元気よ」
「コタローと会ったあとのアリトンは、私とセックスしているときよりうれしそう」
アリトンはカエラをはたと見つめた。
「そんなことないと思うけど」
「私にはそう見えるよ」
カエラはにっこり笑った。そして彼女に抱きつき、「ねえ、セックスしよう」と甘えた声を出した。
ときどき、トーキョーを探しまわるイズルが、困り果てた顔でアリトンを訪ねた。
「なんでもいい。コタローの情報はないか」
アリトンは首をかしげ、「さあ」とうそぶいた。
「厭世家の役割に嫌気がさして、逃げてしまったんじゃないかしら?」
「引退の制度はできている。あいつは突然いなくなったんだ。もう三年だぞ」
「あの子は私が嫌いだったからねえ。何も知らないわ」
アリトンは秘密の悪魔だ。知らないふりや、ごまかすすべは、他の霊者よりよっぽどうまいと自負している。イズルは首をふり「そうだよな、すまん」と謝って、他の土地を探しに去った。アリトンはにんまり笑ってドアを閉め、今日も地下室におりていった。
コタローはずいぶんと素直になった。聞かれたことには答え、ゲームをしましょうと提案したら、囲碁を指定した。
「渋い趣味ね」
アリトンは笑いながらコタローと碁を打った。たいていアリトンが勝ったが、ときどきコタローが粘り勝ちをした。育ての親が教えてくれたの? と聞くと、首をふった。
「信者仲間のおじさんが教えてくれた」
育ててくれた親と、彼らの娘である妹。学校の友達、クリスチャンの仲間、仕事の同僚、妻と子どもたちのコミュニティ。コタローにはたくさんの知り合いと友人がいた。そして彼らは、一人残らず滅ぼされた。
「神を恨むことはある?」
アリトンの質問に、コタローは一瞬あいだを置いて、いつも首をふる。
「預言はあった」
「正しき道は、せまくけわしい」
アリトンはにこっと笑った。
「私もその道は歩けなかったわ」
コタローが上目遣いにアリトンを見た。それはこれまでのどんな目ともちがった。驚き? 憐れみ? 同情? 不愉快だった。人間にそんな目を向けられるほど、落ちぶれてはいない。
「14万4千人を選んだのはノームだけど。それは知ってるわよね?」
アリトンは話をそらした。
「ノームのことは、恨んでる?」
「……ノームは、あんたと結婚してるんだろ」
アリトンは舌打ちした。イズルめ、あの天使。秘密を守るということができないのか。いや、これは別に、秘密でもなんでもない。それでも天使と悪魔が結婚しているなんて、普通は隠すものではないのか。
「私はあなたが生まれるずっと前から離縁を申告しているんだけど、向こうが受理しないのよ」
アリトンは自分の黒石をコタローの一番困るところにぱちんと置いた。コタローは目をしばたいた。
「ノームが受理しない理由がわからないな。天使は、正しいから天使じゃないのか」
「あら、悪魔と仲良くすることがすでに悪なの?」
アリトンは笑った。
「それは正義の味方とは言えないわ。悪の敵と言うのが正しい。本当の正義は相手が誰であろうとその場その時の行為を前にして『正しいか否か』を判断するものだわ。イズルは正義の味方よ、間違いなく。神は悪の敵。ノームは、そうね。愛の使者だわ」
「おまえは?」
アリトンは肩をすくめた。
「自分にふたつ名を与える場合は、たいてい間違うもの」
「おまえは秘密の悪魔だとイズルが言ってた」
コタローが白石を置く。アリトンは唇を噛んだ。
「その手があったか」
「おれ、わりと強かったんだ」
コタローがかすかに笑った。アリトンはそれを見て、ぎょっとした。
遠くから見かけたことはある。迷子たちと語り合い、イトナに手話を教え、ガズラと冗談を言い合う。そんなときに、かいま見たことはある。しかし、その笑顔が自分に向けられたのは、はじめてだった。
急に立ち上がったので、ドレスが引っかかって盤がひっくり返り、床に碁石がざっと転がった。
「おい、いきなり――」
「今日の遊びはおしまい」
アリトンはきびすを返し、地下室を出た。ぼう然とするコタローを残し、カツカツと階段を上がっていく。居間に出るドアの前で、ひとつ息をついた。
――美しかった。
ノームが愛をささやいたとき。同じ愛を、同じ美しさを、確かに彼女は感じた。アリトンは首をふり、外に出た。カエラがにっこり笑って、彼女を出迎えた。
ときどき、アリトンはノームに会いに行った。彼が訪ねに来て、カエラの存在に気づかないように。
「やあ、アリトン。来てくれてうれしいよ」
ノームの家は山の麓、かつての神社だった。ハルマゲドン前、七年に一度行われた大祭では、毎回死人が出ることで有名だった。今ではもちろん、執り行われることはない。異教の祭事はすべて悪魔の文化とみなされ、「ハルマゲドン前の人間はこんなことを大真面目にやっていたんだよ。馬鹿みたいだね」とにこやかに語り合うために存在しているにすぎない。
神のしるしだって、見方を変えればおおいに馬鹿馬鹿しいというのに。滑稽で、アリトンは見ていられない。
「ノーム、こんにちは」
アリトンはにこやかに言ってから、彼のうしろにいる、眼鏡の女にも声をかけた。
「エード、こんにちは」
ノームの担当する厭世家は彼女を知らなかった。ノームと仲のいい天使の一人くらいに思っていて、いつも礼儀正しくあいさつを返した。
「なんだかどんくさそうな子ね。なんで眼鏡なんてかけてるの? エデンではみんな完璧なんでしょう?」
「度は入っていないよ。母親の形見だそうだ。壊れるたび、申し訳なさそうな顔をして私のところへ持ってくる。それでいつも、直してやるんだ」
アリトンは冷たくエードを見た。彼女は信者を導き、ともに神への祈りを捧げていた。彼らの信仰は否定できないほどまっすぐで、愛があふれ、歓びに満ちていた。
「あの子はあなたが母親を滅びから救わなかったこと、知らないの?」
「もちろん知っているよ」
ノームは少し悲しげに笑った。アリトンは笑った。
「残念だわ。あの子の信仰をぐらつかせたかったのに」
ノームは近くの温泉に行ってみないかとアリトンを誘った。
「顔を見に来ただけよ」
「少しくらいいいだろう。昔みたいに」
アリトンに手を差し伸べるノームは、美しかった。恋する相手を狂わせる、愛に満ちあふれた優しさ。
前のアリトンなら、差し出された手を思わず握り返していただろう。しかし、カエラに心を与えてしまった彼女は、冷たく笑った。
「離縁を受ける心づもりが固まったら、いつでも言ってちょうだい」
ノームは悲しげにアリトンを見つめ、ほんの少し手を下ろした。
「アリトン。私は待っているよ。君が悔い改めてくれるのを」
「私も待ってるわ。あなたが諦めてくれるのを」
アリトンはこれ以上魅力的にはできないほどにっこりと笑って、そこを離れた。
八ヶ岳を超えるとき、彼女はいつも、澄み渡る青い空をながめ、ときどきそのてっぺんに腰かけて、宇宙にばらまかれた幾億千の星をながめた。地球と宇宙と神を感じた。そしていつも、逃げるように家へ帰った。
囲碁を打ちながら、コタローは目をあげずに言った。
「どうしてカエラを作った?」
アリトンは石を三つほど片手でもてあそびながら頬杖をつき、しばし考えた。
「カエラ? あの子は私の傑作よ。美しいでしょう?」
「おまえの心が半分入ってんだろ」
「そうよ。かわいい我が子だわ」
コタローは不可解な目でアリトンを見た。久しぶりに見る、反抗的な目つきだ。素直になって久しいから、このあたりでもう一度、アリトンに疑問を持ってくれる頃合いだと思っていた。そうでなくては、はり合いがなくてつまらない。
「自分の心を入れた人形なら、分身じゃないのか? なんで我が子と呼べるのか、おれにはさっぱりわからない」
「人間の目に神は理解できないもの。霊者の考えもあんたには理解できないのよ」
にこにこしながら石を置く。コタローはすぐに次を置いた。
「おれはそう思わない。おまえもイズルも、人間くさく感じる」
――怒ってやったほうがいいのか、それとも意味ありげにほほ笑んでみせてやろうか。アリトンはそのどちらもとらなかった。ポーカーフェイスで、コタローが次の言葉を垂れ流すのを待った。
「霊者も神も、人間くさく感じるから――おまえが本当に悪いから悪魔なのか、最近わからなくなってきた」
「あれだけひどい目にあったのに?」
アリトンはポーカーフェイスを崩して笑った。コタローはむっつりとうなずいた。
「おれはおまえを怒らせた。おまえはカエラを愛していたのに。今では、自業自得だったと反省してる」
「日本人のお得意ね、反省は。ハルマゲドンを生き残った日本人は全部で何人だったっけ?」
「話をそらすなよ。そういうとこでも、おまえを人間くさく感じるんだけどさ」
アリトンはため息をついた。
「困ったわ。私、人間と一対一で話し合うのって、慣れてないの」
「イトナがいるだろ」
「あの子とは密室空間で二人きりにはならないし、会話した時間だって、合わせても24時間もないわ」
パイモンくらいの変態なら、いくらでも人間と顔を突き合わせていられるだろう。しかし、アリトンは疲れてしまう。見下している相手とずっと語り合い、向こうが自分と同格のように話すのを、これ以上我慢していられるだろうか。
「おれが言いたいのは――拷問は、最初の一年だけだった。おまえがおれを傷つけなくなって、三年経ってる。つまり……おまえは別に、苦しめるのが楽しくて、おれを監禁してるわけじゃないらしいってことだ」
「それを楽しむ悪魔もいるわ」
「悪魔の全部がいい奴だと思ってるわけじゃない」
コタローは自分の石を置いた。アリトンは不機嫌に盤を見おろす。
「善と悪の二元論を否定するの? やっぱり日本人はどこか仏教的ね。中道こそが目指すべき道?」
「イズルは、その考え方も気に入ってる」
「神の考えとはちがうわ」
「悪魔のくせに、神の考え方を遵守するのか?」
ぎろりとコタローをにらんだ。その迫真に相手はぎくりとし、笑ってごまかした。
「話をそらすなよ。おまえの番だ」
アリトンはため息をついた。
気づいてはいたのだ、自分の矛盾に。ただ、それを人間に指摘されるのが不愉快だった。
「霊者は、人間と決定的にちがうところがある」
「身体がないところだろ」
「神と会ったことがあるところ」
コタローの顔から、ゆっくりと笑みが消えた。
「人間は決して見たことがない。だから神を信じるしかない。『信じる』というのは、『本当にいるかどうかわからない』という状況があってこそ、成立する言葉よ。火や風の存在を『信じる』とは言わないでしょう? 人間は、うすうす神がいないと『知っている』。だけど、私たちは神がいることを否応無しに『知っている』のよ。悪魔は、人間がうらやましい。信仰心を持ちたくなければ、神の存在自体を否定すればいい人間が、うらやましくて仕方ない」
アリトンは碁石を置いた。コタローは盤を見ず、じっとアリトンを見つめていた。
「神が絶対だと知っている霊者に向かって、神を簡単に否定できる人間の言葉は刃だわ。私に少しでも理解を示すなら、その辺はそっとしておいてくれないかしら?」
「おまえの知ってる『秘密』とやらも、その辺に関わってるかもしれないもんな」
コタローが言うと、アリトンはうんざりして首をふった。
「そういうやりとりは霊者たちと何万回もくり返したわ。秘密のヒントをひきだそうと、あの手この手でかまをかける。やめて。あんたにはそういうのを求めてないの」
「じゃあ、何を求めてる?」
「え?」
「おれに何を求めてるんだよ」
とっさに、アリトンは答えられなかった。なぜかその質問が、急に痛みをともなったのだ。コタローを見た。まっすぐな、突き刺すような目。人相は悪いけれど、どこか優しげで……美しい、黒い瞳。
アリトンは手で口をおおった。
――美しい?
コタローが?
――馬鹿な。
アリトンが好きなのは、金色の髪と青い瞳。だからこそ彼女はその姿をとり続けていたし、自分の愛した者にも自然とその姿を求めた。ノームもパイモンもそう。カエラの瞳は光の加減で、青にも灰にも金にもなる。珍しく美しい、完璧な虹色の瞳だ。なのに、黒髪に、黒い瞳? 世界で一番ありふれた、黒?
これまで惹かれたことすらない。なのに美しいと感じているなら、それはただの……愛ではないか。
アリトンは気づいた。自分は。コタローを、愛しているのだ。
「おい、答えろよ」
コタローが顔をしかめ、もう一度言った。
「おまえは人をいたぶって喜んでるわけじゃなかったんだろ。じゃあ、おれに何を求めてる?」
アリトンはゆっくりと立ち上がった。動揺と戸惑い。しかし、冷静さもあった。彼女は霊者だ。動悸や体温の上昇に心を乱されることはない。彼女は自分の感情をコントロールできる。しかし、心をコントロールするのはまた別の話だ。
「捨てたはずなのに」
彼女は呟いた。コタローが「はあ?」と首をかしげる。捨てたはずなのに。カエラに流し込んだはずなのに……なぜ、まだ他者を愛してしまえたのか?
理由はわかりきっている。心は混ざり合っていて、愛する心をすっかり移し替えることはできなかった。アリトンの愛はまだ残っていたのだ。取りこぼした心が、コタローを愛した。
なんで、よりによって。
人間。
「おい」
はっとしてコタローを見た。自分を見つめる黒い瞳は、アリトンを同情的に見上げていた。まさか。そんなはずはない。コタローのほうでも、アリトンを好意的に思っている可能性など……ない。
アリトンはきびすを返した。
コタローの声を背中で聞きながら、逃げるようにそこから離れた。
「なんだか面白そうなことになってんな」
次に会ったとき、パイモンはにやつきながらそう言った。彼女はびくりと霊体をふるわせ、そういえばと顔をしかめた。
「えげつない悪魔。他者の心をのぞくなんて」
「おや、見られて困るならベールで隠せよ。おまえの心にかかったベールはいつもがっちり秘密を覆い隠してるから、そっちがズレるのを期待するね」
「ふん。そこまでするほど隠したいことでもないわ。どーぞ、見て笑いなさいよ」
アリトンはベッドに倒れ伏して投げやりに言った。パイモンの根城のひとつに来ていた。彼はいくつか根城を持っていて、その無人島もそのひとつだった。いつものように裸を重ね合ったあと、パイモンはアリトンの心をのぞき込んで笑ったのだ。
窓から海がのぞめた。真っ暗な夜の海に、金色と桃色の光が雲間から差し込んで島に朝を迎えいれた。藍色の空を鳥のシルエットが浮かび、うすい雲に影の筋をつけていく。
「笑いやしないさ。おめでとー、そしてこちらの世界へようこそー、ってとこだな」
「なによ、こちらの世界って」
顔をしかめてパイモンをにらむ。
「人間と愛し合う世界だよ。どうせあと、25年で死んじゃうんだぜ? やり残したことはやっとけよ」
「やり残していると思ったこともなかったわ、そんなの」
アリトンはうつぶせになったまま足をばたばたさせ、力つきたように脱力した。
「なんで愛してしまったか、わからないの」
「ふうん?」
からかうような声がふってくる。
「だって、相手は人間よ? 知識もない。尊敬もできない。全然タイプじゃない」
「おまえはなんでもかんでも、理由がないと気が済まないのか?」
「そうじゃないけど……」
アリトンはうなり声をあげて頭をかきむしった。笑い声がして、パイモンがちょんとアリトンをつつく。シーツに顔を伏せていたアリトンはふいと頭を上げて、待ちかまえていたパイモンにキスされた。
「ほら、わかる?」
「なにが」
「キスはいきなりされるんだ。恋もいきなりはじまっちゃうんだよ。そして愛となり、エロスとなり、死が二人を分かつんだ」
パイモンは吟遊詩人のように目を閉じて恍惚の表情を浮かべ、にやっと笑った。
「たいていは三年で恋愛期間は終わるけどね」
「知識の悪魔の見地からしても、三年で終わるのね」
「正確には四年。人間の場合だけどさ。あいつらには脳みそがあるから、感情と心が身体に支配されてるんだよ。それでもときどき、長持ちするカップルもあるけどね」
「あなたとサラみたいに」
「そういうこと」
パイモンはにっこり笑った。アリトンは唇を結んで目を落とした。
「どうせ死ぬとわかっているのに……愛し合って、なんになったの」
「意味なんかはじめからないんだよ、アリトン」
パイモンは笑った。彼女の髪で頬をくすぐり、その横に寝転がった。
「知識にも、秘密にも、いずれ死ぬなら意味なんかないはずだ。それでも、少しでも後世に残れば、産み落としたのとおんなじさ。おれたち霊者にできる出産って、そういうもんじゃないかな?」
「また、わけのわかんないこと言ってるわ」
「なあ、アリトン。おれたちはもうすぐ死ぬんだ」
パイモンはうれしそうに笑った。
「正直楽しみだよ。ほんとに。だっておれ、死だけは知らなかったんだ。死ぬとき、おれは神も知らない瞬間を知る。おれ、たぶん笑いながら死ぬぜ」
アリトンは息を吐いた。パイモンはにやっと笑い、彼女のなめらかな背中をなでた。
「その瞬間に、おまえの秘密を教えてくれよ」
「教えない」
アリトンは答えた。
「その瞬間に話したりしたら、あなたきっと、がっかりするもの」
それは秘密に触れるヒントだった。これまで決して触れることのなかったそれを、はじめて彼の前で言ったのだ。そのことにパイモンはすぐさま気づいた。うれしそうに笑い、アリトンにキスをした。お互いをからめとるようなキスを。
「愛してるよ、アリトン」
「私も愛してるわ」
「おれは何番目だろうね」
「さあ」
くすくす笑って、パイモンはアリトンの目をじっとのぞき込んだ。
「だけど、一番ならわかるぜ」
「なんて意地の悪い悪魔かしらね」
パイモンは笑った。
「妬いちゃうね。コタロー君か。いつか会ったら、うんと意地悪してやらなきゃ」
しかし彼女は、パイモンのようにあっけらかんと人間を愛することはできなかった。地下室には足を運んだ。しかし、コタローが笑みを投げかけるたび、自分の心にうごめく愛を無視できず、五分でその場を離れてしまうことも多くなった。
彼女は地下室に行くのをぱったりやめた。二年も。
もしもアリトンが人間であれば、その期間でなんとかなったかもしれない。恋愛という脳内麻薬の分泌がおさまるのを待ち、ふたたび何食わぬ顔でコタローと相対できていたかもしれない。しかし、彼女は霊者で、コタローは人間だった。
コタローに会わないのはただの逃げだ、とアリトンは自覚した。二年後、ふたたびアリトンは地下室に降りた。
コタローは何も変わらない顔でアリトンに笑いかけた。その空白を、彼は話題にもしなかった。コタローと話す。それだけで、アリトンの心は愛を感じた。その愛がエロスだということも、否応なく感じとった。そして、それを必死に隠した。
不機嫌そうに地下室から出てくるアリトンを、カエラは不思議がった。しかし、怖がりはしなかった。カエラはアリトンを信頼しきっている。揺れ動く心しか持ち合わせない、魂のないカエラ。純粋無垢で、天真爛漫。神を心から愛していた、昔のアリトンのように。そんな愛娘から、アリトンはときどき、気づかれないようにそっと目をそらした。
アリトンが地下室に降りるようになって、一年近く経った頃。地下室に入って少し話したのち、立ち上がったアリトンの手をコタローがつかんだ。
「……なに?」
身体がないことを感謝した。人間だったら、女だったら。あらゆる部分が意思と裏腹に、反応を起こしていただろうから。
コタローは顔をしかめ、じっとアリトンを見て、言った。
「このまま千年王国がおわるまで、おれはここにいるのか」
アリトンはこぶしを握りしめた。目をそらし、言った。
「そうね、そうしましょうか」
「おまえはそれでいいのか」
「私は天使じゃないのよ? 善い心は持っていないの。あんたは何に訴えかけているのかしら?」
「おれは信じない。おまえは……悪いから、悪魔ってわけじゃないと思う」
「……は」
乾いた笑い声がもれた。
「あなたはそうやって、なんでも善い方向へ持っていけるのね」
ほほ笑みながら、アリトンはコタローに目を向けた。その黒い瞳を、じっと見た。
「虐待を受けた人間は、子どもへの接し方がわからなくて虐待をくり返すことがある。でも、あなたは子どもたちを立派に育てた。『親の愛』としか神を説明できなかった育ての親にも反抗せず、14万4千人に選ばれるほどの信仰心を持った。愛する妹も、周りの人間もすべて死に絶え、自分ひとりが生き残ってしまったのに、操を立てて厭世家の職務をこなした。自分を拷問した悪魔にさえ、善いところを見つけようとして笑いかけるまでに成長した」
アリトンは笑った。
「冗談みたいに愛のある善人。素晴らしい。立派だわ。私には無理ね。霊者なのに、あなたがまぶしい。私は滅ぼされるべき存在で、あなたは永遠を享受してしかるべきだわ」
「……なにが言いたい」
「私のような者があなたに何を言ったところで、退けられるしかない。どんな言葉を投げたって、あなたは悪魔になびかない。私が人間で、あなたが霊者だったら良かったのに。みんなが、あなたのように生きられれば……私なんて、いらなかったのに」
コタローは眉をひそめた。
「おまえが何を考えているのか、おれにはさっぱり――」
アリトンはコタローの襟首をつかみ、引き寄せてキスをした。コタローがぎょっとして凍りつく。
彼女はしばらくそうしていた。コタローが逃げ出す気配はなかった。やがてそれ自体が苦しくなって、彼女は離れ、ほほ笑んだ。
「私が何を言ってみたところで……悪魔の誘惑でしょう?」
コタローは放心し、何も言わなかった。アリトンは手を離し、ドアを開けて立ち止まった。
「鍵は開けておく」
アリトンは言った。
「出て行って。そして二度と戻らないで。イズルのところで、神に祈りなさい」
アリトンは目を伏せた。自分を笑った。愛する人のため、身を引くのか。ずいぶん聖人君子らしい、ご立派な行いが、まだできたものだ。
「……待ってくれ」
コタローが戸惑い気味に言うのが聞こえた。いっそ、冗談よ、と笑ってやろうか。アリトンは秘密の悪魔だ。隠すためにうそをつくのは慣れている。
「操を立ててるって……誰が言ったんだ?」
アリトンは顔を上げた。顔をゆがめたコタローが、じっと見ていた。
「なにも言わないで」
悪魔の目でコタローをにらみつけた。どんな小さな希望も、退けたかった。この愛を成就させたいとは思っていない。それがコタローを破滅させることだと、わかっているから。そんなことだけは……できないから。
「あなたはここから出て行く。そして何もなかったことになる」
「……おれは……」
「お願い」
アリトンはそれ以上言わなかった。持てる気力をふりしぼってコタローから目をそらし、そこを出た。
その日の午後、コタローが出て行った。七年ぶりに地下室から出たコタローはふらふらだった。バイクにまたがり、少しためらってから、エンジンを吹かして遠ざかっていった。そうして、アリトンから解放された。
永遠の命を得るために、彼は許された。彼はそれに値する、正しい人だった。悪魔とはちがう。生き残るべき人間だった。
彼女は人知れず泣いた。
愛する人が去り、自分の命の先があまりにも短いことを知って、泣いた。
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