★カエラ
地の底が開かれた日。
悪魔たちは外の世界のまぶしさに目を細めながら、のっそりと這い出した。お互いに笑いあい、肩を叩き、三々五々散らばった。地の底の出口には天使がちらほらと待ちかまえ、それをながめたり、因縁の悪魔に声をかけた。
アリトンは光の中に出てまず、伸びをした。目をこすり、新鮮な空気を胸一杯に吸い込みながら、懐かしい顔を見つけて笑顔になった。
「イズル!」
親友は「よ」と手をあげた。アリトンはその首に抱きついて、あははと笑った。
「うれしいわ。会いに来てくれたのね」
「久しぶりだな」
「あなたが人間の姿をとっているの、そう言えばはじめて見るわ」
アリトンは笑いながら、イズルの頭をつるりとなでた。
「なに、この頭? 丸坊主じゃない」
「かっこいいだろ」
「天使というより仏教徒ね」
「仏教の教えも、なかなか悪くないと思ってるぞ」
「あら、私も好きよ。あの宗教の根本的な考えは『この世に神はいない』からはじまるもの」
イズルはアリトンの腰に手を回して支え、「行こうか」と言った。アリトンは力なく笑った。彼女はそれ以上立っていられないほど、疲弊していたのだ。
「ああ、イズル。このまま二人きりになりたいな」
「そういうことはもうしないと、ずいぶん前に言ったはずだが」
アリトンはイズルの肩に頭を乗せ、ほほ笑んだ。
「そうね」
「おれの地上の家に案内する。おまえら悪魔は――天の国には、戻れないしな」
「そうね、イズル。お願い」
二人は寄り添ったまま、飛んだ。地の底から、遠くへ。
かつて江ノ島と呼ばれた小さな島。イズルの家は、この島の砂浜に建てられていた。守護者の家には異教の宗教遺物がそのまま使われる場合が多く、イズルもはじめは江島神社に居を構えた。しかし「もっと海を感じていたい」という個人的な理由で海岸線に家を建ててしまったという。
その話を聞きながら、アリトンは笑った。他者から決められたことをそのまま受け取らず、常に自分がどうしたいかを問い続ける。イズルはそういう霊者だった。彼が神を信仰するのは、それが絶対神だからではない。神の行動を毎回吟味し、その都度「これは正しい」と判断しているからだ。神が間違っていると思えば反旗を翻すし、そうでなければだまって肯定する。しかし、彼は決して羊のように盲従しない。
「あんたこそ、悪魔向きの自由な霊者なのにね」
アリトンは感想を述べた。イズルは肩をすくめて笑った。
「おれはいつでも、公正でありたいだけさ」
二人はイズルの家に入った。あたたかな空気がアリトンの身を癒し、穏やかな音楽が心地良い。吹き抜けの居間に入ると、薪ストーブに火を足す人間が一人、顔を上げた。茶革のジャケットに、ジーンズをはいた黒髪の日本人。性格の悪そうな顔をゆがめ、さっと立ち上がった。
「紹介しよう。選ばれし14万4千人の一人、コタローだ」
アリトンは目をしばたいた。彼女はハルマゲドンのあと地の底に繋がれ、外界とは切り離されたまま900年を過ごしていた。それで、イズルの家にどうして人間がいるのかわからなかった。
「しかも、日本人なのね」
アリトンは悪魔のくせで、意地の悪い笑みを浮かべた。コタローは顔をしかめたまま、アリトンをにらみつけている。
「日本人は好きよ。独特の宗教観があって。あいまいなものが好きで、絶対神や永遠を理解できないのよね。輪廻の永遠だったら理解できるけど。ああ、それで坊主頭にしたの、イズル?」
「どうして悪魔なんかを守護者の家にあげるんだ、イズル」
コタローはイズルに詰め寄った。イズルはアリトンをソファに腰かけさせると「コタロー、お茶をいれてくれないか」と笑いかけた。コタローは動かなかった。
「悪魔だろ」
アリトンは笑った。威勢のいい人間だと思った。おそらく、自分が悪魔よりもえらいと思っているのだろう。人間の分際で、霊者よりもえらいと勘違いしているのだ。
「ああ、こいつは悪魔だ。名前はアリトン。仲良くしなくてもいいが、とりあえずお茶をいれてくれ」
イズルはアリトンをふり返った。
「玄米茶とジャスミン茶ではどっちがいい?」
「悪魔にいれる茶なんかない」
イズルはため息をつき、立ち上がった。
「アリトンは堕天する前からおれの友だ。そして彼女はこの900年間、味覚とも休息とも無縁の地の底で苦しみ続けてきた。いいから、だまってお茶をいれてくれないか?」
コタローはだまり込んだ。アリトンがコタローに「玄米茶がいいな」と笑いかける。コタローは背を向け、台所に立ってお湯を沸かしはじめた。
「なんとなくわかったわ。14万4千人の担当が、それぞれついて働いているのね」
「そうだ。おれとコタローは900年、なんとかやってる」
アリトンはふふっと笑った。イズルはそれまで、地上に降りたこともなかった。それがいきなり、コンビを組んで人間と働くとなっては、いろいろ苦労もしたのだろう。この数分で、コタローが扱いやすいとはいえない人間だということも、なんとなくわかった。イズルと同じで、我を通すタイプだ。
「霊者と人間が仲良く暮らす。素晴らしいわ。まさに楽園ね」
アリトンはにっこり笑った。それを皮肉と受け取ったのか、コタローはぎろりとアリトンをにらみつけたが、それもまた面白い。地の底では何も感じなかった。痛みと苦しみの他には。
「まだ手つかずの大都市が地上のあちこちに残っている。お前たちはそこに住むといい」
イズルがアリトンのとなりに座って言った。アリトンはイズルの手に自分の手を重ね合わせ、背もたれに身をあずけた。
「ねえ、コタロー。結婚はしてるの?」
返事は来ない。口を結んだまま急須に茶葉を入れるコタローを、アリトンはぼんやりと見つめた。
「じゃあ、ここから近いところに住もうかな。横浜は?」
「いや。そこはぎりぎり、信者たちが住んでる。東京にしろよ。立川から23区にかけては、ほとんど無人だ」
「いやだな、無人だなんて。私も人間と暮らしてみたい。素敵じゃない? 家族を持てたら。私がお母さんで、子どもたちがいて。そうね、三人くらい欲しいな。みんなが私を好いてくれるの。母親って、そういうものでしょう?」
ふん、とコタローが鼻を鳴らした。アリトンはイズルの手にキスをした。
「ねえ、あなたがお父さん役になってよ。いいアイディアだわ。コタローが反抗的な長男ってことにして」
「調子に乗るなよ」
にらみつけてくるコタローに、まあまあ、とイズルが笑った。
「こいつは冗談が好きなんだよ、コタロー。いちいち真に受けたらもたないぞ」
「あら、私は本気だったのに」
「悪いが、お父さん役は引き受けられないな。シングルマザーでがんばってくれ」
アリトンはため息をつき、くすっと笑った。
「しょうがないわね、そうするわ。でも、長男役はまだ募集中よ」
コタローは急須のふたを乱暴に閉め、湯のみをふたつお盆に乗せた。
「おまえは飲まないのか」
「いい」
「あら、キリストだって犯罪者と晩餐をともにしたのに」
コタローは無視してテーブルにお盆を置くと、バルコニーに通じるガラス戸に向かった。壁に立てかけられた猟銃にアリトンは初めて気づいた。コタローがそれを取り、背負う。
「武器はスキとクワにとって変えられたんじゃなかった?」
「おまえら悪魔が地の底から出て来るんだ。厭世家にだけ、解禁になったのさ」
「厭世家?」
「14万4千人のことだ」
「ふうん。不名誉な呼び名がついたものね」
コタローはイズルをにらみつけた。
「見回りに行ってくる」
「おう、お疲れさん」
「おれが帰るまでに、どうかその悪魔を追い出してくれ。不快でならない」
イズルはため息をついた。アリトンはほほ笑み、心配しないで、と優しく言った。
「イズルとセックスしたら、さっさと出て行くから」
「おい、アリトン」
コタローは真っ赤になってこぶしを握り、イズルに怒鳴った。
「マジで、さっさと追い出せよな!」
「わかった、わかったって」
イズルは困りきって手をふった。コタローが行ってしまうと、彼女はイズルをふり返った。
「言わないで、わかったわ。あいつ、童貞でしょう」
「いや、結婚はしていた」
あらそう、とアリトンは口をすぼめた。
「ハルマゲドン前の話だ。子どももいたが……日本人はそもそも、クリスチャンが少なかったからな。終わりの日から生きているのは、片手で数えるくらいだよ」
「それはお気の毒」
ちっとも感情のこもらない声でアリトンは答えた。イズルはため息をついた。
「あいつは操を立ててるんだ。あまりからかってくれるな」
アリトンはにっこり笑った。
「できるだけ気をつけるわ」
アリトンは地上をながめて歩いた。
ハルマゲドンのあと、14万4千人の厭世家には子どもが生まれ、無垢な、温室で育ったような人間が、雑草のようにはびこった。悪魔は彼らに声をかけ、手つかずの都市に境界を引き、エデンの外と呼んで彼らを誘い込んだ。楽園はゆっくりと均衡を崩し、不幸の種を広げはじめた。
アリトンがやりたいことは決まっていた。彼女は出かけて行って、人間の姿をつぶさにながめた。美しい人間はどこか。全体的な美しさには、とりあえず目を向けなかった。何か、ひとつでもいい。人間が必ず持っている美しさ。それをかき集めて、アリトンの理想、美そのものを作ろうと思った。
頭。耳。目玉。髪。身体。腕。脚。肌。
アリトンの個性は秘密。ゼロから何かを創りだす技巧は、アリトンには備わっていなかった。しかし、すでにあるものから少しずつ切り貼りして、オリジナルに昇華させてしまえば同じことだ。終わりの日には、コラージュだって立派に芸術と認められていたのだから。
アリトンはじっくりと時間をかけてそれを作った。美しいものを見つければ、前に用意していたパーツは惜しまず捨てた。予想より素晴らしくなると予感すれば、歓びに打ち震えた。ときどき、悪魔たちに自慢した。彼らは昔のように、友情の延長としてお互いに愛し合った。
トーキョーには迷子が増えた。彼らは非力で、守られることしか知らない無垢な存在だったので、悪魔は誘惑するために彼らに手を貸した。無垢な彼らはアリトンの目に美しく映ったので、彼女は彼らを好もしく思った。
アリトンの作る人形は、彼女の最初の子どもになるはずだった。しかし、アリトンが丁寧にその完成をのばし続けたために、いつの間にか二人の迷子がアリトンの家に住み着いていた。一人は、アリトンに聴力を奪われた厭世家の二世。もう一人は、食欲のおさえられない哀れな男。
「あいつらとも寝てんのか?」
ある日、いつものように秘密を聞き出しに来た知識の悪魔が質問した。二階の寝室がアリトンの作業場だった。彼女はダブルベッドに人形を置き、その左手を優しく包み込んで、指を磨いていた。
「寝やしないわよ、人間となんか。変態じゃあるまいし」
「おれは寝るぜ。男でも女でも」
「ええ、あなたは変態だものね」
「その人形、きれいだな」
話をそらしたなと呆れつつ、アリトンはにこりと笑って自分の傑作を見つめた。
美しい。
完璧だと思った。
「ええ、最高の人間になるわ」
「名前はなんにするんだい?」
彼女は肩をすくめた。いくつか考えてはいたが、まだまとまってはいなかった。
「ゆっくり決めるわ」
「男なら、デイヴィッドが良かったのにな」
パイモンが残念そうに言う。アリトンの作る人形は女だった。性対象ならともかく、観賞するなら女こそ美しいというのがアリトンの考えだ。
「なんでデイヴィッド? ださいわ」
「オスメント君の『AI』を知らないのか?」
「ああ、映画の話」
アリトンは軽く笑った。
「神に会いたがるアンドロイドの名前ね」
「そ。アンドロイドにとって創造主たる神とはつまり、作ってくれた人間なのさ。悪魔に作られたレプリカントに、ぴったりの名前じゃないか?」
アリトンは顔をしかめ、パイモンをにらんだ。
「自分の作ったロボットに無関心な、あの映画の人間たちと私はちがうわ。あの映画を作った人間は、神を信じきれなかったからあんな話を撮ったんでしょ。神よ、無関心でいないでください。どうか我々を愛してください。私はあなたを信じたいのに」
「反吐が出るな」
パイモンは笑った。人間から神の愛を見えずらくしたのは、彼ら悪魔なのだが。
「だいたいデイヴィッドって、『2001年宇宙の旅』ではアンドロイドを殺した男の名前でしょ」
「あいつも結局は神に会うために宇宙を旅しているじゃないか」
「板チョコみたいな造形の神にね」
「あれ、かっこいいよな」
「気に食わないわ」
パイモンは「すみませんねえ」とくすくす笑った。
「なら、マリアはどうかな? この子の名前」
アリトンは鼻で笑った。
「偶像崇拝禁止なのに、信仰の対象になってあちこちに像を作られてしまった、哀れな聖母の名前?」
「ちがうよ。マリアの語源はミリアム。ほら、モーセの姉の名さ。これの意味はもともと、『反逆者』なんだぜ」
アリトンは興味なさそうに肩をすくめた。
「もっとましな名前を考えるわ。私の子どもなんだもの。それくらい、自分でやる」
「わかったわかった」
パイモンは肩をすくめ、にやりと笑った。
「なあ、ほんとに人間とは寝てやらないのか?」
「ええ。だってつまらなそうだし」
パイモンはくくくと笑った。なによ、とアリトンがつっかかると、肩をすくめた。
「イトナがあんまり哀れでね」
アリトンはため息をついた。
彼女の家に暮らす聴力を失った男は、アリトンを愛していた。霊者がセックスをするのは、友好の証しであることが多い。人間にとってのハグであり、キスであり、声をかける時の笑顔だ。彼らは妊娠しなかったので、それはコミュニケーションのひとつになり得た。しかし、人間がセックスを求めるとき、その意味はまったく異なる。それは身を焦がす恋であり、エロスであり、押さえきれない性欲だ。
「イトナにはあきらめてもらうしかないわね」
「可哀想に。おまえのせいで、なんにも聞こえなくなっちゃったのにな」
「代わりに心の声を聞けるようにしてやったんだから、いいでしょ」
アリトンは人形の薬指をゆっくりと揉んだ。愛を込めて。
「きれいだよ」
パイモンは先ほどと同じ感想をもらした。アリトンの横に座って、未だ死体である人形をながめ、彼女へ目を向けた。
「惜しいよなあ」
「なにが?」
「もしもおれが知識を求めず、おまえが秘密さえ持っていなければ」
アリトンは手を止めてパイモンを見た。彼は頬杖をついてにっこり笑っていた。
「おれたち、本当に愛し合っていたかもしれないのに」
アリトンは考えた。その言葉が、どれほど真実に迫っているかを考えた。そして、思った通りのことを言った。
「そうね。本当に、そう思うわ」
彼はアリトンの髪を耳にかけ、そっと近づいてキスをした。
彼らの愛のささやきは、友情とはややちがった意味を持っていたかもしれない。しかしそれは確かに、人間にとってのハグであり、キスであり、声をかける時の笑顔にちがいなかった。
アリトンは夫に会うことをおそれ、避けていた。しかし、トーキョーに住みはじめて少ししたころ、彼は突然、彼女を訪ねた。
「なにしに来たの」
アリトンはかたい声で言った。数千年ぶりの邂逅だった。ノームは昨日会ったばかりのように、にっこりと彼女の前に立った。
夫がなにか言う前に、アリトンは根城にしている家から出て「ついてきて」と空へ飛んだ。作りかけの人形をノームに見られたくなかったのだ。彼が知れば、そのすべてが無に帰せられるような、恐怖が彼女を支配した。
ハルマゲドンの際、彼は戦いに参加していなかった。その時に与えられた任務を、イズルが教えてくれていた。14万4千人を選ぶ責任者。愛を見抜く彼に、おそろしいほど最適な役割だと思った。
「元気そうだね、アリトン。安心したよ」
廃墟の屋上に降り立つと、ノームが穏やかにほほ笑みながら言った。
「離縁に応じてくれるなら、歓迎するわ」
そう言ってから、アリトンは笑った。
「もっとも、それにこだわる必要はもうないかしらね。どうせあと百年もしないうちに、死別できるもの」
彼は悲しげにほほ笑み、ほんの少し首をかしげた。
「私は来週から、諏訪で暮らすんだ。そこの担当と代わってもらったんだよ」
アリトンは組んでいた手をぴくりとさせた。
「なんで」
「最後まで、君の可能性をそばで祈り続けたい」
「だからって、物理的に近づく必要はないでしょう。あなたは霊者なのよ?」
「私の担当している厭世家にも、ぜひ君を紹介してあげたくてね」
彼は穏やかに笑った。
「君が悔い改めて、天使に戻ったあとに」
「……は」
アリトンは力なく笑った。
この天使は、まだそんなことを信じているのか。まだ、そんなに愛があるのか。
「アリトン。君にはまだ、愛がある」
ノームは澄み切った瞳を輝かせてそう言った。アリトンは目をそらした。
「私は悪魔よ」
「そうだ。だけど私たちは、天使や悪魔と区切られる前に……霊者だろう?」
アリトンは顔をそむけ、迷惑そうに手をふった。
「やめなさい。傷つくのはあなただわ」
「アリトン。私は信じているよ。君が愛の心を持っているかぎり」
ノームはにっこりと笑った。
「私は君を愛している」
心が震えた。ノームが去ったあとも、彼女はぼう然とそこに立ち尽くした。
なんて意地の悪い天使だ、とアリトンは思った。彼は知っていたのだ。彼女がまだ、ノームを狂おしいほど愛していることに。
本当は、誰を愛しても良かったはずだ。イズルがいいと言えば、きっとアリトンは彼と結婚し、エロスの愛を育んだだろう。役割がちがえば、パイモンと愛し合う世界だって、あり得ただろう。恋さえすれば、誰を愛しても良かったはずだ。きっとそれはタイミングの問題でしかなく、誰だろうと彼女は幸せになれたはずだった。
運命など存在しない。神は運命の恋人を設定しなかった。やもめには次の結婚相手を認めたし、霊者にも離縁の道を残した。
だから、彼女は。
ノームを愛さずともいいはずだった。
アリトンの作った人形は形ばかり完成していた。あとは命を与えられ、完璧になるのを待つだけだった。
アリトンは知っていた。美とは、ちらちらと見え隠れするからこそ、ますます美しい。素っ裸よりも布を一枚まとっていたほうが、よほどエロティックに感じるのと同じだ。彼女は人形を完璧にするつもりはなかった。自分の心を注意深くのぞき込み、取り出したい部分に手をつけた。
卵を割ったことがあるだろうか。生卵を少しかきまぜたあとに、黄身と白身を分ける努力を想像してみてほしい。とんでもなく気の遠い、呆れた作業になるだろう。心もそういうものだった。特定の心をきっちり取り分ける、というわけにはいかない。どうしても白身には黄身が混ざってしまうし、黄身には白身が入り込む。
だからアリトンが取り出した心には、彼女が取り除きたい部分がすっかりおさまっているわけではなかった。それに、残しておきたかった部分が、どうしても混入してしまっていた。
彼女はそれを美しい身体に注ぎ込んだ。心は命そのもの。揺れ動き、生きる、希望そのものだ。この人形はアリトンとしての自我を持たないだろう。もちろん秘密も知らないし、彼女の過去を何一つ知り得ない。それでいい。だからこそ、美しくなる。
息を吹き込まれた人形は、ベッドの上でゆっくりと目を開けた。アリトンは彼女の手を握っていた。いとおしくて、目をそむけたい心を持った、不完全で美しい子どもに笑いかけた。魂は入れない。それは、彼女の美しさを損なうと信じていたから。
「おはよう」
彼女はささやいた。頬に手をすべらせ、その目が自分と合うのを見た。この子に流し込んだのはアリトンの『愛する心』。アリトンの持つ、最も美しい心のひとつ。
「あなたの名前は、カエラ」
彼女は言った。「カエラ」には「愛される」という意味がある。神に愛され、霊者に愛され、人間に愛され、アリトンに愛されるすべてが、この子には備わっていた。
「あなたは私だけど、私じゃない。まったく別の、自由な人間。ああ、カエラ――会いたかった」
アリトンはカエラをそっと抱き寄せ、左の頬にキスをした。鈴のような、美しい笑い声が聞こえた。
「私も、会いたかった」
彼女は言った。不器用に腕を動かし、アリトンに抱きついた。
切り分けられた心は、お互い強く惹かれ合う。きっと、彼女たちは似た者同士だろう。そして、理解できない者同士になる。
そう思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます