最終章
★美
天使たちがどの段階で創りだされたか、聖書には記述がない。しかし彼らは、人間が創られるはるか前から存在していた。彼らは完璧で、特別だった。
当時、アリトンは生まれたばかりの子犬のように、力があり余っていた。他の数多の霊者たちと同じくして、元気いっぱいはしゃぎ回り、生きることの歓びを歌い、死すことのない霊体でできることを試し尽くした。親たる神に忠実に、時にかわいい反抗心をみせ、仲間たちとともにやりたいことをなんでもやった。
創世は、彼らの暇つぶしの最たるものだった。広大な宇宙は彼らの庭であり、遊び場であり、教室であり、研究施設であり、交流の場だった。
それぞれに性格を与えられた霊者たちはお互いの特質を話題にしながら、では君と私はこれをやってみないか、君と君はこんなことをしたら面白いのではないか、と個体差の組み合わせを考えた。彼らには友情が芽生え、愛が芽生え、時には苦手意識も感じながら、それでもうまくやっていた。
人間にとって「性行為」と呼べるものも確かに存在していた。彼らはまだ一対一の恋人というものを認識していなかったから、友情から性行為に及ぶことはありふれていた。お互いに執着を抱かず、ただ親愛の情を込めて愛をささやく。彼らにとってそれは自然な行為だった。宇宙の片隅に地球が創られ、「人間」が置かれるまでは。
「魂のある存在を、また創るのでしょう?」
新たな生態系の創世を、アリトンは友人イズルとわくわくしながらながめた。創世は霊者たちによって行われたが、全員が参加していたわけではない。アリトンに与えられた特質は「秘密」。彼女は当時から、神の秘密をたった一人、保有していた。
「魂があるって言っても、身体があるんだろ」
イズルはまだ混沌とした地上をながめながら推測を述べた。
「じゃ、死すべき存在なんじゃないか」
「神は永遠の生を与えると言っておられるようだけど」
アリトンは言った。声には想像のつかない、不可思議な響きが混じっていた。
「身体があるなら、いずれ滅びてしまいそうなものだけどね」
「まあ、いずれわかるさ」
宇宙は広い。聖書には記述がないが、だからといってこの宇宙のどこかに他の者が創造されていないと、どうして断言できるだろう。人間には明らかにされていないが、他の星にも生態系や文明が存在し、地球はそれらに加わる新たな創世にすぎなかった。もっとも、これらの星々は気の遠くなるほど遠い場所にあったから、彼らが地球の人間と関わることは永劫ないだろう。
「今度はもっと、興味深い星になるだろうな。創っている連中たちが熱っぽく語っていたから」
「楽しみね」
アリトンは笑った。そしてイズルに近づき、友情の愛をささやいた。彼らにはそれがまだ、許されていたのである。
人間は創られて数年もしないうちに、死すべき存在へおとされてしまった。反抗的な霊者により、欺かれてエデンを追われたのだ。
しかし、霊者たちの関心は人間が死ぬ宿命になったことや、自分たちのうちから悪魔と呼ばれる存在があらわれはじめたことには向いていなかった。この頃霊者たちのあいだでは、新たな人間の在り方に興味深い現象を発見して、意見が交錯していた。アダムとエバは「結婚」をしていたのである。
霊者たちは驚き、心がおどる関係性に憧れた。一対一の、かけがえのない相手。人間のような夫婦の在り方に、これまでの自分たちの奔放さを反省するむきもあった。イズルもまた、その一人だった。
「おれはおまえとはもう寝ない」
イズルはアリトンに向かって、高らかに宣言した。アリトンは目をぱちくりとさせ、それから「これは困ったぞ」と考え込んだ。
イズルは公正な霊者だった。他者についてあれこれ言うことは決してない。だからこそアリトンは、秘密を聞き出そうとはしないイズルと仲睦まじく親友でいられた。しかし彼は口を出さないと同時に、自分で「これ」と決めたことは、誰になにを言われても決して耳を貸さないのである。
「イズル、考え直すことは――」
「ないね」
「そうね、あんたはそうね」
「おれはこれが正しいと思った。だから正しいことをやるまでだ」
「なら、私と結婚する気はある?」
イズルは少し考えて、アリトンをためつすがめつしたあと「いや」と首をふった。
「おまえだって、おれにエロスは抱いていないだろう?」
「そうね。私たちはそんなんじゃないわね」
アリトンはあっさりうなずいた。
「誰かと結婚しろよ、アリトン。いずれ、だれ彼かまわず寝るのは良くないことだという考えは主流になる。今のうちに、添い遂げられる相手を探しておけ」
「たった一人にしぼらなければいけないの?」
アリトンはため息をついた。イズルは笑った。
「大丈夫さ。結婚しても、離縁するという道が残されている。やってみろよ、面白いから。それでおれに報告してくれ」
「意地の悪い天使ね。あんたは結婚しないの?」
「しないな。おまえ以外となら、する必要もないし」
「なのに私とは結婚しないのね」
「つまりそれだけ、必要性を感じていないってことだ」
「無欲なこと。うらやましいわ」
それで仕方なくアリトンは出かけていって、知り合いの天使を吟味した。
楽しくて、尊敬できて、誇りに思えるだろう相手。しかし霊者にとってそれは、すべての霊者を意味する。彼らは完璧であり、一人一人が特別だった。公正に生きる者、律法を守る者、知識を愛する者、自由を信じる者。その徳とするもののひとつひとつが、立派で正しい。
彼女は霊者を尋ね歩きながら、途方に暮れてしまった。すっかり疲れてもうあきらめようかと思ったときに、地上を熱心に見つめる天使の前を通りかかった。
宇宙がどのように広がり、天使たちがどのように行き来し、どのように天から見おろしているのか、人間に理解できるように説明することは不可能である。ともかく、神と霊者たちとは天の国に住んでおり、直接地上へ下りていくこともあれば、宇宙を散歩することもあり、さらには高みから見下ろすこともあった。
アリトンは歩いていって、その天使のとなりに座った。彼の名はノーム。人間の好きな、愛のある天使だった。
「面白い人間はいた?」
彼女はノームに話しかけた。彼はにっこりと笑って、ほら、見てごらん、とささやいた。地上には、まだ300歳ほどの――当時、人間は長生きで、最初の人間アダムの生きた日数は930年だった――男が地を耕していた。
「彼はエノクだ」
ノームはうれしそうに言った。愛のこもった親しみのある声は、アリトンに好もしく伝わった。
「彼は本当に正しい人間だよ。他の誰ともちがう。神は、彼のような人間を多く創られたかったのだと思う」
「残念ながら、他の多くは失敗作だものね」
ノームは一瞬さみしそうな顔をしてアリトンを見つめ、地上で働くエノクに目を戻した。
「みんなが、彼のように生きられれば良いのだけど」
ノームは心から言った。
アリトンはエノクを見ながら頬杖をつき、ちらとノームに目をやって、その横顔を見た。美しい。何かを愛し、いとおしく見つめる姿は、これほどまでに美しいのかと思った。この目が、この愛情が、自分にだけ向けられたとしたら、どんな気持ちがするだろう。
アリトンはその後もたびたびノームに会いにきては、一緒に地上をながめた。彼との会話は刺激的で、美しさにあふれ、愛がこもっていた。彼女はノームに好意を寄せたし、彼もアリトンに惹かれていった。
ある日、神はエノクを地上から取られた。365歳。他の人間に比べ、あまりにも早い死だった。ノームの落とした涙を拭いてやりながら、アリトンは結婚を申し込んだ。彼ははじめ驚いていたが、やがてうなずき、二人は夫婦になった。
アリトンは美しさについて考えるようになった。美しいものとはなにか。心に生まれるひだ。命の芽吹き。宵闇とすきとおった色にあふれた宇宙。地上をおおう大気。幾重にもつらなる雲の峰。空気の層に光を通して七色に様相を変える空。まつげの先ほどの小さな肺胞。曲線を描く半透明な海の生き物。毛皮をまとった勇壮な獣たち。
ノームは、美しい。アリトンはたびたび考えた。彼はこれまでに出会ったどの霊者よりも美しく見えた。彼女の心をふるわせ、愛を教えた。彼といることで、心はさらに美しさを丁寧に読み取った。
変わりゆく色。こだまする音。表情を左右する味。歓びを生む感触。心に残る匂い。魂と誇りを与える知識。生きる理を見いだす思考。無邪気な感情。そのどれもが美しく、アリトンの心を虜にした。
しかし、美しくないと思えるものも、やはり存在した。そのちがいは何か。なにが美しいと感じさせ、なにが美しくないと思わせるのか。そもそも、これらはどこから出てきたのか。答えは明快だった。すべてのものは、神から生じている。
「神は美そのものなんではないかしら」
あるとき、アリトンは地上をながめながら、考え考え言った。ノームは眉間に少ししわを寄せながら、地上をながめていた。最近、霊者たちがこぞって地上におりていき、人間と結婚していた。アリトンにはイズルの考えを受け売りして「好きにすればいい」と思えたが、ノームにとっては問題のある行為だったようだ。
「そうだね。神はすべてのおおもとだよ」
「でもね、私は桜の木が好きなの」
アリトンは言った。地上の木々も、素晴らしい神の創造物だった。
「桜は年に一度だけ花を咲かせる。一つひとつは小さな花よ。だけど、びっしりと木全体をおおい尽くすほどの数がいっぺんに咲くの。そして一週間で散ってしまう」
「わかるよ。とてもはかない花だ」
「はかないけれど……美しいの」
アリトンは考え込むように頬杖をついた。すべてのおおもとが神だというのなら、矛盾が生じる気がした。神は完璧であり、完全であり、絶対であり、永遠であるべき存在だ。はかなさに美しさを感じるのなら、それは神から出てきたものと呼べるのだろうか。
アリトンは眼下に見える地上の、人間たちをじっと見つめた。喜び合い、時にはいさかい、哀しみに泣きくずれ、楽しげに笑い合う彼らを見つめた。
「彼らはときどき、美しいとは思えないときがある。だけどよく見ると、一人一人が美しい部分を必ず持っているの。すぐに消えてしまうようなはかないものだったり、死ぬまで持ち続ける確かなものもあるわ。けれど、彼らは醜さも持っている。美と醜を、併せ持っているの」
アリトンはぱっと立ち上がり、ノームに言った。
「どうしよう。知りたくなったわ。どうして美醜を持っているのに、彼らが美しく見えるのか」
「君は面白いね。そんなことが気になるなんて」
ノームは笑った。そして少し考え、言った。
「ラジエルに訊いてみたらどうかな。彼女は知識の天使だ」
「彼女は苦手。知識の天使はみんなそうだけど、私の秘密を暴こうとして、あの手この手を使うんだもの」
アリトンは鼻を鳴らした。
「それに、中でもラジエルはたちが悪いわ。いつも私を褒めそやすの」
「褒めてくれるのがいやなのかい?」
「私に罵詈雑言を浴びせる、パイモンのほうがましね。彼に訊きにいくわ」
ノームは困った顔をした。
「パイモンは、地上で人間と暮らしているよ」
「大丈夫よ、ノーム。私にはあなたがいるもの。人間と寝たりしないから」
アリトンは笑ってノームにキスをした。心配だな、とノームはアリトンを見つめた。
「君は女の姿をとるんだろう? 人間の男たちに乱暴されたら……」
「いやだわ、ノーム。人間なんかに負かされるわけがないでしょう?」
アリトンは笑った。とてもおかしくて、馬鹿げた考えだったのである。
「すぐに戻るわ。地上の霊者たちと会話をするのも、面白そうじゃない?」
しかし地上にいる霊者は、アリトンを見るなり不機嫌に鼻を鳴らした。
彼は人のふりをしていた。彼女があらわれると、おまえも人間のふりをしろと怒られた。アリトンは人間の姿をとったつもりでいたが、それだけではダメだったのだ。呼吸をし、体温を再現し、時には間違え、笑ったり怒ったりする。完璧に人間と思ってもらうためには、不完全さを演出しなければならないのだと、パイモンは言った。
「それにしても、君から会いにきてくれるなんて珍しいじゃないか。秘密を隠すくそったれなアリトンさん。いつもおれの片思いだと思っていたけど、光栄だな」
パイモンはアリトンを家に案内し、二人きりになるとイタズラっぽく笑ってそう言った。彼はいつもこうだった。にこやかに悪口を言い、その口で彼女を愛したこともある。アリトンはあごの高さの髪をゆらし、ほほ笑んだ。
「ごめんなさいね、好いてくれていたのに。私は結婚しちゃったの。でも、あんたも結婚したんでしょ?」
「まあね。幸せってやつをしみじみ体感しているよ」
「私もよ」
アリトンはにっこりと笑った。
「訊きたいことがあって来たの。美について」
「美、か」
パイモンはあごをさすりながら天井を見上げ、ふーむと考えた。
パイモンが人間たちと作ったという家は木でできていた。高床式で、織物や麻糸で装飾が施され、素朴なおもむきがある。霊者にとってそれらの出来はお粗末なものだったが、彼は平気な顔でそこに暮らしていた。
「美と愛とは切っても切れない関係性がある」
「そうなの?」
アリトンは納得した。彼女が一番美しいと思えるもの、それは愛するノームだ。
「美しさにこそ、愛を感じるものだからな。この『愛』は、エロスのことだけど」
アリトンはへえ、と感想をもらした。自分はきちんとエロスの愛を持っていたのだと、そのとき初めて実感した。
「美と愛とは関係している。なるほどね。なら、どちらが先なの?」
「おそらく美だろうな」
パイモンはほほ笑みを浮かべた。彼は哲学を語ることがなによりも歓びだった。「哲学」の語源は「知識を愛する」。まさに知識の天使、パイモンの愛するそのものなのである。
「美を知覚するには段階がある」
美は、知覚されるものなのか。それは目で? まさか、それだけでは終わらないだろうが。
「まずは、肉体の美を知ること。これには数が関わってくる。たった一人の美ではなく、多くの肉体に宿る、共通の美を感じ取る必要がある。おれたち霊者が友人関係でもそうしたことに及びまくっていたのは、この第一段階を超えるためでもあるんだろう。そして次に魂の美を感じ、精神性の美を知り得ることができる。やがて目や心で感じるものではなく、知識としての普遍的な美を発見する。これは形骸化した言葉の羅列じゃない。本当の意味での知識だ。そうやってはじめて最終的な、美そのものがまみえるわけだ」
「あんたの物言いは、相変わらず難解でとっつきにくいわ」
アリトンはしらけたように言った。パイモンはくくくと笑って、肩をすくめた。
「いつも冗談ばかり言ってごまかしているんだけど、聞いてくれる奴がいると思うと、つい楽しくてね」
パイモンはしばし考え、そうだな、と座り直した。
「つまりは『理想』だよ。醜さを一切排除した、完璧な美がある。が、神以外にはそれを見たことがない。『それ』は現実にあるかどうかも不明なんだ。だからこそ、美はそこかしこに、はかない存在として見え隠れしている」
「じゃ、あんたも美そのものについては知らないのね」
アリトンはがっかりして言った。パイモンはふふふと笑った。
「今はそれに執着もしていないけどね。さっきも言ったろ。おれは幸福をかみしめているんだ」
ちょうど家の中に太った女が入ってきて、パイモンの客人にあいさつをした。まだ指をくわえた子どもを連れ、背には乳飲み子をおぶっている。パイモンとアリトンは立ち上がった。
「サラだ」パイモンはにこにこと言った。
アリトンは礼儀正しく人間のふりをした自己紹介をすませ、彼女の手を取って親愛のキスをした。
「素敵な人ね」
サラはほほ笑んで夫を見上げた。パイモンは肩をすくめ、「今夜は泊まらないそうだよ。すぐ帰るってさ」と妻に伝えた。
「あら、でも、遠くから見えたんでしょう?」
「おれも引き止めたんだけどね」
アリトンは引き止められた覚えもなかったが、パイモンがにやにやと笑っているので話を合わせてやった。
「またいずれ、ご好意に甘えさせてください。今夜は他に行くところがあるもので」
「あら、そうだったんですね。それなら仕方ないわ」
サラはしゃがみ込み、物静かな子どもに「お父さんのお友達にあいさつなさいね」と話しかけた。そのまま、仕事があるからと彼女は外へ出た。
「奥さん、私に嫉妬したかしら」
「たぶんね」
「あら、フォローしなくていいの?」
「完璧すぎるのは良くないと言ったろ。少々愚鈍な夫のほうが、真実味がある」
アリトンは笑った。人間の服を着て、人間の家に住み、人間らしさに心を砕く。なかなか滑稽だ、と思えた。
パイモンは子どもをひざに抱きかかえ、アリトンに笑いかけた。
「かわいいだろ」
「ええ。人間はみんなかわいいわよね」
「ちがうよ。他の人間とは全然ちがうんだ。この子は特別だ。おれにとって、他とは断じてちがう」
パイモンは愛情のこもった手つきで子どもの前髪をなで、額にキスをして、あやしてやった。たしかに、他の子どもとはちがうようだった。利口で、力が強く、背も高い。天から見おろしている時から、霊者の子どもは人間とはちがうと思っていたが、近くで見るとよりいっそう目をみはる。なんと美しい子どもだろう。
それに……悔しかったので口には出さなかったが、アリトンは思った。子どもをあやすパイモンは、なんと美しく見えるのだろう。子どもが、親子が、その愛が、光り輝くように美しく感ぜられた。
パイモンは子どもに向かって、ママのところへ行っておいで、と優しく話しかけた。子どもはアリトンに元気よくあいさつをして、外へかけ出した。
「すっかりお父さんね」
「まあね」
パイモンは幸せそうに笑った。アリトンは頬杖をつき、首をかしげた。
「だけど、人間とセックスをするのって、どうなの?」
「なかなか楽しいよ。おれ、くせになりそうだ」
笑うパイモンに、アリトンは舌を出した。子どもを作るためならいざ知らず、常習的に人間と寝るとはいかがなものか。
「不思議よね。私、あんたとラジエルが結婚するものとばかり思っていたわ」
「ふむ」
彼はあごに手を当てて考えた。
「そうなるかもな」
「あら、今の奥さんはいいの?」
「いや、だってさ」
パイモンは吹き出した。
「彼女は人間だよ。いずれ死ぬ」
「そうね」
「おれもいずれ、老衰して死んだように見せかけなければならないだろうし。地上から離れたあとは、自由だろ」
「まあ、そうね」
「ラジエルのことは好きだよ。一緒にいれば、知識がますます増えるしね」
アリトンは顔をしかめ、出されたお茶をすすった。
「あんたとラジエルが二人そろって秘密の開示を詰め寄ったりしたら、呪うから」
「そりゃいいや。試してみよう」
パイモンは笑った。アリトンがお茶を引っかけると、ますます笑った。
それからしばらくして、神はノアに話しかけ、方舟を作らせたのちに雨を降らせた。アリトンは地上に雨が降り続けるのを、ノームと息をつめて見守った。地は水におおわれ、霊者の子どもと伴侶はぬぐい去られた。死が満ちて、審判が行われた。
アリトンはその直後、パイモンと出会った。地上から引き上げた彼は輝きを失い、暗い目をしてゆっくりと歩いてきた。話しかけると、彼は何も聞こえていないかのようにすっとすれ違い、そのまましばらく誰の前にも姿を現さなかった。
アリトンはイズルといた。彼は訊いた。結婚生活はどんなものか、と。
「前と変わらないわ。セックスする相手が一人になっただけ。まあ、でも――」
アリトンはあごに手をつき、頬を染めて笑みを浮かべた。
「ノームといると、とてもほっこりするわ。それに、彼を見つめているのは歓びよ。彼は誰より美しい。でも、どうして美しいのか、説明がつかないの。いつまで見続けていても飽きないわ。彼こそが、美そのものなんではないかしら」
イズルは笑った。おかしそうに笑い、涙を拭いて、アリトンの背を叩いた。
「なによ」
「いやあ、アリトン。おめでとう。結婚して大正解だったな」
「あら、そう?」
うふふと笑うと、イズルは呆れたように笑った。
「ノームが美そのものなんじゃない。おまえがノームにべた惚れしてるだけだ」
アリトンは目をしばたいた。
「そうかしら」
「そうだとも」
両頬を手で包み、彼女はしばし「そうなのか……」と考え込んだ。
エロスの愛。自分はそれを、確実に手にしているらしい。イズルが首をかしげ、彼女をうかがい見た。
「大丈夫か、アリトン」
「私……ノームのところへ帰るわ」
アリトンはにっこり笑ってそう言った。夫に会いたくてたまらなくなったのである。
イズルと別れ、歩いていきながら、彼女は思った。愛とは素晴らしい。相手をより美しくみせてくれる。パイモンの言ったように、美は愛になり、知覚するには段階が必要らしい。よって、赤子に本物の美は理解することができないだろう。
しかし、もしも――アリトンは考えた――赤子でも理解できる美があるとすれば。いや、赤子とは言わない。まだ未熟な、そう、段階を踏まないままの人間ですら、真に美しいと感じられる美があるとするならば。それは理想の美と呼べるのではなかろうか?
あらたな疑問を胸にしつつ、彼女はノームのもとへ急いだ。そのとき地上では、ソドムとゴモラに火が降り注いでいた。
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