◎幸せの中心にずっと座っていて

 私は知らない家のソファに腰かけていた。暖炉には火がついていて、ぱちぱちと楽しげにはぜ、背中を暖めた。


 目の前に二人の厭世家が座っていた。腕を組むコバと、小さくなって目をきょろつかせたコタロー。そして二人のあいだに、世界で一番きれいな女の人が座っていた。彼女はカエラ。幸せの中心に座っているかのように、全員に笑いかけている。


「それで」

 コバが口を開く。私はびくりと身をこわばらせたけれど、彼女は優しく言った。

「エデンからここまで、悪魔や迷子に乱暴されたことは、本当にないのね?」

 ちらりとコタローに目をやった。乱暴された、ことならある。だけど私は「はい」とうそをついた。


「先ほどから言いました通り……コタローが、守っていてくれたので」

「当たり前だわ。この男は厭世家よ。信者を導く義務がある」

 コバはコタローをにらんだ。そもそも、おまえのせいでこうなったんだと言わんばかりに。カエラが首をかしげ、コバに尋ねる。

「この子は本当に信者なの?」

 耳に心地いい、きれいな声だった。

「私、信者を見るのは初めて。エデンの外に、信者は来ないから」


 興味津々で私をのぞき込む。その瞳は光の加減で虹色にきらめき、あまりの美しさにため息がもれた。

「すぐにエデンに送り返します」

 コバが言った。どこか事務的なきっぱりとした声は、前と変わらない。そう、パイモンに殺される前と。



 コバが目の前にあらわれた時、私とコタローは言葉を失った。残虐な殺人の現場を目撃したのに、その被害者がぴんぴんして目の前に立っていたのだから。


 彼女は私とコタローを交互に見た。

「あなたたちは……コタローと、カヤね?」

「復活できたんだな」

 コタローは立ち上がろうとして傷の痛みに顔をしかめつつ、へっと笑った。

「生き返れないと思ったんだがな。ゆがんだ信仰心でも、神は認めてくれるらしい」

「……やはり、私はあなた方と面識があるようですね」


 コバは日本刀をその場に置くと、目の前にしゃがみ込んで私を見た。

「申し訳ありませんでした」

 いきなり謝られて、ぎょっとした。カエラがコバのとなりに立って「なんであやまるの?」と首をかしげる。

「カヤ。あなたを救うために私は派遣されたのに、三日も放置してしまった」

 コタローがふっと鼻から息を吐き出し、私に耳打ちした。

「記憶はなさそうだ。もう、おっかない感じじゃないな」


「なにか怖がらせることをしたのなら、あやまります。でも、とりあえず今はカエラの家に行きましょう。とにかく、あなたを保護できてよかった」

 コバは優しく私の手を取った。コタローに対しては、少々乱暴に手を貸した。

 それで私たちは今、この家にいる。



「イトナとガズラはコタローたちを探しに出てるよ」

 カエラがにこにこしながら言った。ええ、とコバがうなずく。

「協力をお願いしています。まあ、そもそも今回の件は、あなた方に問題の発端があるのですしね」

 ぎろりとにらまれて、コタローは居心地悪そうに足を組み替えた。


「ガズラはともかく、よくイトナがおまえに従ってるな」

 コタローがつぶやく。

「あいつは義理堅いけど、知らない奴の命令なんか聞かないのに」

「あなたには関係ありません」

 コバは私に向き直った。あわてて背筋を伸ばす。本当はずっと上の空だった。気がつくと、コタローと二人きりになったことを思い出しては、にやけていたから。


 コタローがキスをしてくれたこと。私の笑顔をほめてくれたこと。それらが頭に浮かんでは消え、幸せに浸っていた。たった今も、コタローと二人になれる機会をうかがっていた。まあ、チャンスはしばらく訪れなさそうだけれど。


「車が戻ったら、すぐに境界へ向かいましょう。私の担当する天使が迎えに来ることになっています。」

「えっと……でも、私……」

「コバも行ってしまうの?」

 カエラが目をぱっちり開いてコバを見た。コバはカエラにほほ笑んだ。この人、女の人には優しいんだな、と気づいた。


「あなたも行くのよ」

「私が?」

「そう。あなたは悔い改める余地が大いにあるもの。ここにいては、周りの影響から逃れられないわ」

「でも私、エデンに行ってもいいの?」

「いいに決まっているでしょう。誰だってエデンに住まう権利がある」

 カエラは頬を赤らめ、心の底から幸せそうな顔をした。こっちまで幸せになって、とろけてしまいそうな笑顔。しかし、コタローはしかめ面で「それは……どうかな」とつぶやいた。コバがコタローをにらむ。

「何か問題でもあります?」

「カエラは……人間とはちがう」


 コバはフンと鼻を鳴らすと、興味なさそうにそっぽを向いた。

「その話、イトナも何か言っていたわね。でも、だから何? カエラが神の庇護下に置かれない理由はひとつもないわ」

「そりゃ、一部の天使はそう言うだろうが」

「他の天使にもそう言ってもらうしかないわね」

「だけど、カエラ、わかってんのか?」

 コタローは困った顔でカエラを見た。

「エデンには、おまえに身体の一部を奪われた人間がまだ生きてるんだぞ」

「じゃあ私、その人たちにあいさつしなきゃ。大事に使ってるよって」


 カエラは屈託のない顔で笑った。そんなふうに笑われると、ほかはみんなどうでもよくなってしまう。私が見とれていると、カエラがこっちを向いてにこっと言った。

「私とセックスしたいの?」

「え?」

「こら、やめろ」

 コタローが呆れた。

「無垢なんだから」

「信者も、厭世家や天使と同じなんだね」


 カエラはうれしそうに笑って立ち上がると、テーブルを回り込んで私のとなりに座り、腕を抱き寄せた。真っ赤になって、何も言えなくなった。なんてきめ細かい肌なの! 最上級のシルクだって、こんなに肌触りは良くないと思った。


「うれしい。私、エデンに行けるんだね。心の優しい人たちに囲まれて暮らせるんだ。ねえカヤ、一緒に暮らそうね。うれしいな。コバや、イズルや、ノームと一緒に暮らせるんだね。私、ノームに会いたいな。カヤ、ノームに会ったことある?」


 ハッとしてカエラを見つめた。にこにこと、本当に楽しそうな顔。コバがかたい顔で立ち上がり、コタローを見おろした。


「厭世家同士、話をしましょう。カエラ、二人きりになれる部屋はどこ?」

「うん、えっとね」

 カエラはコバの役に立てることがうれしくて仕方ないみたいだった。ぴょんと立ち上がり、その手を取って首をかしげる。

「ガズラの部屋と、イトナの部屋と、アリトンの部屋と、地下室ではどれがいい?」

「地下室はやめろ」

 コタローが短く答えた。コバは少し考え、言った。

「ガズラの部屋にするわ。あいつが一番無害そうだもの」

「うん、そうだね」


 カエラは居間の奥の部屋を指差した。コタローが足を少しだけ引きずりながら、コバのあとに続く。コバは右手に日本刀をたずさえていた。

 ――さすがだな。厭世家同士なんて言いつつも、迷子のコタローに警戒心ばりばりだ。本当に記憶がないのか勘ぐってしまうくらい、コバは前と同じコバだった。


 ドアが閉まり、コタローが視界から消えて、少しものさみしさを覚えた。カエラがにっこり笑って、私のとなりに腰かける。

「カヤは、人質なんだよね」

 そう言って、手を取って指をからませてきた。どうしよう。こんな美人と、何を話せばいいのかわからない。きれいだけど、子どもみたいに素直な人。


「ねえ、ノームの家の近くに住んでるんでしょ? 彼に会ったことがある? コタローは彼に何か言ったの?」

「何かって……何を?」

 やっと会話らしい会話ができた。カエラはまぶしい笑顔をふりまいた。


「コタローはノームに、アリトンを自由にしろって言うために、人質を取ったの。コタローはアリトンが好きだから。けど、私はそれはどうでもいいの。私はノームが好きだから」

「ちょ、ちょっと待ってね」

 私は手をあげて首をふった。

「アリトンって言うのは……」

「私を作った悪魔。アリトンはコタローを誘惑したの。それでコタローは迷子になった」

 心臓が大きく脈打った。

「コタローを、誘惑したの……?」

「そう。あの地下室に入れてね」


 カエラは居間にある扉を指差した。

「七年も監禁したの。なのにコタローはアリトンについていくって決めたの。へんでしょ。普通は自分にひどいことをした相手のこと、嫌いになりそうなのに。それでもコタローは迷子になったの。だからアリトンはすごいと思う」


 吐き気がした。何かが、かちっとはまりそうで。

「コタローはアリトンを助けるためにカヤを人質にしたの。アリトンが地の底に閉じ込められたから。だから、カヤがエデンに帰ったら、またアリトンは戻ってきて、ここでコタローたちと仲良く暮らすんだと思う」


 カエラは私の手を握りしめ、にこっと笑った。

「けど、私はエデンに行くの。カヤと、コバと、一緒に行く。そしてノームと暮らすの。うれしいな。私、信者たちに本を書いたんだよ。カヤも読んでね。恥ずかしいからノームには読ませたくないけど、カヤならいいよ」

「……カエラ、あのね」

 私は震える声を出した。パイモンの声が脳裏に響く。


 ――被害者が加害者を好きになる事例は、終わりの日にいくらでもあったんだ。


 そう、私はコタローを好きになった。誘拐されたのに。それなら、七年間監禁された、コタローは? ひどいことをされたのに、それでもアリトンについて行こうと決めた、理由は何?


「カヤ、どうしたの?」

 カエラが首をかしげて私を見た。

「顔色が悪いよ。青ざめて、生気がない」

「……私、ちょっと気分が……」

「横になる? 二階に部屋があるよ。大きなベッドもある」

「ううん、いいの。そこまでじゃ……」

 玄関から音がして、私とカエラは顔を上げた。帰ってきた男と目が合った。バスジャックのときに、コタローと乗り込んできたスーツの男。


「おかえり」

 カエラはそっけない声で言った。イトナには聞こえていないみたいだった。じっと私の顔を見ている。パイモンを思い出した。人の頭をのぞいて真実を探る、あの悪魔を。でも、なぜだろう。彼は人間のはずだ。人の心なんてわかるはずがないのに。


 イトナはじっと私を見ていた。私から何かを知ろうとしていた。そして――彼は何かを受け取ると、顔を上げてまっすぐガズラの部屋に向かった。


「イトナ、そこは今、コバとコタローが……」

 カエラの言葉も、イトナには届いていなかった。私は立ち上がった。イトナがドアを開け、部屋に入って行く。私が駆け寄ったとき、ちょうどコタローが殴られて吹っ飛んだところだった。


「ちょっと!」

 コバが叫んでイトナの肩をつかむ。イトナは乱暴にふり払い、コタローの胸ぐらをつかんでもう一発殴った。部屋には巨大なベッドと古びたマットレスが並んでいた。コタローはマットレスに転がり、イトナが馬乗りになってコタローを殴り続けた。


 コタローはなぜ自分が殴られているのか、ちっともわかっていないみたいだった。血だらけになりながら、わめいて抵抗している。

「やめろ! なんだ、おまえ!」

 もう一発。

 血が壁に飛び散った。


 私は悲鳴を上げてイトナに食らいついていた。

「やめて!」

「いい加減にしなさい!」

 私とコバで押さえつける。コタローはぜいぜいあえいでいた。口が血だらけで、指が痛みで震えていた。カエラはドアのうしろに立って、口をぽかんと開けている。


「男ってやつは!」

 コバが歯を食いしばって怒りの声を出した。

「なんでもかんでも、暴力に訴えないと気が済まないの?」

「おまえだって、日本刀をぶら下げてるくせに」

 コタローが血をぬぐいながらコバをにらんだ。なんですって? とコバが顔をしかめる。しずまる気配のないイトナを必死でおさえながら、私は二人に怒鳴った。

「もういいから! どうにかしてよ、これ!」


 私はハッとした。イトナはコタローをにらんでいる。その目からは、涙があふれていた。あとからあとから、止まらない涙を流していた。


「なんなんだよ、イトナ!」

 コタローが怒鳴った。

「おれが何した? なんか勘違いしてんじゃねえのか?」

「イトナはコタローが嫌いなんだよ」

 カエラがドアの影から出てきて、かすかにほほ笑みながら言った。

「イトナはずっと、コタローが嫌いだったの。コタローがアリトンに解放されてからずっと。見てればわかるよ。コタローはわからなかったの?」


 コタローは眉を寄せ、イトナを見て、気まずそうに唇を引き結んだ。はっと、何かに思い当たったようだった。心の底から悔やんでいるかのように。イトナを哀れんでいるかのように。


「おまえは……カエラを愛してるんじゃなかったのかよ」

 コタローは小さな声で言った。イトナは顔をゆがめ、言葉にならない泣き声を出した。カエラが悲しげに目を伏せ、かすかに笑って言った。

「だから、秘密にしたかったんだね、イトナ」

 それで私はわかった。わかってしまった。かちっと、音を立ててはまった。



 この人は、アリトンを愛しているんだ。

 そして……必死でそれをあきらめようとした。

 かなわぬ恋。霊者への、禁じられた恋。


 人間だから。仕方がないから。あきらめようとした。

 なのに……私はコタローを見た。困惑している、コタロー。

 涙が出てきた。


 私も、かなわぬ恋をしていたらしい。



 イトナをつかむ手をだらりと下げた。止める権利はない。ううん、むしろ。あと二、三発、殴ってやってほしい。イトナは私を見た。私の考えがわかるみたいに。私はうなずいた。イトナはコバをふり払い、もう一度殴りはじめた。


 コバやコタローの声が遠く聞こえた。私は力なく居間に戻って一人がけのソファに座り、自分を抱きかかえるように両腕をさすって床を見つめた。


 言葉が浮かんでは消えて行く。裏切られた、だまされた、利用された――どれも攻撃的すぎて、かちっとはまらない。そんな言葉ではなかった。放心、それが近い。私は放心状態だった。何も考えられず、何も感じない。


 そっと手を添えられて、カエラがかたわらに座ったのに気づいた。カエラは床にひざをつき、心配そうに私の手を包み込んでいる。


「それで……コタローとアリトンは、愛しあっていたの?」

 カエラは訊いた。不思議そうな声で。涙が出てきた。

「カヤは、コタローを愛してるのね」

 私はしばらく、答えられなかった。苦しくて、ため息が出た。

「愛って、なに?」

 わからない。ずっと不思議だった。その抽象的な概念は、いったいなに。こんなに人を苦しめるものは。こんなに一喜一憂させるものは、なんなの。


「私も愛してる人がいるよ」

 カエラが言った。心地いい、鈴のような声。


「私はノームが好き。彼を愛してる。けど、彼は私を愛していないの。仕方ないと思う。一人につき一人だけしか愛せないなら、すれちがうことも多いから。けど、いいの。私はノームを愛してる。ノームが幸せなら、私も幸せなの。私、はやくエデンで暮らしたいな。ノームの近くで、暮らしたい。彼の笑顔を、見ていたいの」


 涙があふれた。震える手で、カエラの手をとった。絹みたいになめらかで、小さくて、可愛らしい手。言わないと。私はこの子に、真実を伝えないと。


「カエラ、ごめん」

 カエラはにっこり笑って首をかしげた。

「どうしたの、カヤ」

「私が――私は、利用されたの。きっと。故意じゃないの。でも、あなたに教えないと。ノームのことを、あなたに伝えないと」

 伝わるだろうか。この罪悪感が。このやるせなさが。

「ノームは……死んだの」

 カエラがにこっと首をかしげる。

「え?」

 彼女は理解していなかった。悪い冗談を聞かされたみたいに、内容がすんなり頭に入っていなかった。


「私はその場に居合わせた」

 震える声で言った。

「彼は確かに死んだの、カエラ。本当に、ごめんなさい……」

「カヤ。なにを言ってるの」

 カエラが笑った。でも、その笑顔はどこかかげっていて……小さく首をふって、困ったように口元だけで笑った。


「ノームは……だって、霊者だから、死なないのに」

「……」

「ノームは……天使なのに」

 私は涙を落とした。

 それが答えだった。


 コタローを殴るイトナの息づかいと、それを止めるコバの声がおさまった。

「もう、気はすんだ?」

 コバの声が遠く聞こえた。

「それ以上やったらコタローが死ぬわ。あんたはもう一度、殺人を犯すことになる。ったく。この家に包帯はないの?」


 カエラの手が、かすかに私を握り返した。

「カヤ……それを見たの?」

 小さな声だった。私にしか聞こえない。

「うん」

 私は目を伏せた。この子にはうそをつきたくない。

「私がノームを殺したと思っている霊者や厭世家もいる」

「……そうなの?」

「わからない。私は……利用されたの」

「利用されて……それで……」

 カエラの声はどんどん小さくなった。

「……カヤが、殺してしまったの?」


 私は何も答えることができなかった。本当にわからなかったから。


 この子だっていつか知ることなんだ。エデンに行けばいずれ知る。天使が記憶を書き換えてしまうとしても、真実は明らかにするべきだ。


「カエラ、私……」

「本当はね。イトナに使おうと思ったの」

「え?」

 カエラはにっこり笑いかけた。とろけるような、素敵な笑顔。

「ずっと、機会をうかがってたの。けど、カヤ……じっとして」


 カエラがそっと立ち上がり、私の顔を両手で包んだ。動けなかった。カエラが、その美しさで私を石にしてしまったかのようだった。カエラは私に顔を寄せ――キスをした。


 頭が真っ白になった。パイモンのときの、嫌悪感のこもったキスとはちがった。コタローのときの、至福のキスともちがった。カエラの舌は文字通りとろけるように私をからめ、唐突に、苦みが口一杯に広がった。のどが焼けるような痛みと、苦しさ。


 目を見開き、カエラの手を引っかいた。カエラが爪を立てる。私たちはもみ合っていた。ソファからずれ落ち、相手を思いきり突き飛ばす。カエラがテーブルにぶつかって、その場にうずくまった。ぜいぜいと、息がはずむ。



 恐ろしい違和感。



 震えながら唇に手を当てた。頭がきんと冷えきって、すべてが急に開けた。目から分厚いウロコが落ちた、気がした。

 私は――。



「今度はなに?」

 コバが居間に出て、私たちを見おろした。遅れて、こぶしを血に染めたイトナと、血だらけのコタローが顔を出す。カエラが床にうずくまり、ひーひーと悲痛なうめき声をあげている。口の中で暴れた苦みと痛みが、カエラにも同じく感ぜられていたらしい。私は床に尻餅をついていた。


 どうして、今。

 唇に触れる。

 そうか。

 カエラとキスをしたから――。


「あらま。いったい何事?」

 玄関から、太った男が戻ってきた。のんきなガズラ。コバはカエラを抱き起こした。顔をのぞきこみ、心配そうに声をかける。カエラは泣いている。絶望と痛みと、失敗の悔しさで、泣きじゃくっている。イトナは目を見開き、驚きの念を抱いて私を見つめていた。そして、コタローは……血だらけになりながら、それでも目の光を失わずに、私のもとへ駆け寄った。


「ちがうんだ、カヤ」

 コタローは言った。血をぬぐい、首をふりながら。

「おれは、いい加減な気持ちなんかじゃ――」

「いいの、コタロー」

 かすれた声が出た。ああ、声帯が傷ついている。人間の身体の声帯が。


 カエラ、あなたは、毒をずっと口の中に忍ばせていたのか。カプセルに入れて、いざというときのために歯の裏に隠して。なんていじらしい。なんて美しい。


「カヤ。本当に大丈夫か?」

 コタローが私を見た。震えている私を。

「思い出したの」

 私は言った。ぼう然と、部屋の顔を見回した。

「思い出したって――」

「全部、思い出した。私は……カヤじゃない」


 ああ、パイモン。あの悪魔、これに気づいていやがった。


「私は、私じゃなかった」

 かすれた声で、言った。コタローが眉を寄せるのを、いとおしく見つめた。

「私は……アリトンだ」

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