*空虚な幸せを与えるだけの獣
イトナとガズラは、その日の遅くに戻ってきた。
私はソファに寝ていた。玄関からやかましい音がして、目を上げると、ガズラが「うるさいなあ、知らないよ」と言った。イトナがステッキを小脇に抱えて示した。
「戻れ。あのまま放っておくつもりか」
「じゃ、自分で行けばいいだろ」
ガズラは不機嫌に言ってから、私に気がついて、にこっと笑った。
「カエラ、食べ物ある?」
私は「あるよ」と笑って、食べ物を用意しました。ガズラの前にそれを積み上げると、彼は取って食べはじめた。
私の手首を、イトナがつかんだ。イトナは怖い目で私を見た。そして示した。
「どこで手に入れた」
私は目をそらした。それでイトナは気づいたようでした。
「もう、誰ともセックスをしないんじゃなかったのか」
私は首をふって言った。
「イトナには関係ない」
私はガズラに笑いかけた。彼もにっこり笑って、食べ物を口に運び続けました。それで私は幸せだった。幸せなら、いいじゃないかと思う。
けど、イトナは不満のようでした。彼は示した。
「コタローを境界に残してきてしまった」
私は顔を上げ、コタローがいないことに気がつきました。それに、彼らが連れてくるはずの、エデンの園の信者もいない。けど、私ははじめから、どうでもよかった。
「コタローは銃を持ってるから、平気だよ」
私は言って、イトナを見た。
「火をつけてくれない?」
イトナは首をかしげた。私はあごで、火の気のない暖炉を示した。それは私が出かけているあいだに消えていて、寒くてたまらなかった。けど、私は火の付け方を知らない。イトナは少しためらったあと、火をつけてくれた。私はイトナのとなりにしゃがんで、あたたかな火に手をかざした。イトナが私を見た。私は言った。
「触らないで」
イトナは氷みたいに固まって、それから立ち上がり、二階へ上がっていきました。ガズラは食べながら、肩をすくめた。
「イトナってむかつくね。そんなにコタローが気になるなら、自分で運転して迎えに行けばいいのに」
私は眉をひそめ、言った。
「イトナは運転がうまくないから、しないの。耳が聞こえなくなってから、余計に運転したくないと言った。迷子たちは死んでも復活できないから、事故を起こしたら大変なことになる。それで、イトナは運転したくないの」
ガズラは「ふうん」と言って食べ物を口に入れました。それから私を見て笑った。
「わかったよ」
私はうなずいた。
それから、いつものようにガズラの部屋に戻ろうとして、少しためらった。イトナの部屋に行こうかと一瞬思った。けど、やはりガズラの部屋に入って眠ることにした。ドアを閉めるとき、ガズラがおかしそうに笑うのが聞こえた。
次の日もコタローは戻らなかった。私は散歩に行こうと思った。けど、イトナがついてきた。
「帰って」
私が言うと、イトナは示した。
「だれ彼かまわず、寝るな」
私は笑いました。それで、塔に向かって歩きはじめた。本当は雑貨屋に行きたいと思っていた。そこの女が、頼んでいた毒を手に入れたはずだから。けど、イトナがいたのでやめにした。それにアリトンがいなくなったので、もう毒は必要ないかもしれない。
迷子たちは私に声をかけてきた。けど、うしろにイトナがいるのを見ると、あいさつ以上は話を進めなかった。
今まで私は、迷子たちは私が誘わないとセックスをしてくれないと思っていた。彼らは無垢だから、きっと自ら悪いことはしないのだろうと思っていた。けど、どうやら私は、ずっとイトナに守られていたのだと気づいた。
だけど本当は、イトナは私を守っていたわけじゃありません。彼は私を独り占めしたいだけだった。むかむかして、吐きそうでした。いつかコタローは言った。イトナは私を愛していると。けど、それは間違っている。イトナが愛しているのはアリトンで、私じゃない。私は涙をこらえた。
突然、風がふき、髪を巻き上げました。私は立ち止まった。イトナが私の前に出た。そこに誰かがいた。
「やあ、カエラ」
パイモンは私に笑いかけた。そしてイトナにも笑いかけた。
「やあ、イトナ」
イトナはパイモンのことが好きじゃない。私とセックスをする人が、みんな好きじゃない。パイモンはくすくす笑いながら、「なるほどね」と言った。
「アリトンの奴、いなくなったか。せいせいするが、おれがこの手で苦しめてやれなかったのが残念だ」
イトナは私の前に立ちながら、目をぎらつかせて示した。
「アリトンはいない。おれたちにかまうな」
「そうはいかない、可哀想なイトナ坊ちゃん。おれの心は読めないようだな」
私は驚いた。イトナが他人の心を読めることは、私たちだけの秘密でした。けど、パイモンは知識の悪魔だから、知っていてもおかしくはないと思い直した。
「君の記憶は実に興味深いね――ノームの担当地区から人質を取るなんて、大それたことをやったもんだ。そして君は一人、ある事実を知ってしまったわけだ。心が読めるばっかりに、人質の一人の秘密を、知ってしまったわけだ」
パイモンは歩いてきて、イトナの目の前に立った。イトナは唇を引き結んでいた。けど、目はどこか落ち着かなく震えていた。パイモンがこんなに興味深そうに人間を見つめるのは初めてでした。私は首をかしげた。
「秘密ってなに?」
パイモンはうすく笑った。そしてイトナに「心配するなよ」と言った。
「カエラ、それは今この場では言わない。イトナ坊ちゃんが他の誰にも気づかれないよう、必死に隠してらっしゃるんだ。いずれ霊者のあいだでは知れ渡るだろうが、ショックがでかすぎて、人間たちには隠されるだろうしね。そのかわり、こいつが隠している他の事実を教えてやろう。イトナ、考えろ。おまえはどの秘密が一番カエラに知られたくない?」
イトナはこぶしを握って目をそらした。私はパイモンに訊いた。
「心が読めるの?」
「当たり前さ。逆に、どうしてイトナにできて、おれにできないことがあると思えるんだ?」
私はそれもそうだと思った。
人間にできて、霊者にできないことは、赤ん坊を作ること以外にはひとつもないはずです。それなら、パイモンはイトナの心をのぞけるということになる。そして、イトナに「考えろ」なんて言ったら、イトナはどんなに隠そうとがんばっても、考えないわけにはいかない。
パイモンは意地悪に笑った。イトナの秘密が、手に取るようにわかるから。
「なるほど、なるほど、そうなのか」
パイモンは笑った。そして私を見た。
イトナがステッキをふり上げ、パイモンに殴りかかりました。けど、気づくとイトナは地面に倒れていた。パイモンは笑っていた。
「カエラ。イトナはコタローが大嫌いなんだってさ」
パイモンは言った。イトナが身を起こし、顔を真っ赤にして首をふった。必死で私に「ちがう」と示した。泣きそうな顔で「ちがう」と言っていた。
「知ってるよ」
私は答えた。
「イトナはコタローが嫌い。見てればわかるよ」
イトナは力が砕けたようになった。どこか放心していた。パイモンはイトナを見て、笑った。
「隠しているつもりでも、バレバレなことって案外あるんだぜ」
イトナは唇を噛んだ。パイモンは私の頭をなでて、にっこりした。
「可愛いカエラ。おれはちょっと、急用ができたんだ。とても大事な用がね。すべてが明らかになったら、またおれと寝てくれるかい?」
私はパイモンの笑顔を見つめた。その作り物の、青い瞳を見つめた。
「わからない」
私は答えた。
パイモンはくすっと笑ってイトナの肩を叩き、意地悪に笑った。
「わかってんだろ、本当は」
イトナが唇をふるわせていると、パイモンは小さな声で言った。
「おまえじゃ、だめなんだよ」
風が吹いて、パイモンは消えていなくなりました。あとには、首をかしげた私と、立ち尽くすイトナが残された。パイモンがこんなに急いで行ってしまうのは初めてだった。きっと、何か本当に大事な用があるのかもしれない。
イトナは私を見なかった。私は少し気まずくて、戸惑った。イトナの一番隠したい秘密が、どうでもいいことに思えて仕方なかった。
イトナがコタローを嫌いなのは前から知っています。コタローがアリトンから解放されてから、イトナはコタローが大嫌いになった。けど、どうしてそれが秘密なのかわからなかった。
私はイトナと無理やり視線を合わせた。そして言った。
「大丈夫?」
彼は首をふった。そして私の手首をつかむと、きびすを返して歩きはじめた。
私は抵抗しなかった。ただ、犬みたいについて行った。彼はまっすぐ家に向かっていた。私はだんだん怖くなった。
「イトナ、離して」
けど、彼には聞こえていませんでした。彼は前を向いて、一心に歩いた。
家につくと、彼はまっすぐ二階へ上がった。私の手首をつかんだまま。ガズラは食べるのに忙しくて、「おかえり」すら言わなかった。イトナはアリトンの部屋に私を引き込んだ。大きなベッドの上に私を投げると、ベルトを外しはじめた。私はベッドの上で首をふった。
「やめて」
私は言った。
「触らないで」
イトナはベッドの上に乗り、私の肩をつかんだ。こんなに乱暴に触られたことはありませんでした。彼はいつも、とても優しくて、こまやかなのに。
彼は示した。
「おれじゃだめか?」
私は首をふった。
「だめじゃないけど……」
それでも、本当はいやでした。何もしないでほしかった。彼とは何度もセックスをした。誰よりもしてきた。なのになぜか、今はいやだった。自分でも、どうしてかはわかりません。
イトナは私の手を握った。そしてそのまま、私の手を自分のひたいに当てた。しばらくじっとそうしていた。彼は私に触れたくてたまらないのだと気づいた。私は誰かと握手をしたり、セックスをしたくてたまらなかったけど、同じくらいイトナも、私に触れたくてたまらなかったのだと、初めて気づいた。
彼は私の手を離さなかった。ひたいからゆっくりおろして、私の手にキスをした。彼は私を引き寄せてキスをしました。唇を重ねるだけのキスだった。それだけなのに、彼はすぐに離れて、涙を落とした。
彼が何を考えているのかわからなかった。私は彼の声も聞いたことがない。私はイトナを何も知らない。
「ごめんね」
私は言った。イトナが見ているかわからなかったけど、言わなくてはいけないと思った。
イトナは私にキスをした。彼は私の唇をなめた。私は顔をそむけ、逃げようとした。彼は私の手を握って包み、唇だけで何度もくり返した。
「ごめん。ごめん。ごめん」
それで私は逃げるのをやめにした。
「したくないの」
本当は、舌を入れっこするキスだけなら、セックスのうちに入らないと知っていた。けど、それだけで終わるわけがないということも知っていました。
舌を入れるキスは、私たちにとってセックス以上の価値があった。セックス以上に、愛にあふれていた。だからそれを許してしまったら、最後まで許すのと同じだとわかっていた。
イトナは泣いていた。私は謝った。イトナは私を抱き、首すじにキスをして、触れた。彼は私を知っている。私はこらえきれずに声を出した。彼はドレスをたくし上げ、指を滑り込ませた。いやだったのに、私の身体は反応していた。
私は「やめて」と言った。「お願いだからやめて」と言い続けた。けど、イトナはやめてくれませんでした。私は抵抗した。いやだと言い続けたし、首もふり続けた。けど、イトナには何も伝わっていなかった。
イトナには私の拒絶が聞こえなかったのかもしれない。あるいは気づかないふりをしていたのかもしれない。彼は私の言葉から目をそむけた。私の気持ちを無視した。私たちはこんなに近くにいて、身体では抱き合っていたのに、心は遠く離れてしまっていた。
私はイトナに抱かれながら、ノームに言われた言葉を思い出していた。本当に愛する人には、無理やりセックスをしてはいけないという言葉を思い起こしていた。私は気づいた。これはセックスではなく、レイプだった。
すべてが終わると、イトナはしばらく私を抱きしめたままじっとしていた。彼は私をうしろから抱きしめていた。いつもよりもずっと優しく、私をなでていた。そして私を抱いたまま、私の目線の先に手を伸ばして、手話で示した。
「何かしてほしいことがあったら言ってくれ」
私はしばらく放心していたけど、やがて言った。
「出て行ってほしい」
それから、イトナには聞こえていないことに気づいた。彼は霊者と私の心をのぞくことができない。それで私ははじめて手話を使った。背を向けたまま、「出て行ってほしい」と手話で示した。
私を抱きしめていたイトナの手が震えた。彼はしばらく動かなかった。それから少しだけ、私を強く抱いた。私はびくっとした。イトナの腕が、同じくらいびくっとして、静かに私から離れていきました。彼は起き上がって服を着た。私は彼が出て行くのを待った。イトナは出て行く前に、もう一度ベッドに膝をつけました。
「ごめん」
私は驚いてしばらく動けなくなった。たしかに、イトナは言った。言葉を話した。けど、私がふり返って見ると、イトナは手話で示した。
「ごめん」
心が枯れ落ちて行くのを感じた。私はいつでもそうだった。私はアリトンやイトナや悪魔や迷子たちを、慰めるための娼婦だった。私はただの人形で、いいように使われるためだけに在った。
私は自分のまたのあいだに手を差し入れた。まだ熱くて、濡れていた。けど、情熱はありませんでした。幸せもなかった。私はこうやって、人を幸せにするしかないのだと思った。空虚な幸せを与えることしかできないのだと思った。
イトナはもう一度手話で示した。
「カエラ」
私は名前を呼ばれたのでぼんやりと続きを待った。しかしイトナは何も示しませんでした。彼はそのまま出て行き、私は取り残されました。大きなベッドは久しぶりで、コタローのマットレスよりも、ずっと寝心地が良かった。
私はふわふわの布団にくるまりました。とても気持ちがよくて、幸せで、涙が出てきた。私の存在理由は、ちゃんとありました。そしてそれは、ちっとも私ののぞんだものじゃなかった。
次の朝、家のドアを叩く人がいました。私はあのままベッドに寝ていたけど、のろのろと一階に下りて行った。ガズラはいませんでした。イトナはパソコンを見つめていたけど、ノックの音に気づいていなかった。それで私はドアを開けた。
知らない女の人が立っていました。背が高くて、きりっとした顔つきの、胸の大きな人だった。私は彼女の持っている長いナイフに気がついた。彼女は自分を厭世家だと言った。コタロー以外の厭世家に会ったのは、はじめてでした。イトナと話したいと言うので、私は彼女を中に入れた。
イトナは、厭世家を見ると腰を抜かしてしまいました。彼は迷子なので、たくさん悪いことをしてきたので、彼女の持っている武器が怖いのかもしれない。いい気味だと思った。
私は、厭世家が座ると握手をした。けど、彼女はすぐにふり払ったので、悲しくなった。私にはこれしかできることがないから。それで私は言った。
「私とセックスする?」
すると彼女はとても驚いた顔をした。はじめてコタローに言った時も、同じように驚かれたのを思い出した。コタローも、この厭世家も、私とはセックスをしたくなさそうだった。イズルとノームも、やはり私とはセックスをしなかった。厭世家や天使にとって、私はいらない。私は悪魔の子どもだから。
私はどうすればいいかわからなくなった。生きていていいか、わからなくなった。
イトナは私に、席を外せと手話で示した。厭世家と話があるから、カエラは外へ行けと示した。私は不満だったけど、従った。イトナが怖かった。
私が家を出るとき、厭世家が追いかけて来て言った。
「あなたはたった今から、信者になれる」
私は笑った。もしも私が信者になれるなら、ノームと一緒にエデンで暮らせるかもしれない。そうなったら素敵だと思った。けど、あり得なかった。この厭世家だって、私がどんな存在かを知ったら、私をバラバラにした方がいいと言うに決まってる。コタローや、ノームがそう言ったように。
正しい人は、いつも私の存在を否定する。22年たったら私は滅ぼされると、みんなが口をそろえて言う。きっとそうなんだと思う。私はどんなにがんばっても、滅びるしかないんだと思う。この世に正しさだけ生き残れば、娼婦はいらないから。
けど、彼女は言った。
「誰かのせいでそれが叶わないと感じるなら。誰かに無理やり、辱められているのなら。私に言いなさい。死ぬ気であなたを守り抜くと、神に誓います」
私はぼうっとして彼女を見た。彼女がどうしてそんなことを言うのか、よくわからなかった。けど、だんだんそれが心にしみ込んできました。
うれしくて、笑い声がもれた。身体があたたかくなって、歓びがあふれてきた。そんな素敵なことを言われるなんて、生まれて初めてだった。私はコバに抱きついた。けど、彼女は私とセックスをしたくない人だと思い出して、すぐに離れた。
彼女は私を特別扱いしなかった。神様が創った他の人間と、私を同じだと思っていた。それは私にとって、特別扱いされることより、ずっと大きな意味を持っていた。
「私が帰ってくるまで、まだいるよね?」
私は訊いた。コバは「わからない」と答えた。けど、きっといると思った。彼女は私を見捨てたりしない。きっといてくれるとわかった。だって彼女は、私が信者になれると言った。どんな罪を持っていても、かまわないと言った。それはどんなキスより、どんなセックスより、愛のある言葉に思えた。
私はにこにこしながら家を出た。うれしくて、泣きたい気分だった。けど、私は急いでいた。急いで、雑貨屋に向かっていた。
私は人形じゃない。自由にならなければいけないと思った。だから、毒がいる。厭世家みたいに、自分の身を守るための武器がいる。
私はイトナを殺そうと思った。
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