◎気のふれた悪魔と迷子の罪
「やめようか」
身の上話を初めて三日目の午後。
パイモンは書き物机に頬杖をつき、私の話を聞いていた。私が服作りに熱中しはじめ、姉二人に夢を語った顛末を話し終える前に、パイモンはにっこり口をはさんだ。
「そろそろ時間の無駄を感じるよ」
私は口ごもった。パイモンが何を考えているのかわからなかった。
「だって、全部話したら、解放してくれるって――」
「ああ、そんな約束もしたね」
パイモンはちょっと笑って、砂糖漬けのシナモンパイをひとかけ口に含んだ。
「でもさ、それはうまくいけばの話だよ。うまくいかなかったね」
「何が不満なの?」
私はあせっていた。話がちがう。
「カヤちゃん。おれはとても悲しんでいるんだよ」
パイモンは笑って机に手をつき、立ち上がった。書き物机をまたいで私の前に立ち、しゃがみ込む。
「ねえ、カヤちゃん。君は人のうそをどうやって見抜くの?」
にこにこと問いかける目。私は初めてパイモンに出会った時の恐怖を思い出した。
「私はうそなんか……」
「ああ、君はつかない。他人がつくとも思っていないんじゃないかな、無垢だから。でもおれはちがうんだよ、カヤちゃん。君がうそをついていないって、どうすれば証明できる?」
「……私の家族に、連絡を取って」
パイモンの笑顔が、ますます広がる。
「住所を教える。名前も。だから、会ってきて。私は……」
「カヤちゃん。おれがすでに確認してないわけがないだろ?」
パイモンはシナモンパイを一切れ差し出した。頭が真っ白になった。このシナモンパイは、お母さんの手作りの味がする。
パイモンはすごいと思っていた。衣食住のすべてをぽんぽんと提供してくれた。このパイだって、いつもの調子でぽんと用意してくれたものだと思い込んでいた。私の知っている味を、魔法のように再現してくれたのだとばかり思っていた。
だけど、ちがう。この世に魔法はない。あるのは神の奇跡だけ。パイモンは魔法ではなく、人間には真似できない、物理的な力を駆使していただけだ。私の知っている味を再現したのではなく、持ってきただけ。わかっていたはずなのに、急にそれが薄ら寒く、恐ろしいことだと気づいた。
「君の生まれはカナダがあったところだったね」
パイモンはにっこり笑った。
「センジェローム。ケベックシティから車で一時間の町。いいとこだよね。自然が豊かで、楓の木がいっぱい植わってて。リスがそこら中を駆け回ってたよ。あの辺りはフランス系が多いよね。君もそんな顔をしてる。髪と目が明るいから、純粋なラテン系ってわけではなさそうだけど。まあ、厭世家から14世代目ともなれば、いろいろ混ざってるか。カヤちゃん、ヘブライ語で『カヤ』の意味を知っているかな?」
目を泳がせ、口を開いた。けれど言葉が続いて出ない。パイモンは私の頬を包み込み、にこりと笑った。
「『生きる』。君の名前は、死にかけた魂に与えられた激励みたいだね」
パイモンの手は、冷たくもあたたかくもなかった。ただ、空気が実体を持っているかのような、不気味な感触。
「君の言葉に、意味はない」
パイモンがささやく。
「君の過去に、人生に、環境に、意味が見いだせなくなっちゃった。おれは悲しい。全て無意味だった。ああ、認めるよ。悲しさのあまり、ちょっと八つ当たりをしちゃったな。でもさ、おれだって聖人君子じゃないんだ、仕方ないだろ」
「……なにをしたの」
やっと、言葉が口をついて出た。
「お母さんは……お父さんは、無事なの」
パイモンはしのび笑いをし、私の唇をなでた。
「心配するなよ。きっと今ごろ、天使が復活の祈りを捧げてるさ」
涙がぽたりと落ちた。
信じられなかった。
ううん、信じたくなかった。
「あなたを、信用しはじめていたのに……」
「へえ、悪魔を?」
パイモンはおかしそうに笑った。
「お馬鹿さんだなあ、カヤちゃん。悪魔を信用するなんてどうかしてるよ。コタロー君にも言えることだけど。君らはほんと、面白いよねえ。でも、嫌いじゃないよ」
「パイモン。コタローだけでも、解放して」
私は頼んだ。
「私は帰る場所がないの。だから帰れなくてもいい。コタローを……」
「カヤちゃん。あいつが好きなんだねえ」
涙がこぼれ落ちた。言葉にされると、それは事実として固められてしまったようで。否定の言葉も、ただの恥じらいとして自分の中で昇華されてしまいそうで。
「変なことじゃないよ、カヤちゃん。被害者が加害者を好きになる事例は、終わりの日にいくらでもあったんだ。君はおかしくないよ。誰が誰を好きになるかなんて、決まりはないんだ」
パイモンがにっこり笑う。
「ねえ、安心した?」
「……来ないで……」
パイモンがますます笑う。顔が近づく。
「かわいいなあ、カヤちゃん」
私は身を引いて目を閉じた。パイモンが私を抱き寄せる。
「ねえ、カヤちゃん。キスしてもいい?」
私は首をふった。
逃げようとした。
でも、動けなかった。
そっと、パイモンが離れたのがわかった。目を開けると、すぐそばにいた。首をかしげ、悲しげな顔をされた。
「おれじゃだめ?」
おれじゃだめ? どういうことだろう。しばらく考えて、そうか、と思った。コタローだったらいい、と思っている自分がいた。
「……うん。だめ」
パイモンの指が、私の頬を流れる涙を拭いた。
「そうか、わかったよ」
そう言って、キスをした。
抵抗して、叩いて、引っかいて、わめいたのに、パイモンは私をがっちりつかんだままだった。口の中に舌が入れられ、のどの奥から悲鳴を上げた。助けを求めて、必死で叫んだ。永遠に感じた。だけどきっと、それは二秒もなかったと思う。
銃声が響き、衝撃とともにパイモンが私から離れた。ふり返ると、包帯から血をにじませたコタローが、荒い息をついて猟銃を下ろしたところだった。私の頭をかすめてパイモンを撃ち抜いた弾は、お社の壁に穴を開けていた。
「ひどいなあ、コタロー君」
パイモンが倒れたまま頭に手を当て、とぼけた声を出した。
「君の命を救ってやったんだぜ。カヤちゃんの処女くらい、くれたっていいだろ」
起き上がったその左目は、ぽっかりとえぐれていた。血は出ていない。霊者に身体はない。
「そういうのは、お互いの合意があってからするもんだ」
コタローが言うと、パイモンは笑った。
「迷子のくせに、いい子だねえ」
コタローは猟銃に寄りかかるようにしてその場にずるずるとしゃがみこみ、咳き込んだ。私はあわてて駆け寄った。
「血が……」
「おまえは大丈夫か」
「私はいいの。それよりコタローが……」
どうしよう。撃った衝撃で、傷口が開いてしまったんだ。
パイモンはけらけら笑った。
「あーあ、ぜーんぶ無駄だ! 無駄だった! ああ……くそが。殺し方なんてあんのかよ。死に方なんかあんのかよ。なんでおれが知らないんだ。このおれが。くそっ。ふっざけんな!」
怒鳴ったかと思うと、お腹を抱えて笑い出し、ひーひーと転げ回った。
――頭がおかしい。私はひたすら目の前に集中した。コタローの包帯を縛り直し、血の勢いを止める。コタローは締め上げる瞬間に小さくうなったけれど、ひたいに汗を浮かべてお礼を言った。
「行こう」
こんな時なのに、その手に触れたことで、顔が真っ赤になった。コタローは立ち上がり、顔をしかめてパイモンを見おろした。
「これ以上ここにはいられない。おいとまさせてもらう」
それまで馬鹿みたいに笑っていたパイモンが顔を上げ、叫んだ。
「キスしてやれよ! カヤちゃんは、そうされたくってうずうずしてんだ!」
「だまれ、悪魔」
「コタロー君、おれにはおまえの考えていることがわかるぜ」
パイモンはひそやかに言った。
「カヤちゃんをこんな目に遭わせた奴に、ちゃんと心当たりがあるんだろ?」
コタローがぴたりと動きを止める。口を結び、じっと床を見つめている。
「おいおい、ちゃんとカヤちゃんに教えてやれよ! 誰がノームを殺したか。カヤちゃんには『ノームには敵がいっぱいいた』なんてごまかしたな。なんで思ったことを言わなかった? コタロー君、ノームが死んだときいた時から、おまえには犯人の目星が、ちゃあんとついていたじゃないか」
「ノームには敵がいた」
コタローは短く答えた。
「それはうそじゃない」
「ああ、そうだな。でもさ、タイミング的に、ノームを殺したとしか思えない奴が、一人いただろ? 追いつめられて、ノームを殺しかねない悪魔を、おまえは一人知っていただろ?」
パイモンは笑った。
「おれはちゃんと、『知ってる』んだぜ」
私の手をつかむコタローの手が、ゆるくなった。まるで、希望を絶たれた人みたいに。私はその手をふりほどき、相手の手首をがっちりつかみ直した。
「行こう」
本当は気になっていたし、不安だらけだった。でも、今はいい。今は一刻も早く、この狂った悪魔から逃げ出したい。コタローが叱られた子どもみたいな顔で私を見た。ちがう。そんな顔を見たいんじゃない。
「カヤ。おれは……」
「いいの。聞きたくない」
「残念だなあ、コタロー君。ノームが死んじゃって、おまえの計画は最初っから無駄になっちまった。どうすればあいつは戻ってくるかね? なあ、おれに頼み込んでみろよ。おれは悪魔だ。地の底でもどこへでも、あの女を捜しに行ってやるぜ。ノームを殺した罪で、あいつが神に殺されてなければな!」
私たちは神社を出た。パイモンの笑い声がどこまでも追いかけてくる。私はコタローを支え、ひたすら歩いた。
迷子たちがじろじろと視線を投げてくる。「どこ行くんだよ」と声をかけられる。そのたび無視して歩き続けた。私の肩に猟銃がかかっていた。それが目を引くんだろう。終わりの日の武器。所持しているのは、厭世家の証しだ。
一心不乱に進み続けた。やがて廃墟が開け、コンクリートの溝に突き当たった。両側に向かってどこまでも伸びている。中には緑が生い茂り、きらりと光る水面をみとめて気がついた。川だ。
コタローが私の肩を強くつかみ、「ごめん」と息をついた。身体が熱い。私はきょろきょろと見回して、ブロック塀までコタローをひきずった。座り込んで手を握り、顔をのぞき込む。
「大丈夫?」
「……ああ」
「ずっと握り返していて。気絶なんかされたら、どうしたらいいのかわからない」
「……そしたら、おれを捨てて、パイモンのとこに戻れ」
私は目をむいた。
「犯されるってわかってるのに?」
「迷子たちに廻されるよりましだ。霊者は病気を持ってない」
「絶対、お断りなんですけど」
コタローは間を空けてから、そうだよな、と認めた。
「気絶しないよう踏ん張るよ」
コタローはちょっと笑った。その顔は、一生懸命がんばって、やっとほめられた子どもみたいで……これだ、と思った。私が見たかった顔は、これ。
「……パイモンが言ってたことだが……」
「いい。聞きたくない」
「聞いてくれ。おれは隠してた。巻き込みたくなかったんだ」
私は力なく笑った。もう、これ以上ないってくらい、巻き込まれてる。
「おれは迷子だ。悪魔アリトンのもとで、残りの人生を神への反逆者として生きようと決めた」
「なんか、言葉にすると馬鹿みたい」
「おれもそう思う」
コタローは笑った。
うん、これ。
私が好きな顔はこれだ。
胸が苦しくなる顔はこれ。
せつなくて、いとしくて、泣きそうになる顔はこれ。
「アリトンがノームを殺したんだと思う。方法は知らないが、おまえは利用された」
「……うん」
「あいつは迷子たちに別れを告げて出て行ったから、パイモンの言うように、もう死んだのかもしれない。そうなると……おまえは罪をなすり付けられたまま、千年王国が終わるまで生きなきゃならない」
「……うん」
「そうはさせない」
私は笑った。力なく。
「どうやって?」
「……わからない」
そうだよね。私もわからない。けど、ひとつだけわかっていることがある。今起こっていること全部がどうでもいいと感じるほどの、真実がひとつある。
「コタロー。お願いがあるの」
「なんだ」
私はうつむいた。どうしよう。なんて言えばいいのか、わからなくなった。胸がぎゅっと握りつぶされて、死んでしまいそうな気がした。
「……はじめてだったの」
「え?」
「……男の人と、はじめてキスしたの」
コタローはだまり込んだ。私は真っ赤になって、うつむいた。コタローは私の今後を心配してくれているのに。私はとるに足らない自分の純潔で、ぎゃーぎゃーわめいてる。きっと、そう思われてる。
「……ごめん。守ってやれなくて。おれも中にいて、見張ってるべきだった」
「ちがうの。ちがう。そうじゃなくて……」
ああ、もどかしい。自分が恥ずかしい。私は何を言おうとしているの?
ガルにだって、こんな熱望を抱いたことはなかった。他の誰にも、こんな高揚を感じたことはなかった。なのに、どうして。
かっこいいとは思えない。背も低いし、言葉遣いは乱暴だし。ぱっと、いいとこをあげることができない。……でも。
私はじっとコタローを見た。頭が熱を持っている。沸騰してるみたいだ。何も考えられない。ひとつのこと以外は。
「キスしたいって言ったら……引く?」
黒い瞳が見開かれた。口がほんの少し開いて、また閉じて、首をふった。
「引かない。だけど……」
「……私じゃ、だめ?」
あれ、なんか聞いたことがあるな、このセリフ。私の心は急速にしぼんだりふくらんだりをくり返していた。コタローが何を考えているのか知りたい。コタローの返事が聞きたい。
「なんで……」
コタローはうつむいて言った。
「……おれはおまえに……やさしくなかったろ……?」
私は泣きそうだった。
「うん」
私、やっぱり頭がおかしいのかな。パイモンの何かが伝染してしまったんだろうか。親が、家族が、もしかしたら故郷の人たちが、死んだかもしれないのに。
コタローが私を見た。吸い込まれてしまいそうな、黒い瞳。彼は永い年月を生きている。結婚しているかもしれない。好きな人がいるかもしれない。
「……でも……好きに、なっちゃった……」
気がつくと、ぽろぽろ涙が転がり落ちていた。止まらない。きっと、コタローは呆れてる。私だって、第三者だったら「ばかみたい」って思うだろう。家族や友達だったら、全力で止めに入るだろう。なんでよりによって、そんな奴を好きになるの? やめなよ、って。
コタローが私の髪に触れた。それは熱を持って、身体に火をつけたみたいだった。
「本当にいいのか」
こくんとうなずき、目をあげた。複雑な顔をしたコタローが、小さな声で言った。
「わかったから……泣くなよ」
私は泣いた。たぶん、さっきとは正反対の理由で。
二人が近づく。心臓が高鳴って、頭が酔っていた。何もかもどうでもよくなって、今この瞬間が、私のすべてだった。
聞いたことがある。不完全な人間は子どもを産むのも命がけで、妊娠するには生存本能を麻痺させる必要があった。そのために、恋があった。相手を欲する脳内麻薬。今の私がどっぷり浸かっているものの正体は、たぶんそれ。でなければ説明がつかない。どうしてこんなに惹かれるのか、理解できない。
唇と唇が重なった。そっと、あっけなく、終わった。コタローは泣きそうな顔をしていた。でも、いやがっている顔ではなかった。充分だった。そうだよ。幸せだ。
「おまえってさ」
コタローが言った。私たちはじっと見つめあった。
「笑うと……なんていうか、すごく……」
「……なによ」
コタローは赤くなり、口に手を当てて目をそらした。
「なに?」
「待てよ。こういうの、ほんとに慣れてない」
「なにそれ。日本人って、みんなそうなの?」
私は笑った。胸がどきどきして、あたたかで。
「……最初は、怒ってる顔とか、怯えてる顔しか見なかったから……」
「そりゃ、誘拐されればね」
私は呆れて笑った。コタローがちらりと私を見た。
「笑うと……いいよな」
真っ赤になって言った。もしかして、照れてるの?
「おまえって、笑うとすごく……いいよ」
私は笑ってみせた。コタローのすべてのご要望に、お応えしたい気分だったから。
もう一度、コタローに顔を近づけた。大胆な自分に驚いた。でも、本能では止められない。コタローが私の頬に手を添え、もう一度唇を重ねようとした、その時。
「あ、コタローだ」
鈴のような声がして、私たちはパッと離れた。ふり返ると、知らない女の人がいた。これまでの人生で見たこともないほど美しい人。にこにこしながら私とコタローを指差している。コタローが動揺して言った。
「カ、カエラ。なんでこんなとこに?」
「散歩してたの」
「さ、散歩?」
コタローはハッと川をのぞき込み、「あ、これ、隅田川か……」とかすれた声で言った。
私は軽くショックを受けていた。こんなにきれいな人と、コタローが知り合い?
「厭世家にトーキョーを案内してたの」
カエラと呼ばれた女の人は、ふり返って「コタローがいたよ」と声をかけた。道の角から人影があらわれて、私とコタローは固まった。
日本刀をたずさえたコバが、私たちを見おろしていた。
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