▽愛する人を失った孤独
目を覚ましたとき、コバは自分がどこにいるか、一瞬わからなくなった。
天井は思ったよりも低く、四方は壁に囲まれていて、窓があり、朝日が彼女を目覚めさせた。起き上がろうとして、彼女は気がついた。自分が車の中にいること。その後部座席に眠っていたこと。そして、運転席に深く身を沈める人物に。
兄と同じ顔をした天使は遠くを見つめ、コバが起きるのを待っていた。
「スメル様」
コバがおそるおそる声をかけると、天使はこちらをふりむきもせず、ゆっくりとまばたきをした。
「スメルでいい」
「……おはようございます、スメル」
「よく眠れたか」
「はい、おかげさまで」
「では、朝食としよう」
スメルは外に出ると、後部座席のドアを開けてコバが這い出るのを待った。そこには荒廃した都市が広がっていた。
記憶が残るかぎり、はじめてコバとして目覚めたのも、このような廃墟の街だった。植物が朽ちかけた建築物を覆い隠し、遠くにうっすらと、塔がそびえている。
「私はどのくらい眠っていたのでしょうか」
「五時間ほどだ。君の体質からいうと、充分な睡眠時間だろう」
「スメルはずっと運転をなさっていたのですか」
「私は眠る必要がない」
車の外には簡単な朝食が用意されていた。スメルのすすめるまま、コバは崩れたブロック塀に腰かけ、パンとスープを食べた。慣れない味の具材があったが、まずくはなかった。
食べ終えると、スメルはコバをせかした。彼は一口も食べなかったばかりか、水分すら必要としていないようだった。ここでコバの起床を待ち、食事をとらせることで、スメルの迷惑になってはいないか。コバはそればかり心配した。
「人間には人間のペースがある。合わせてやることも必要だ」
コバが不安を口にすると、スメルはハンドルを操作しながら肩をすくめた。
「昨日、イズルに言われて思い直した。無理をさせて死なれては、結局怠けた以上に手間がかかる」
コバはひざの上でスカートを握りながら、そうですか、と形だけほほ笑んだ。ほほ笑みながらも、萎縮していた。
スメルは車を停め、エンジンを切った。スメルのながめる先を、コバも首をのばして見た。倒壊しかけた建物群の中にあって、他より少しましに見える、二階建ての石の家。ちらほらと人間たちが出歩き、笑い合ったりいさかいをはじめているが、その家には人の気配はなかった。と思った矢先、玄関が開いた。
巨漢の男が、脂肪を揺らしながらのそりと出てきた。遠目からでも、のんびりとした笑みを浮かべているのがわかる。こちらに目を向けることもなく、のっしのっしとどこかへ歩いていく。
「……スメル、ここは……」
「昨日イズルが言っていた、秘密の悪魔の根城だ」
スメルは淡々と答えた。
「だが……どうやら、悪魔は留守にしているらしい」
家から目をそらし、スメルはコバを見た。
「行って、様子を見てきてくれ。心配はいらない。中に悪魔はいない」
「他に誰かいるのですか」
「迷子がいるだろうが、人数まではわからない。エデンの外では人間の居場所ははっきりしないからな」
「迷子」とは、信仰心が欠けた人間のことだと、昨日の時点で聞いていた。そんな人間だったら、これまで腐るほど会っている。
「私はここでは異質な存在だ。できるだけ目立ちたくない。行って、カヤがいれば捕らえてこい。いなければ、迷子に心当たりを問いただせ。一時間して戻らなければ私も行く。対処に困れば、呼べ。すぐに行く」
「承知しました」
コバがドアに手をかけると、スメルが「これを」と後部座席に手を伸ばした。差し出されたのは、日本刀だった。
「誰かを斬る必要はない。身分を示すために持っていきなさい」
「警戒されないでしょうか」
「警戒された方がいい。迷子と接するときは、心持ち横柄な態度でのぞむように。あなどられると命取りになる」
「……わかりました」
コバは刀を受け取って車から降りた。他の迷子に目をやる。彼らはまだ、コバの手に握られた、厭世家の武器に気づいていない。
コバは歩いていって、目指す家の前で立ち止まり、外観を目に焼き付けた。石の家だとコバが思っているものはコンクリートの家だったが、彼女には知る由もない。ただ、継ぎ目のない不思議な石だ、と思うだけだった。コバは玄関のドアを叩いた。しばらくなんの反応もなかったが、やがて扉が開く。
コバは、はっと息をのんだ。これまで目にしたこともないほど美しい女が、かげりを含んだ笑みを浮かべて立っていた。
「どちら様?」
女がにこりと問いかける。コバはぽかんと開けた口をあわてて閉ざし、背筋を伸ばして言った。
「私は厭世家のコバ。カヤという女性を捜しています」
女は紫色の瞳でコバを見つめた。あどけない表情の顔を曇らせ、首をふる。
「私は知らない」
「知っている人はいますか」
「イトナとガズラが知ってるかもしれない」
女はドアを少し広げた。瞳が、今度は金色に輝く。コバは気づいた。光の加減で色が変わる、虹色の瞳だ。
あらためて、なんと美しい女性だろう。コバはため息をついた。肌はすきとおるようにきめ細かく、長い髪は白と金色に輝いている。その笑みは誰をも幸せにしてしまうかのように、うれしげに見えた。
「ガズラはたった今、出かけてしまったの。けど、イトナがいるよ」
「お話を聞けますか」
妙な間があった。女は確かに笑っているのに、どこかためらうような時間差を置いて、にこりと笑った。
「いいよ」
心の中で違和感がうずく。その違和感を確認する前に、女はコバに入るよう促した。車から見ているスメルからは、視界から消えることになるが、怖くはなかった。
玄関を抜けると居間があった。正面に暖炉がすえられ、二階へ上がる階段と、その横にドアが一枚、奥にもう一枚。近いほうのドアの床に、引きずられたような血の跡があるのに彼女は気づいた。
居間には応接セットがあり、男が一人、本を横に開いたような道具のボタンを押していた。コバと女が入っていっても男はまるで反応を示さなかったが、ふと目を上げ、コバを見た。彼はよろけるように立ち上がり、後ずさろうとして派手に転んだ。コバはすぐに駆け寄って手を貸した。しかし、男は目を見開き、硬直した。
「大丈夫ですか」
コバは手を伸ばした。彼がつかんでくれればと思いながら。
「どうしたんです。立ってください」
男は何も言わない。口を閉ざしたままコバを凝視して、かすかに首をふった。
――どこかで会っただろうか。
そうだとしても、不思議はない。コバは千年王国で過ごした978年分の記憶を失っている。
「イトナは耳が聞こえないの」
鈴のような声がした。コバがふり返ると、女はにこにこしながらこちらを見て、ソファのひとつに腰かけるところだった。
「けど、厭世家だったら、そういう人間がいるってことも知ってるでしょう?」
「それは……もちろん……」
「コタロー以外の厭世家が来るのは初めて。こっちに座って。話が聞きたいな」
「でも、この人が今、困っているでしょう」
コバはそう言って、イトナと呼ばれた男をふり返った。
男は、最初の動揺はおさまっていたが、やはりどこか落ち着かない顔でコバをじっと見ていた。浅黒い肌。ひょろりと背が高く、立派な服を着ている。
耳の聞こえない人間をコバは一人知っていた。となり村にいた女性で、家族以外とは孤立し、ジェスチャーでなんとか意思の疎通を図っていた。この男も、そうなのか。しかし千年王国では、こうした障害は取り除かれるはずでは?
「イトナは一人でも立てるよ」
女は言った。その言葉は、あまりにもつるりとしていて――コバは寒さを覚えた。スメルにも、何度か感じている寒さ。言葉の上では理解を示しながらも、腹の底では何が本当かわからない、小さな小さな、違和感。
コバが迷っているうちに、イトナは立ち上がっていた。
「私、カエラ」
女は自分のとなりに手を置き、コバに座るよう促しながら言った。
「イトナと話をしたいんでしょ。私が通訳してあげる」
カエラはにっこり笑った。
コバはカエラと少し離れて座った。しかし、カエラはにこにこしながら身を寄せ、コバの手を取り、指をからませた。思わずその手を払いのけ、コバは身を引いた。
「ねえ、私とセックスする?」
あっけにとられた。カエラは子どものように無邪気な顔で笑いかけている。
これが、迷子。神の教えを欠けらも気にしない、娼婦なのだと、コバにはわかった。彼女の村に、ここまであからさまな神の叛徒はいなかった。彼女の生きた時代は、神の教えを守るのが生きる上での常識であり、当然の生き方だったのだ。
目を白黒させているうちに、イトナが正面のイスに座り、手を動かした。カエラはそれを見てうつろにほほ笑み、「はーい」と言いながらコバに笑った。
「ごめんね。怒られちゃった」
「彼が何を言おうとしているのか、わかるのですか」
「うん。コタローが手話を教えてくれたから」
カエラは緑色の瞳をきらめかせ、コバを見つめた。
「あなたも知ってるんじゃないの? だって、厭世家でしょ?」
「私が生きたのは、ハルマゲドンより五百年以上前の中世だと聞かされています」
コバは目を伏せて答えた。
「ろうあ者と意思疎通をはかるすべは……私の時代にはありませんでした」
「ふふ。じゃあ、無垢な迷子と同じだね」
カエラの笑い方が、どうもコバには薄気味悪く感じられた。本気でおもしろがっているようには見えない。どこか達観したような、薄ら寒い笑顔だった。
「彼に通訳してくださいますか」
「自分で聞きなよ」
カエラはにこにこと言った。
「こっちから話す分には、理解するよ。イトナは目がいいから」
つまり、唇の動きで言葉を解するということか。それなら、となり村の女性も同じだった。コバはイトナを見た。気まずそうな、居心地の悪い視線が返ってきた。その視線に、思わずコバは任務を忘れた。
「……どこかでお会いしたでしょうか」
イトナが目をそらす。彼は立ち上がり、さっきまでいじっていた道具をとってくると、並んだボタンを押しはじめた。そしてくるりと返して正面をコバに向けた。
コバは生前、ポーランド人として生き、他の言語を学んだことはなかった。しかし、彼女の前に示された文字を、彼女は理解することができた。バベルの塔以前に使われたヘブライ文字。彼女はそれまで気がつかなかったが、今この瞬間も、人々との会話はヘブライ語で交わされていた。
イトナが示したノートパソコンには、こう書かれていた。
『あなたがなぜここに来たのか、彼女の前では言わないでくれ』
イトナはカエラに向かって手を動かし、何かを伝えた。カエラが首をかしげる。
「なんで? 私、ここにいたい」
イトナは首をふった。カエラの顔が、初めて不快げにゆがむ。
「私はコバの話が聞きたい」
イトナがまた、何かを示す。「でも」と言いかけるのを、イトナの手が追い打ちをかけるように動く。
カエラはだまって立ち上がった。何も言わず、玄関に向かうカエラを、コバは放っておけなかった。思わず立ち上がり、追いかけて引き止め、言った。
「自分の身体を安売りするのはやめなさい」
カエラはコバを見上げ、ふふっと笑った。
「すごい。厭世家はみんな、言うことが一緒だね」
「あなた自身のために、大切なことよ」
コバはイトナに背を向けて言った。唇の動きを見られないように。
「私も生前、多くの男たちに辱められた。裁判の取り調べで、求められた証言をしなかったせいで。彼らは詰問のための必要な手続きと言っていたけれど」
カエラはコバを見つめた。
「けど、14万4千人は、清らかな人間だけのはずなのに」
「私も意外だったわ。しかし、神は私の身に起きた罪ではなく、私の心をかんがみてくださったのだと、理解している」
カエラは無言だった。コバはどうしても、彼女を救いたいと思った。
「いつでも、何をしてしまったあとでも、遅くはない。誰が何を言おうと関係ない。神が許してさえくだされば。たった今から、あなたは神の信者になれるわ」
カエラはうすく笑った。無頓着に見れば、ただの無邪気な笑顔だったろう。しかしコバはその笑みに、深い悲しみとかすかな希望を目にした。
「もしもあなたが、誰かのせいでそれが叶わないと感じるなら。誰かに無理やり、辱められているのなら」
コバは言った。その手には日本刀が握られたままだった。
「私に言いなさい。死ぬ気であなたを守り抜くと、今ここで神に誓います」
カエラは声を立てて笑った。コバに抱きつき、すぐに離れた。
「散歩に行ってくるね」
「気をつけて」
「私が帰ってくるまで、まだいるよね?」
「わからない」
「きっといてね」
カエラはにこにこしながら家を出た。間違いなく、にこにこしていた。しかし、彼女は泣いていた。間違いなく。
コバはふり返り、座ったままのイトナをにらんだ。カエラを泣かせたのは誰だろう。こいつか、それとも、あの太った男か。返答次第で、コバの日本刀はうなりをあげるだろう。
「それで……私は迷子のあなたと、知り合いだったようね?」
コバは冷たい声で言った。
見知らぬ男と二人きり。
カエラに対するときのような優しさは欠けらも残っていなかった。コバはこれまで、ろくな男に出会っていない。彼女の豊満な体つき、両親不在の弱い地位。不当な魔女裁判にかけられる前から、彼女を襲う男はいくらでもいた。そのたび彼女は、兄を悲しませないよう、必死で隠した。
イトナはパソコンのキーボードを叩き、彼女へ向けた。
『あなたは記憶がないようだ。死んだのか?』
コバはうなずきながらも、質問をかわす男にイラつきはじめていた。自分の情報は出し惜しみしつつ、相手のことは知りたいのか。勝手な男だと思った。
「ノーム殺害の件で、カヤという女性を追っています。事件の際、私がトーキョーの近くにいたということで、この任務が与えられました。カヤを追いつめた際、悪魔によって殺されたと推察されます」
イトナはしばらくだまっていたが、パソコンに文字を打ち、コバに向けた。
『カエラにノームの話をしないでくれ。彼女はノームを慕っていた。彼の死を知らせたくない』
「いずれ知ることだわ。隠してどうするんです?」
イトナはもう一度パソコンに記した。
『22年隠し通す。どうせあの子は滅ぼされる』
「『どうせ』? なぜあなたが決めつけるの?」
コバは不機嫌に言った。
「そんなのわからないでしょう。あの子が悔い改めれば、神は救ってくださる」
彼女ははっきりと悟った。自分はこの男が嫌いだと。
コバは任務を思い出し、さっさと切り上げようと本題に入った。
「カヤについて、何か心当たりはありますか。この家を根城にするアリトンが、この事件にもっとも関連性があるとされているのですが」
イトナはパソコンを自分へ向け、キーボードをたたいた。こちらへ向けたり、あちらに向けたり。コバがイトナのとなりに座れば手間は省けただろうが、彼女はそうしなかった。イトナも、彼女のとなりに座る気はなさそうだった。
イトナがパソコンをこちらに向ける。コバは読みながら、はっと声が出た。
『カヤを拉致したのは自分たちだ。あの女はノームの死の直後、偶然自分たちのバスジャックに乗り合わせた。件のバスは家の裏に止めてある。一昨日の話だ。しかし、カヤはエデンの境界でバスから飛び降りた。消息は知らない』
「では、罪を認めるのですか。あなたが、カヤを誘拐したグループの主犯?」
イトナは肩をすくめた。コバは怒りを覚え、乱暴にパソコンを突き返した。
「それだけじゃわからない。書いて答えなさい!」
イトナはびくびくしながら――そう見えた――キーボードをたたいた。
『言い出したのはコタローだ。ノームから人質を取ろうと言った』
コタロー。元々はイズルの従者でもあった、迷子の厭世家。
「なぜです? なんのために?」
イトナは首をふった。コバは舌打ちした。
「わからないわ、言ってくれなければ。きちんと一から十までここへ書き記しなさい。あなたは今、罪を告白しているのよ」
それまであまり変化のなかったイトナの顔がに、ふっと笑みが浮かんだ。罪、という言葉に、何かおかしさを感じたように。
『あなたは相変わらず、気の強い女性だ。おれはあなたが苦手だった。迷子になると決めたときも、あなたには会わないように気をつけて、弟にあいさつに行った』
「話をそらさないで。コタローは今どこにいるの?」
イトナが改めて書いた文章を、コバはイライラしながら読んだ。読みながら、震えた。思ってもいない言葉が並んでいた。
『ノームが殺されたとき、あなたがどうしてトーキョーの近くにいたのかを知っている。あなたはおれを探していた。おれを殺しにきた。復讐するために。おれはあなたの夫を、おれの弟を殺した。おれはあなたに殺されても文句を言えない』
コバはイトナを見つめた。イトナはうすい笑みを浮かべていた。あきらめきった、覚悟した顔。日本刀を握るコバの手が、かたかたと震えた。
コバは知らない。彼女は何一つ覚えていなかった。978年間のことを。自分がどう生きたかを。
天使スメルは言った。彼女には二世の夫があり、12人の子どもたちがいると。しかし、彼女にはぴんと来なかった。
コバはいかなる男にも警戒心を抱いた。兄以外の男性とは、口をきくのもいやだった。そんな自分が、結婚できるとは思えなかった。ましてや、愛し合い、子どもを産み育てるなど、あり得ないと思った。
しかし、そんな自分が愛したとするならば。その人は彼女にとって、間違いなく特別で。心を許した相手で。殺されたならば、彼女は許せないだろう。たとえそれが、義理の兄であったとしても。それはわかる。きっとそうなのだろうとわかる。
それでも、彼女は。
ぴんと来ないでいた。
コバは立ち上がった。イトナを無視して、その家を出た。遠くに車が停めてあるのが見えた。彼女は歩きながら、握った日本刀がひどく邪魔に思えた。舌打ちをして日本刀を道路に投げ捨てると、乾いた音が廃墟の街に響いた。コバは助手席に回り込まず、運転席のドアを開けた。兄の顔をした天使が虚をつかれた顔でコバを見た。
「どうした。中で何がーー」
「私は、夫を殺した義理の兄を殺すために、この地へ来たのですか?」
彼女は半分叫んでいた。スメルは目をしばたき、中で何が起こったかを悟った。
「そうだ」
「知っていたのですね」
「知っていたが、あなたにわざわざ言うはずないだろう。復讐は神が行われることだ。あなたは記憶をなくし、道を踏み外さずにすんだ」
「私は、自分の夫の名前も知らない!」
コバはこぶしを握った。涙も出ない。死んだという夫のことを考えてみても、何も感じない。何ひとつ。
彼女の気が強いのは、兄にさんざん言われて知っていた。村の人間にも、扱いにくい女だと陰口を叩かれた。こんな自分を、愛してくれる人がいたのに。こんな自分が、愛せる人がいたのに。その愛さえ、彼女には存在しないも同然だった。愛する人を失った孤独さえ、彼女には感じることもできない。
スメルの手が肩に置かれ、コバはふり払った。
「なぜ、私に手を差し伸べるのです」
彼女はぎらついた目でスメルを見た。もう、限界だった。
「なぜ、兄の顔で私に近づくのです。私は神に禁じられた『復讐』に手を染めかけた女ですよ。私は、迷子と変わらない――」
「あなたは復活を遂げた。信仰心は海よりも深く、山よりも――」
「聖書の言葉を引用するな!」
コバはハッとして、スメルを見た。天使は不快な顔で彼女を見ていた。
――もう、だめだ。
彼女はこの天使に、心から信頼を寄せることができなかった。尊敬の念を抱くことができなかった。彼女の信仰の対象は、天使ではない。ただ一人、神だけだった。
「申し訳ありません、スメル様」
彼女は無礼を詫びた。
「私は……あなたを信用できません」
スメルはじっとコバを見た。小さくため息をつき、運転席に深く沈み込んで、思いがけないことをした――涙を流したのだ。
「私はどうしてこうも、愛がないのだろうな」
天使は言った。嘆いた調子ではなかった。心の底から、不思議そうだった。
「スメル……」
「これだけは誤解しないでくれ。アリトンの家にイトナがいるとは知らなかった。まったくの偶然だ」
コバはうなずいた。恐ろしい疑いが晴れて、ほっとしていた。
「カヤは必ず見つけ出します。しかし、そのあとはもう……」
「わかっている。永いあいだ、ご苦労だった」
スメルはエンジンキーを回した。車が低いうなり声をあげる。
「私はノームの家に行って、引き継ぎをする。カヤを見つけたら、境界の外まで連れだして私に祈りなさい。イトナはあなたの言う通りに動き、あなたを守るだろう。彼は義理堅いところがあるからな」
「……わかりました」
スメルはドアを閉め、窓を開けて言った。
「最後の仕事が終わったら、君の引退を天使たちに共有する。もしも復帰したくなったら、いつでも声をかけてくれ」
そんなことはないと思った。しかし、彼女はうなずいた。兄の顔をした天使が、彼女ににこりと笑いかけた。それは作り笑顔ではなく、本物だと彼女にはわかった。
天使はめんどうくさいとこぼしていた車に乗って、そこを離れた。コバは付き従うべき天使が遠ざかるのを最後まで見届けた。
何か大切なものをなくしたような、孤独を感じながら。
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