*不完全で美しい人間

 気がつくと、朝になっていました。ドアを叩く音がして、目を覚ました。


 ガズラはいなかった。きっと、仕事でどこかへ行ってしまったんだと思った。最近食べ物が少なくなってきたので、ガズラはまた運転の仕事をしなくてはならないとぼやいていた。


 見ると、イトナがドアを開けて立っていました。私はゆっくりと頭を下ろして、また寝そべった。イトナが部屋に入ってくるのが分かった。

「出て行って」

 私は言った。けど、イトナには聞こえていなかった。私はドアに背を向けて寝ていたので、イトナに私の唇の動きは見えない。


 マットレスが沈んで、イトナが腰かけたのが分かった。私は起き上がって叫んだ。

「出てってよ!」

 イトナは悲しげな顔をした。そして首をふった。私はイトナをペチンと叩いた。イトナは叩かれた頬を押さえるでもなく、ただ悲しそうに私を見た。そして、指をつまんで額に当て、離しながら手で空を切った。これは「ごめん」という意味です。


 私は顔をそむけた。見つめることをやめれば、イトナとの会話は成立しなくなる。だから、私は顔をそむけてイトナを拒否した。


 イトナは私に手を伸ばした。優しい手つきだった。その手をふり払って、部屋を出ました。そしてふり返ってイトナをにらみ、ちゃんと私の顔を見ていることを確認して言った。

「ついて来ないで」

 それで私は家を出た。いつもみんなが集まる部屋には、誰もいなかった。


 私は一人でトーキョーを歩いた。迷子たちが声をかけてきたけど、誰とも話したい気分じゃなかった。この国で一番高い建物に行こうかと考えて、やめた。最近はいつもあの塔へ行っていた。だから、イトナがついてきてしまうかもしれない。私はマットレスを買った雑貨屋へ行くことにした。イトナが追いついて来られないように、曲がり角まで急いで歩いた。


 雑貨屋につくと、私は展示されたイスのひとつに座って、しばらくぼうっとしていました。すると、奥から経営する迷子が出てきた。彼女は私を見て目を輝かせた。

「来てたのね、カエラ」

「こんにちは」

 私はにっこり笑って答えた。女はピアスだらけの顔をほころばせて、私のとなりに座りました。私はほんの少しだけ座り直した。今、誰かとキスしたり、セックスをしたい気分じゃなかった。


「カエラはいつも、幸せそうだね。うらやましいな」

 私は生まれてから一番みじめな気分だったのに、そんなことを言われて悲しくなりました。それで、どうしてそう思うの、と女に聞いた。

「だって、いつもにこにこ笑ってる。こっちまで幸せになるよ」


 私はにっこり笑った。本当だ、と思いました。私はいつでも笑っている。私の心は泣いているのに、外から見たらいつも同じに見えるらしい。それを言うならイトナもそう。イトナはいつでも仏頂面だから、いつも同じに見える。本当は悲しかったり、穏やかだったりするのに。


 私はいつも幸せそうだとみんなに思われる。それで、人々は私から幸せを分けてもらいたくて、セックスをしたくなるのかもしれない。私はみんなをだましているような気分になった。自分が情けなくなった。



 女は私の手を握ってくれました。私は相変わらず、うれしそうににっこり笑った。本当は、心の中は死んでいた。女は私にキスしてきた。私もそれに応えた。だんだん女は激しくなった。それで私も、彼女の下着の下に指をすべらせ、彼女のあえぎ声を聞いた。彼女は濡れていた。私もそうでした。


 女は雑貨屋のドアにかかっている看板を「閉店中」に変えました。それで私たちは床の上に転がって求め合った。頭がくらくらして、全部どうでもよくなった。私たちはお互いが満足するまで、それをずっと続けました。


 すべてが終わると、私たちはしばらく抱き合って床に寝そべっていた。女は私の頭の下に自分の腕を敷いて、枕にしてくれた。女は私の頭を優しくなでて言いました。

「なんでもひとつ、持って帰っていいよ」


 私は寝そべった彼女の、浮き出たあばら骨を一本ずつなぞっていました。しばらくは何も思いつかなかった。目を上げてごちゃついた店の中をながめたけど、やはり何も欲しいとは思えなかった。私の頭の中には、久しぶりのセックスへの達成感と、これまでになかったほどの罪悪感が竜巻のように襲いかかっていた。


 私は彼女のおへそに指を入れて言った。

「悪魔を殺せる道具はある?」

 女はびっくりしたように目を広げて私を見た。けど、しばらく考えて言った。

「ないな。人間なら殺せるけど」

 私は少し考えてみた。けど、殺したい人間はいなかった。イトナの顔を思い浮かべたけど、やはり殺したいと思うほどではなかった。


「どんな道具なの?」

「毒だよ」

 彼女はひっそりと言った。私にキスをして目を合わせた。彼女の瞳は灰色でした。とてもきれいだと思った。


「終わりの日の技術で、本当はネズミを殺す毒だけど、人間にも使える。今はないけど、取り寄せるよ。でも、私には使わないでね。私、死んだらきっと復活できない」

 私は、彼女には毒を使わないと約束した。私たちはくすくす笑いながら服を着て、名残惜しげにキスをした。それから雑貨屋をあとにした。


 私は罪悪感に押しつぶされそうでした。誰かとセックスをしたのは、本当に久しぶりだった。心が重くなって、とげがちくちく刺さった気がした。けど、身体では幸せも感じていて、それが余計に私の心を苦しめた。私は私が汚れたような気がした。けど、これは私じゃなくてアリトンの心だから、汚れたっていいかもしれない。私はアリトンを殺したいから。



 家に帰ると、イトナが玄関先に座って私を待っていた。彼は立ち上がって心配そうな顔をした。そして手話で示した。

「どこへ行っていた? 迷子に乱暴されなかったか?」

 私は首をふって家に入った。ガズラはいなかった。アリトンもいませんでした。イトナをふり返って聞いた。

「アリトンは?」

 イトナは首をふった。それは「知らない」という意味だと私には分かった。


 私は部屋を横切って、ガズラの部屋に入ろうとした。するとドアを閉める直前にイトナが引き止めた。私はイトナをにらんだ。イトナは示した。

「ごめん」

 私は顔をしかめた。

「ごめんって、何が?」

 彼は示した。

「今までのこと」

 私は笑った。今までの全部がイトナにとっては過ちだったと言われた気がした。

「私はセックスがしたいだけだった。イトナもセックスをしたいだけだった。それでこの話はおしまい」

 本当はおしまいだとは思っていませんでした。けど、気づいたらそう言っていた。


 イトナは悲しそうな顔をしていた。他の人が見たら、いつもと同じの仏頂面だったけど、私には「悲しい」と分かる顔をしていた。もしかしたら、イトナも私の笑顔を見て、うれしいか悲しいか、見分けることができるかもしれない。彼はいつも私を気にかけて、的確に心配してくれた。いつもそうだった。そうだったのに、その全部は彼にとって、過ちだった。


 イトナは示した。

「カエラのことは、好きだ」

 私は笑って肩をすくめた。

「イトナ。ドアを閉めさせて」

 イトナはじっと私を見つめていたけど、やがてドアを閉めた。それで私はガズラの部屋に引きこもって、ノートを広げて、今までに書いた自分の文章を読み続けた。



 夜になった。私はまだガズラの部屋にいた。イトナが何度か来て、食事をしようと示した。けど、私は無視した。それでもイトナがあまりしつこかったので、お腹がすいてないと嘘をついた。本当はお腹がぐうぐうなっていたけど、イトナには聞こえないので良かったと思った。


 寝る時間になると、ガズラが部屋に入ってきた。彼は食べ物をどっさり抱えて、自分のベッドの上に置いた。彼は揚げたじゃがいもを食べながら私を見た。

「お腹がすいてないってほんと?」

 彼にとっては信じられないようでした。折よく、私のお腹が鳴った。ガズラは笑った。そして私に一番おいしいお肉をくれようとしたけど、ためらって、二番目においしい部分をくれた。彼は意地悪なのではなく、何よりも食べることが好きなので、そうした。けど、二番目をくれるのは、彼が優しいからだと思う。


 私はお礼を言って食べはじめた。食べながら、私は訊いた。

「アリトンは?」

「知らない。また、どっか行っちゃった」

 彼は興味なさそうに言った。ガズラは昨日のことがあってからも、何事もなかったように平然としている。きっと食べ物以外には本当になんにも興味がないのです。


 私はガズラが不思議に思えた。イトナが今までどうしてきたかは知っている。コタローがどこから来たかも知っている。けど、私はガズラのことを何も知らない。今まで気にもならなかったことが不思議でした。


「ガズラはアリトンをどう思ってるの?」

「悪魔だと思ってるよ」

 それは確かにその通りです。

「じゃあ、私のことはどう思ってるの」

「カエラはカエラだよ」

 ガズラは答えた。


 私は、今日セックスをした雑貨屋の迷子と、彼女がくれる毒のことを考えた。きっと、私がアリトンを殺すつもりだと知ったら、イトナは止めるだろうと思った。けど、ガズラはどうなのか、わからなかった。


「ガズラは私とアリトンと、どっちの味方?」

 ガズラはたいして考え込まずに答えた。

「カエラ」

 私は拍子抜けした。きっとアリトンだと思っていたから。

「なんで?」

「カエラはおれを『デブ』って言わない」

 私はにっこり笑った。それで言いました。

「私とセックスする?」


 するとガズラは笑って首をふった。それで私は彼の頬にキスをしました。右と左の頬にキスをして、ぎゅっと抱きしめた。ガズラはとても大きくて、両腕を回しても手が向こう側まで届かなかった。私はおかしくて笑った。


 それから私はマットレスに丸くなって眠った。昨日よりも、ずっと心が穏やかだった。これが幸せかと思えた。



 夜、私は肩を揺すぶられて目を覚ました。とても乱暴に揺すられたので、驚いた。肩をつかんでいたのが誰なのか、暗くてはじめはわからなかった。けど、すぐに相手が話しかけたので、声でわかった。

「カエラ、お別れを言いにきたわ」

 アリトンだった。


 身体中が泡立って、吐き気におそわれた。アリトンに触られたくなかった。アリトンに話しかけられたくなかった。アリトンと関わりたくなかった。


「カエラ、聞いて。どんなに私が嫌いでも」

 暗闇の中で、アリトンは私にまたがって、マットレスにひざをついていた。私は逃げることもできなかった。ガズラのいびきがうるさくて、泣きそうになった。


「私は行く」

 アリトンは言った。私は耳を両手で塞いだ。アリトンは私の手をつかみ、ものすごい力で引きはがした。

「あんたの聴力は大事になさい。イトナから奪ったものよ」

「私はイトナから奪ってまで、聴力が欲しいなんて言ってない」

 私は答えた。するとアリトンは言った。

「そうね。私もこの世に生まれたいなんて頼んでないのに、創られてしまったわ」

「なら、どうして私を作ったの」


 アリトンはひどいと思った。アリトンには神様の悪口を言う資格なんてないと思った。アリトンは、自分が大嫌いな神様と同じことをしている。自分が神様に苦しめられていると思っているなら、私なんか作らなければ良かったのに。


「あんたは私の傑作よ」

 アリトンは答えた。

「不完全で、美しい、最高の人間だわ」

「私は人間じゃない」

 私は言った。アリトンに手首をつかまれて、痛くて仕方なかった。

「私は人間になれなかった。アリトンのせいで、私は魂のない動物と同じ」

 アリトンはだまり込んだ。しばらくそうしていた。やがて彼女は言った。

「私はあんたが大嫌いだった」


 私はしばらく放心しました。泣きそうだった。少なくとも、私は少し前まで、アリトンを愛していた。なのに、アリトンは私を嫌いだった。


「あんたは私の心を持ってる。だから私はあんたを愛するふりをした。私は、自分が大好きな悪魔だと、みんなに思い込ませたかった」

 私の手首を握るアリトンの手がぎりぎりと締めつけて、私は小さな悲鳴を上げた。

「あんたが私を嫌いになることはわかってた。だってあなたは私の心を受け継いでいるから。私は私が嫌いだから、あんたも私を嫌いになるとわかってた」

「なら、どうして作ったの」

 私はかすれた声で聞きました。

「証明したかったから」

 アリトンはほうけたように言った。


「ちがう身体に入れられても、私の心は別の愛を見つけて欲しいと思っていた。あんたがノームを愛したと知ったとき、私がどんなに傷ついたか、わかる?」

 そんなの知りません。私はアリトンじゃない。


「昔、人間がでっちあげの神話を語ったことがある。人間はそもそも頭がふたつ、手足が四つずつの丸い身体を持った種族で、神が半分に割って、今の姿になったのだとね。それ以来、人間は自分の片割れを探し、相手を見つけたら一生添い遂げる。――素敵な話でしょう。この話は形を変えて、終わりの日まで語り継がれたわ。運命の恋人や赤い糸という言葉でね」


「それは、でも、でたらめなんでしょう」

 私は言った。

「そうよ。運命なんかあるもんですか」

 アリトンは鼻で笑った。


「神でさえ、預言を取り消すことがあるのよ? 人間なんかに決まった将来が用意されるわけがない。霊者も同じよ。相手は誰でもいい。誰とでも恋に落ちれば、愛は芽生える。だから、カエラ……あなたも、ノーム一人にしなくていい」

 私は顔をそむけた。悪魔のささやきだと思った。アリトンは自分の考えを証明するために私を作った。それなら、私はアリトンの考えを否定する。それがアリトンにとって一番つらいことなら、私は喜んでそうする。


 私がだまっていると、アリトンは言った。

「カエラ。愛してるわ」

 悔しくて、涙が出てきた。アリトンの言葉がちぐはぐで混乱した。


 彼女はかがみ込み、私にキスしてきた。私は拒んだ。けど、彼女が力ずくで迫ったので、応えてやった。私は彼女の舌を思いきり噛みちぎった。血の味はしませんでした。アリトンには血が通っていない。


 目が慣れてきたので、私には彼女の顔が見えた。アリトンは無表情でした。悲しんでも、怒ってもいないように見えた。


 もしかしたら、彼女を愛する誰かは、彼女の無表情を読み取って、喜んでいるのか、怒っているのか、悲しんでいるのか、見分けることができるかもしれない。けど、それは私じゃなかった。私は彼女を愛していなかった。憎んでいました。だから彼女を少しも理解したくなかった。


「ノームは、私の家族を解体すると言った」

 彼女は小さな声で言った。

「私が勝手なふるまいを続けたから……あの天使は、私の改心をあきらめていない」

「聞きたくない」

 私は横を向いて言った。涙が流れてきました。ノームがアリトンを愛している話なんか、聞きたくなかった。


「このままでは、あなたは元のバラバラな状態に戻される」

 私は笑った。

「そうなってもいい」

 本当はそんなふうに思っていなかった。アリトンはそれがわかったのか、無視をして言った。

「断固とした態度で示さなければ、伝わらないと思う」

 彼女の声はきっぱりと響いた。

「今度こそ、ノームにあきらめてもらわないと……あなたは残りの22年すら、自由に生きられない」

 私は眉をひそめた。アリトンはノームに対して、悪魔の姿を見せ続けているはずです。なのに今さら何を言っているのか、わからなかった。


「私は行く」

 アリトンは言った。私の手首を握る手が、心なしかゆるんだ。けど、私はふり払うことができなかった。

「どこへ」

 聞いてみたけど、アリトンはだまって私にキスをした。私は、これが本当に最後だとわかった。すると、急にアリトンがいとおしく思えてきた。


 私はアリトンとキスをした。長い長いキスをした。アリトンは最後に、私の首すじにキスをして、そっと私の上からどいてくれた。アリトンは寝ているガズラの額にキスをして、ドアを開け、ふり返って私に手をふった。


 ずるいと思いました。私は、やっぱりアリトンが嫌い。なのに、どこかでアリトンを憎めないでいる。


 親はきっかけにすぎないけど、どこかで愛してしまうものなのかもしれない。どんなに嫌いでも、どんなに毒みたいでも、子どもは親を愛してしまうものなのかもしれない。私にとっての親はアリトンだから、きっとそうだと思う。



 アリトンは行ってしまった。私はしばらく、マットレスの上でぼんやり座っていた。やがて横になって毛布をかき抱いた。とても寒かった。


 秋が近づいています。

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