◎言葉遊びと虎と夜

 過去の記憶を、ひとつずつ丁寧に話す。誰かに言われたこと。一緒に遊んだこと。人知れず泣いたこと。こっそり隠した悪いこと。


 でも、ときどきどうしても思い出せない。あのあと、何があったんだっけ。あのときどうして、あんな場所に行ったんだっけ。あの人の名前は、なんというんだっけ。


「思い出せないのは仕方ないよ」

 知識の悪魔はそう言って笑った。なんだか薄気味の悪い、ゆがんだ笑顔。

「さあ、それで、君が砂糖漬けのシナモンパイを食べ過ぎて具合が悪くなったとき、守護者の家に連れて行ってくれたのはだれだっけ?」

「お父さん。いや……上のお姉ちゃんだったかな……」

「それで、そこにいた天使の名前は?」

 額に手を当て、考える。わからない。記憶にあったはずの映像がもやになって、かき消える。

「……思い出せない……」

 パイモンはにっこりと笑った。

「そういうものなのかもしれないね」

 彼は言った。

「つまりさ……矛盾が起きないために」


 悪魔の言っている意味がわからない。口を三日月型にして、悪魔が笑う。

「カヤちゃん。ちょっと休憩しようか。おれ、その辺をぐるっと回って、迷子たちの様子を見てくるよ。何か困り事があったら助けてやりたいからね。コタロー君と、留守番しててくれるかな」

 パイモンはにやりと笑った。

「逃げようなんて思うなよ」

「……まだ、逃げない」

「へえ?」

 くすくす笑う、その響きは、まるで信じていないようで。まだってことは、あとでやってみせるのか? と、あざ笑っているようにも見えた。



 外へ出ると、涼しい風が吹いていた。ああ、そうか。もう秋なんだな。境内へおりる階段の途中にコタローがいた。柱に寄りかかって、うたた寝をしている。一段下に見慣れた猟銃が立てかけられていた。コバが死んだあと、そのまま見捨てられたと思っていたけれど、どうやらパイモンはちゃっかり回収していたらしい。


 そっと目を上げた。神社の境界線の向こうに、人がちらほらと行き交っていた。私に気づいて、目を合わせないようにそそくさと逃げていく。どう思われているんだろう。悪魔の家に寝泊まりしている人間。うらやましいと思われているの? それとも、可哀想だと思われているの?


「人間がどこでものを考えているのか、知ってるかな?」

 気づくと、パイモンがとなりに立っていた。どきりとしつつ、質問に答える。

「頭でしょ。脳みそ」

「そうだ。人間の身体はよくできていてね。どの部分も、能力を三割も出していない。常にフルパワーで暮らしていたら、あっという間に疲弊するからね。たとえば、この庭に小石がいくつ転がっているかなんて、瞬時に数え上げる必要はないし、それを一生覚えておく必要もない。覚えられないっていうのは、能力でもあるんだよ」

「……何が言いたいの?」

「世間話をしてるだけじゃないか。君はなんでもかんでも、結論を出さなきゃ気が済まないの?」


 パイモンにせせら笑われて、不愉快だった。こっちは悪魔の要求に応えるべく、そのつたない記憶力をたぐって、疲れてるってのに。

「でも、この不完全な脳みそこそ、利用しようとする側にとっては、とても便利なんだよ」


 私は悪魔を見上げた。にこりと笑って、例の、探るような目で私を見ている。なんでも知っていますとばかりに。

「私があなたに利用されているのは、約束したからよ」

「知ってるよ」

「じゃあ、なんでそんな言い方するの?」

「記憶を書き換えるなんていとも簡単だということを、理解してほしくてさ」

 パイモンはにっこり笑って階段をおり、革靴を履いた。

「じゃ、行ってくるよ」

 まばたきする間に、悪魔は消えていた。立っていた場所は黒くすすけ、煙が細く立ちのぼっていた。


 私はコタローのとなりに立っていた。ずっと立ち尽くしていた。でも、さすがにだんだん疲れてきて、座ろうと思った。その場でしゃがめば、コタローのすぐ横に座ることになる。でも、わざわざ遠く離れて座るってのも……変じゃない?


 境内の向こうからは、相変わらず迷子がちらほら見える。無防備なコタローから目を離すわけにはいかないし。私はただ座りたいだけ。そうよ、私は座りたいの。だって突っ立っているのに疲れたから。だから、そう、その場に座るのは、全然変じゃない。ひざを折って、足を階段の下に一段下ろして……。


 コタローの顔が目の前に迫った。無防備な、子どもみたいな顔。急に心臓が飛び跳ねて、大きく二歩も横に移動して、階段の反対側に腰を落ち着けた。


 ……なにやってんだろ、私。ほんとに、どうしちゃったの?


 顔を覆って、しばらくそうしていた。暑い。さっき、あんなに涼しいと思ったのに。でも、太陽がぽかぽかあったかいから。だから、きっとこんなに暑いんだ。それで……この心臓の高鳴りは、きっと疲れでまいっているせいだ。きっとそう。断じて、他の原因なんかない。断じて、コタローとは関係ない。


 両手を顔から離して、ひざを抱えて丸くなった。

 コタローの妹って、どんな人だったんだろう。


 ふと思い浮かんだ考えにぎょっとする。そんなの、私には関係ないじゃない! ……だけど、そう。私と同じ名前だから。だからきっと、こんなに気になるのよ。


 そっと横に目を向けた。まだ、コタローはすーすー寝息を立てて眠っている。コタローって、なんだか本当に子どもみたいに見える。若いからじゃなくて、顔がそういう作りなんだ。そういえば、日本人は若く見えるって、誰かに聞いたな。でも、誰に聞いたんだっけ。思い出せない。


 きっと、カヤという妹も、すごく若い顔をしていたんだ。コタローと同じ、さらさらした黒い髪と、黒い瞳を持っていたんだろうな。


 どうしよう。

 それってすごく、かわいい。


 ふたりは仲が良かったんだろうか。コタローは悪ガキたち相手に妹を守ったりしたのかもしれない。いや、悪ガキはコタローか。野球のバットをふりまわして、近所の子に恐れられているコタローがありありと思い描けた。妹はきっと、活発で楽しくて……いや、大人しくて、いい子だったかもしれない。わからないや。名前しか知らないから。コタローは、自分の話はしないから。


 ……聞きたいな。


 ますます強くひざを抱えて、額をひざにすりつけた。私は頭がおかしい。だってあり得ないでしょ。コタローは私を誘拐した、バスジャック犯で。殴られたし、蹴られたし、踏みつけられたし、ののしられたし。あんなにひどいことをされたのに、どうしてこんなに気になるの?


 パイモンの言葉を思い出す。

 ――不完全な脳みそこそ、利用しようとする側にとっては、とても便利なんだよ。

 それってつまり。コタローを好きになるように、私の頭をいじくることも、簡単だってことでしょう?



 すべてがつながった気がした。そもそも私がパイモンに協力しようと思ったのは、コタローを助けると約束してくれたから。私がコタローを好きになって得をするのは、パイモン。だから、きっとそう。パイモンのせいで、私はこうなってしまったんだ。パイモンのせいで、私は。コタローが気になって、仕方ないんだ。


 物音がして、飛び上がった。ふり向くと、コタローが起きていた。日差しにまばたきをくり返し、私を見て、片方の手をちょっと上げる。私も、無言で片手を上げる。


 それだけ。

 それだけなのに、顔がにやけてしまいそうなほど、うれしい。


 あわてて顔をそむけた。

 ――まじで、何考えてんの、私。


「おれ、どれくらい寝てた?」

 まだ眠たそうな、ゆるい声が聞こえてきた。私は顔を向けずに答えた。

「さあ。いつから寝てたの」

「歩く練習して、ストレッチして挫折して、ひと休みしてたら、おまえがいた」

「……まだ、二時間くらいじゃない」

「そんなもんか」

 ふあーあ、とあくびが聞こえた。

「パイモンは?」

「どっか行った」

「逃げろってことか?」

「無理でしょ。その身体で車を探してエデンまで行けるの?」

 ふん、と鼻から息が漏れる音がして、また物音がした。


 ふと目を上げると――目の前に、コタローの顔がいた。

「きゃあ!」

「いてっ」

 声が重なる。コタローを思いっきりはたいてしまい、平謝りするはめになった。

「ごめんね。痛かった?」

「ってーな、なんだよ! おまえがうつむいてるから、具合悪いのかと思ったのに」

「私は健康です! ケガ人はあんたでしょ!」

「ああ、そうですか。それはすみませんでしたね!」

 ああ、なんでいつもこうなっちゃうの? せめて、ましな会話がしたいのに。


「もうぜってー心配してやんねー」とぶつぶつ言いながら、コタローは私にはたかれた鼻を押さえて座り直した。包帯をチェックしながら、不機嫌な顔で訊く。

「で、パイモンとの約束は、あとどれくらいで終わりそうだ?」

「……今、十四歳くらいの話をしてる」

「ふうん。じゃ、あと半分か」

「わからない。思い出せないことが多くて、今も中断してるの。パイモンは笑ってたけど、イラついてるのかもしれない」

「ま、しゃーねえだろ。昔話なんざ、一から十まで話すもんじゃねえよ。目立つエピソードだけ三割増しで面白おかしく語り合うもんだろ」

「三割増し?」

 眉をひそめると、コタローはきょとんとした。

「何だよ?」

「つまり……嘘をまぜるってこと?」

「別にいいだろ。盛り上がれば」

「……ちょっと引く」

「つまんねえやつ」

 うう、なんでいつもこうなるの。


「じゃあ、なんか面白い話、してよ」

 私はせがんだ。コタローは目線を横にそらした。

「言わなかったっけ? 織田信長と明智光秀の、本能寺の変」

「昔話のえらい人じゃなくて、コタローの話」

 そうだ、と思いついて中に入り、書き物机から紙とペンを取ってきてコタローの前に差し出した。


「日本語、教えてよ。三種類も表記があるんでしょ? コタローの字を教えて」

「教えてどうすんだよ。もう誰も使わないのに」

「いいから。それとも、読み書きできないの?」

「ばか。日本人の識字率は百パーセントだ」

 コタローは鼻を鳴らしながらも、ペンを取って紙に書きはじめた。すごい。本当に縦書きだ。感動しながら見ていると、コタローは紙を持ち上げて私の方へ見せた。



 虎太郎



 かっこいい、と思った。

 全然読めないけど。


「……なんか、真ん中のは簡単だけど……」

「一番上のが『コ』。次が『タ』。最後が『ロウ』だ。ちなみに、『虎』はトラって意味」

「ああ! 知ってる。表意文字だよね? 文字そのものに意味があるっていうやつ」

「それ」

「すごい、本当なんだ……でも、なんでトラ?」

「強くてたくましく育てって意味なんじゃねーの」

 コタローは紙を自分の方へ向けながら、首をひねった。

「『太』は太陽にも使われてる漢字で、『太い』って意味もあるかな。で、『郎』は……たしか『男』とか、そんな意味だったな」


 なんか知らないけど、笑えてきた。コタローが私をにらむ。あわててせき払いしてごまかしたけれど、まだにやけてしまう。

「なんか……男らしい名前、なんだね」

「わりいかよ」

「だって……」

 また笑ってしまった。だってコタローって、背は低いし顔は子どもみたいだし、ちっともたくましい感じじゃないんだもん。


「カヤは、どう書くの」

 私はなんてことなさそうに訊いてみた。やっぱり自分の名前でもあるから、漢字でどう書くのかは気になったし。コタローは紙を敷いてまた書きはじめた。『虎太郎』のとなりに、文字が並ぶ。



 佳夜



「意味は?」

 どきどきしながら訊いた。コタローはちょっと考えて、片膝を抱えた。

「『佳』は、美しいとか、めでたいとか、いい意味だ。『よい』とも読ませる」

 なんだかうれしくて、素直に笑顔がこぼれた。

「『ヤ』は?」

「『夜』だ」

「え?」

「だから、夜。朝昼夜の、夜」


 眉間にしわを寄せて、じっと『夜』の漢字を見つめた。

「……なんで、名前にそんな漢字を付けるの?」

「ダメかよ、夜じゃ」

「だってなんか、夜って怖くない?」

 少なくとも、女の子に付けるような名前じゃないと思うんだけど。


「『佳い夜』なんだぜ。恐ろしい夜とか怖い夜じゃなくて、みんなが集まって、酒を飲み交わして、めでたくて、月もきれいに出てるような、佳い夜なんだよ」

「お酒を飲むの? それが人の名前?」

「たとえだよ。つまりそれくらい、いい夜ってこと」

「よくわかんない」

「無理に理解しなくて結構だ」

 私の手から、紙がぱっと取り払われた。


 あからさまに不機嫌になってしまったコタローを見て、しまった、と思った。これは私の名前じゃなくて、コタローの妹の名前だったんだ。それにダメ出しするとか、一番やっちゃいけない。


「ごめん」

「いいよ別に」

「ううん、ほんとに、ごめん」

「だから、別にいい。価値観の相違ってやつだろ」

 ぷいとそっぽを向かれて、いよいよ青くなってしまった。「分かりあえっこない」なんて、決めつけられたくない!


「あの。私、この漢字を使ってもいいかな」

「はあ?」

「だから、その」

 コタローの手から紙を奪い返して、自分の胸に押し当てた。

「どこでいつ使うとかじゃないけど……私の中で、日本語ではこう書くんだって、思ってもいい?」

 コタローは紙に書かれた「虎太郎」と「佳夜」を見た。そして「いいけど」と言った。

「使う機会はないだろうけどな」

「いいの、それでも。なんか……ほら、楽しいから」

「……ま、好きにすれば」

「うん、そうする」


 よかった。本当は、少し覚悟してた。それは妹のだから、そういうことはやめてほしい、って言われるかと思っていた。私は名前を書かれた紙をじっと見た。宝物を手に入れたような、幸せな気分だった。


「おまえってさ」

 コタローが言ってから、思い直したように顔を伏せ「なんでもない」とつぶやく。

「なに?」

「べつに」

「気になる。教えてよ」

「たいしたことじゃない」

「たいしたことじゃないなら、教えられるでしょ」

「おまえ、ホント気が強いな」

 コタローが呆れるように言った。私は笑った。

「人質として有能でしょ?」

 コタローが笑った。こっちまで、うれしい。

「おまえってさ」

「おれにも書いてよ、コタロー君」


 二人して飛び上がった。パイモンが丸い包みを持って、階段の下に立っていた。靴を脱いで私とコタローのあいだに割って入り、にこにこしながら交互に見やる。

「妬いちゃうなあ。おれが見てないと、すかさずいちゃついてんだもん。君たちなんなの? 結婚式には呼んでよ?」

「バカ言うな」

 顔が熱くなった。見ると、コタローも赤くなっている。パイモンはわざとらしい声を出した。

「ねえねえコタロー君、おれにも漢字書いてよ」

 パイモンは白い紙をコタローの鼻先に突き出した。コタローはむすっとした顔で受け取ると、さらさらと漢字を書いた。



 灰文



 相変わらずひとつも読めないけど、すごくシンプルだな、と思った。

「うわっ。コタロー君、これ超テキトーに書いたでしょ?」

 パイモンが文句を言った。あ、やっぱりテキトーなんだ、これ。

「おまえにはこれくらいが上等だろ」

「これ、パイモンじゃなくてハイモンだし。いや、ハイブンか?」

「パイなんて漢字にねえだろ」

「あるでしょ! 麻雀の牌とか、乾杯の杯とか!」

「あ、ほんとだ。つか知ってるならおれに書かせるなよ。知識の悪魔だろ、おまえ」

「だってー。おれも宝物が欲しかったんだもーん」

 そう言って、紙を胸に抱き、くねくねしながら私を見る。

 悪魔め。


 私は急いで紙をたたんでポケットにしまい込み、立ち上がった。

「続きを聞きたいんでしょ? はやく行こうよ、パイモン」

「へへ。カヤちゃんに『はやくイこうよ、パイモン』なんて言われたら、おれ興奮しちゃう」

「は?」

 コタローがパイモンの頭をバシッとはたいて「なんでもねえよ」と私をにらんだ。心なしか、顔が赤くなっているような。やっぱり治りかけているとはいえ、熱があるんだろうか?


「そうそう。カヤちゃんにおみやげ」

 パイモンはひざに乗せていた包みをはらりとのけた。あ、と声が出た。砂糖漬けのシナモンパイ。子どもの頃、お母さんがよく作ってくれた。

「あんまり好きじゃなくなったんだっけ?」

 パイモンが首をかしげて聞く。

「ううん! 好き。どこから持ってきたの?」

「ちょっくら地球の裏側まで行ってたのさ」


 パイモンはふところからナイフを出すと(この悪魔は、本当になんでもふところからものを取り出す。スーツが異次元につながっているんじゃなかろうか)一切れ切り出し、コタローの口に「ほい」と押し付けた。コタローはもがもがと食べながら「どうも」と言った。


「匂いや味覚で記憶が呼び覚まされるってこともあるだろ」

 パイモンは立ち上がり、私の肩に手を置いて、静かに笑った。

「まあ、意味なんかないだろうけど」

「パイモン。ひとつ、聞きたいことがあるの」

 私は言った。パイモンがゆっくり目をしばたき、冷たい笑顔でこちらを見おろす。

「何かな?」

 青い瞳。吸い込まれそうな、きれいな目。でも、だまされちゃいけない。相手は悪魔だ。この瞳も笑顔も、見えているだけで実体はない。


「霊者は……人間の記憶を書き換えることも、簡単にできるのよね?」

 はっと、コタローが顔を上げるのが分かった。それで、ぴんときた。コタローは知っていたんだ。厭世家は、きっと知っていた。

「できるよ」

 パイモンが答え、私は唇をなめた。

「天使が……エデンの人間の記憶を書き換えることも、当然あるのよね?」

「あるよ」

 あっさり答えが返った。まるで、そんなのは日常茶飯事で、取り立てて騒ぐことでもないと言わんばかりに。


 本当にそんなものなんだろう。霊者にとって、人間はその程度の、軽い存在。人間にとっての、動物みたいな。飼いならしたり、発情しないように手術したり。罪悪感なんて、あるとしてもほんのちょっとで。


「だから……ノームの死は、人間に隠されているのね」

 私は言った。ああ、そっちか、とパイモンはかすかに笑って肩をすくめた。

「うん、そうらしいね。エデンではベールもないし、何人かの記憶を矛盾のないように書き換えるのは造作もないよ」

「……ということは、エデンの外では、ちがうの?」

「当たり前さ。今もまさに、君の消息は天使の誰も感知していない。この神社はおれのお気に入りだけど、他の霊者には知られてないんだ。だから未だに誰も探しに来ないんだよ。どこにいるかも分からない人間の脳みそまでは、さすがにいじくれない」


「……じゃあ、エデンの外から内側に帰ったとき、もしも他の人間たちの記憶が書き換えられていたら……」

「まさに浦島太郎だな」

 パイモンは私の知らない単語を言った。

「その迷子は、天使たちの小細工に気がつくだろうね。そして運が悪けりゃ、悔い改めるのを取りやめるかもしれない」

 悪魔はにいっと笑ってコタローを見た。エデンの外に行くのは迷子だけじゃない。厭世家だって、定期的に境界を超えていく。

「でも、それでも天使についていく、立派な厭世家もたくさんいるんだよ。だって誰も傷ついてなければ、いいじゃんか。ねえ?」

 コタローはだまっていた。私から視線を外し、聞こえていないふりをした。


 きっと、まだまだあるんだろうな。コタローが迷子になった理由が。小さな、だけど降り積もると気になって仕方ないような、理由。ああ、私、変なことを考えてる。コタローに同情するための言い訳を、探してる。


 パイモンは静かに笑い、ふう、とため息をついた。笑いすぎて疲れたような。でも、霊者が疲れるなんてあるのかな。

「聞きたいことはそれだけかな? カヤちゃん。おれ、続きを聞きたいんだけど」

 私はだまってうなずいた。パイモンが部屋に入っていって、それに続いて戸を閉めようとしたとき、コタローと目が合った。


 黒くて、吸い込まれそうな瞳。青い目よりもよっぽど殺人的だ、と思いながら、ごまかすようにほほ笑んで戸を引いた。


 私、どうにかなっちゃいそうだ。そう思った。

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