*アリトンの口論
その日、私はノームと手をつないで帰った。家が近づくと、誰かにポンと背中を押されました。パイモンだった。パイモンはにこにこ笑って「やあ、カエラ」と言った。それから「やあ、ノーム」と言った。
私は顔が熱くなった。パイモンに会えたことはうれしかった。けど、ノームのときほど、うれしいとは思えなかった。今は、あと少しだけノームと二人きりの時間を、大切にしたかった。
けど、ノームは穏やかに笑って、礼儀正しくあいさつした。
「こんにちは、パイモン」
「珍しいな。いや、そうか、おまえはそうだよな。アリトンとセックスしにきたんだろ? おれもちょーど、あの悪魔とセックスをしようかと思って寄ってみたんだよ。それと、秘密の開示を要求しにね」
彼はよく笑うし、とても楽しい。けど、私はパイモンが今すぐ帰ってくれればいいと思っているのに気がついた。
パイモンはにやにや笑って言った。
「カエラ、本の続きは書けたか?」
私はだまってうなずいた。ノームは私を見た。
「本を? カエラ、本当かい?」
私はうなずいた。けど、本当は恥ずかしくて、今すぐ走っていってマットレスの下からノートを引っぱりだして、燃やしてしまいたかった。もしもノームに見せてと言われたら、死んでしまうと思った。
「ノーム、可哀想だから読みたいなんて言ってやるなよ。カエラはアリトンの大切な人形なんだ。可愛がってやらなきゃ」
パイモンがくすくす笑った。私はほっとして歩きはじめた。パイモンは冗談ばかり言う。だから、ノームがアリトンとセックスをしに来たなんて、きっといつもの嘘だと思った。悪魔は嘘つきだから。
それでこのときは、大丈夫だ、大丈夫だ、といって、心をなだめるので精一杯だった。パイモンは私たちと並んで歩きながらにやにやしていた。彼はいつも、人の心が分かっているみたいに、にやついています。
家に入っていくと、アリトンは暖炉の前のソファに座っていた。部屋の隅に、イトナが座ってパソコンとにらめっこしていた。反対側に、ガズラが食べ物を積んで、一生懸命口に運んでいた。いつもの光景でした。
「何しに来たの、パイモン」
アリトンは私たちが帰ってくると、不機嫌な顔をして言った。パイモンは口を左右に広げて、三日月みたいに笑った。
「すごく面白そうな現場に出くわして、とても興奮してるとこさ」
「悪趣味ね」
「おまえのおままごとよりかはまし」
ノームは私の手を引き、「座りなさい、カエラ」と優しく言った。私は、ずっとノームの手をつないでいたかった。けど、私がだまっていると、アリトンが言った。
「カエラ。手を離しなさい」
私は口を結んでうつむいた。ノームの手を離すことができなかった。早く離さないと、ノームが困るのはわかっていた。けど、どうしてもできなかった。
「ちゃんと言ってあげなかったの? ノーム」
アリトンはノームを責めるように言った。私は目を上げて答えた。
「ノームはちゃんと言ってくれた」
「そう。本当に?」
パイモンの忍び笑いが背中から聞こえた。ノームはだまっていた。
「ノームは私を愛せないと言ってくれた。ノームは……神様を愛してるから、私とはセックスできないと言ってくれた」
パイモンが声を立てて笑って、アリトンが立ち上がって私をじっと見た。イトナはパソコンから目を上げた。ガズラは口をもぐもぐさせながらも、手は止まっていた。
「『神様を愛しているから』? 神への愛はアガペーよ。エロスとはなんの関係もない」
私は首をふった。そういうことじゃない、と思ったから。アリトンはこちらへ歩いてきた。私はノームの手を握っていたけど、ノームからは、まったく握り返してくれていないのに気づいていた。
「ノームは天使だから。それで、私を愛するのは、いけないことだから……」
「優しくて、残酷なノーム。本当のことを教えてあげれば?」
アリトンは私の目の前に立った。私と、ノームの前に。
「……カエラ」
ノームの声が上から降ってきました。私はなぜだかとても悲しくて、苦しくて、見上げることができなかった。
何も聞きたくなかった。
何も知りたくなかった。
無知なままでいたいと思った。
「知ろうとしろ」
パイモンの冷たい声が私をうしろからつらぬきました。私はぶるぶる震えながら顔を上げた。ノームは悲しげに、じっと私を見ていた。
「カエラ、すまない」
本当に、心の底から、申し訳なさそうな声で言った。
「私は……アリトンと結婚しているんだ」
心が、ばらばらに壊れてしまったようでした。からっぽになって、身体の表面しか存在していないような気がした。誰かにとげをさされたら、そこから空気が抜けて、しわしわにしぼんでいなくなる。そうなればいいと思った。息ができなかった。心臓がきりきりして、苦しくて、震えてきた。
私はノームを見ました。申し訳なさそうな顔をして、私から目をそらすノーム。それからアリトンを見た。腕を組み、顔をしかめて私をにらむアリトン。イトナを見ました。イトナは不安げに私を見ていた。真実を知ってしまった私を、心配していた。私は気づいた。これは秘密ではなく、私以外はみんな知っている、事実だと。
肩にノームの手が置かれた。私は、いつの間にかノームの手をほどいていた。
「カエラ。すまない」
ノームは謝った。私は何も考えられなかった。ただ、そこに突っ立っていた。
「この天使は、私が堕天したのに、しつこく改心をせまるのよ」
アリトンは言った。私の目の前に立って、冷たく私を見ていた。
「可哀想なカエラ。ノームはあなたなんか愛さない。こいつは未だに私を愛し続けているんだから。悪魔の私を」
「アリトン、やめてくれ」
ノームがつらそうな声で言った。けど、アリトンはせせら笑った。
「どうして? 私は真実を言っているだけ。カエラ、どうしてあんたがノームを愛してしまったのか、その理由も教えてあげるわ」
私は聞きたくなかった。アリトンの口から出る、どんな言葉も聞きたくなかった。けど、身体中が震えて、逃げ出すことも、両手を耳に押し当てることもできなかった。アリトンは私の耳元に口を近づけて、あざ笑うように言った。
「あんたの心は私の半分。心にはね、かきまぜた卵の黄身や白身みたいに、あらゆる性質が混ざり合っているのよ。愛する心、憎む心、楽しむ心、疑う心。それらの配合で、性格や倫理観が決定されている。私はその混ざった心から、ノームを愛する部分をくみ上げて、あんたに流し込んだの。私が情にほだされて、二度と天使に戻ろうなんて思わないようにね。あんたの心は、ノームが愛した私の心そのもの。だからあんたの名前はカエラにしたの。『愛される』という意味のね。あんたが一度しか会っていないノームに惚れてしまったのは、偶然でも運命でもない。あんたにはオリジナリティなんてない。私の一部にすぎない、ただの人形よ」
身体が、熱く燃えたぎる炎のようになりました。自分が、思った以上にちっぽけで、そして、何もないことを知った。私は、私ですらなかったことを知った。
「アリトン、なんてことを――」
ノームが言った。イトナも立ち上がって、ステッキを取った。パイモンはうしろで笑っていた。アリトンは顔を上げてノームをにらんだ。
「聞いたでしょう? 私はもう、あなたを愛していない。愛する心はみんなカエラにあげちゃったもの。これ以上私につきまとって、悔い改めを求められても迷惑だわ。いい加減あきらめて、カエラとセックスでもしてあげれば?」
それから、アリトンはくすっと笑った。
「――それとも、私が死体から作った人形なんかとは、寝たくない? 可哀想なノーム。こんな私でも、まだ愛しているのね?」
「アリトン、どうしてだ」
ノームは首をふり、せつなげに訴えた。
「君は素晴らしい天使だった。私たちは愛し合っていたはずだ。なぜ、こんなことをする? なぜ、愛する人を――愛してくれる人を傷つける?」
「それは私が悪魔だからよ」
アリトンはそう言って笑った。するとパイモンが口をはさんだ。
「悪魔代表みたいなツラすんな。うっとうしい」
アリトンは顔をしかめ、パイモンをにらんだ。
「あんたほどぶれた生き方はしちゃいないわ、知識の悪魔。それとも無知の悪魔だったかしら? 神に与えられた『好奇心』から逃れることもできないくせに、よくも悪魔を名乗っていられるもんね。私は神の与えたもうたものは、たとえ自分の心だろうといじくって否定するわ。どこかのインテリぶった変態とはちがってね」
パイモンはそれまで笑っていたのに、急に顔をしかめてアリトンをにらんだ。彼は、本気でアリトンを殺してやりたいという顔をしていた。殺せる方法さえあれば、殺してやりたいという顔をしていた。
「イズルの厭世家を迷子に引き入れることに成功して、気が大きくなってんのか?」
パイモンはそう言ってあざ笑った。
「なあ、ノーム。責任を感じてんだろ? おまえの選んだ14万4千人の一人は、どうやら選定ミスだったみたいだぜ。でも、まだ遅くない――やり直せよ。ハルマゲドン前に死んだ人間を一人、復活させてやれ。そしてコタローは殺すんだ。いつも天使たちがエデンでやってるみたいに、信者たちの記憶を書き換えて、コタローなんか最初からいなかったフリをすればいい。そうすりゃ、全部丸く治まるぜ、ノーム。そうしろよ。殺せないってんなら、おれがやってやるよ。簡単だ。コタローの腹をかっさばいて、内蔵を引きずり出して、それを使ってアリトンを地の底に縛り付けてやる。千年王国が終わるまで、ずっとな。さぞかし見物だろうぜ」
私の肩に置かれたノームの手が震えていた。パイモンは続けた。
「人間を囲って家族ごっこをたしなむ、痛々しいアリトンさんよ。迷子の厭世家はおまえのコレクションの中でも、相当に価値があるんだろうな? だからおれが全部無駄にしてやるよ。ほら、笑えよ。わくわくしないか?」
私はアリトンが怒っているのを見た。とても怒っていた。パイモンも怒っていた。とても怒っていたから、そんなことを言ったのだと、私は思った。霊者は頭がいいから、相手を一番怒らせる方法を知っていた。相手を一番傷つける方法を知っていた。
「いつものとおり。何も学ばないのね、クズども」
アリトンは言った。パイモンは「あ?」と言った。
「誰が学ばないって?」
「そうやって、何をするにしても、結局神の決めたルールからは外れないのよ。気づいてないの? あんたらはそろいもそろって、神の手の平の上で踊らされてんのよ」
アリトンは私たちを見た。心の底から軽蔑した目をしていた。アリトンの心は半分しかないので、その心はゆがんでいた。
「神は全知全能で、愛がある。ええ、そうね。そう信じてりゃいいわ。信じて、愛をうたってバカみたいに生きてりゃいいわ。そうすりゃ楽だもの。与えられたものをただ受け取って、才能をひけらかして、その実、神のご加護に甘んじてりゃいいのよ。考えなしの、盲信者ども。さっさと自覚して、神に祈りを捧げてりゃいいんだわ」
「……ひどい」
私は言った。やっと、それだけ言葉にできた。アリトンは邪悪な笑みを浮かべた。
「何がひどいの、カエラ?」
「どうして、アリトンはそんなことを言うの?」
「なぜって、それが真実だからよ」
アリトンは笑った。むかむかする、いやな笑い方だった。
「そうだわ、ねえイトナ――真実は、人を不幸にする。あんたは身にしみて知ってるわよね?」
立ち尽くしたイトナは、だまっていた。けど、アリトンは続けた。
「バカなイトナ。愛する弟を、その手で殺した。なのにあんたは、私のそばにいることを選んだ。エデンに帰って悔い改めれば良かったのに、迷子でいることを選んだ」
アリトンは私を見た。とても意地の悪い笑みを浮かべて。
「そうよ、カエラ。これが真実の愛よ。エロスの愛の立派な手本よ――この男は私に命令されて、あんたとセックスをし続けた。うれしかったのよね、イトナ。カエラには、私の心が入っているんだもの。ノームとちがって、イトナはとても聞き分けがいいの。私を愛しているのに、それが叶わなくても、カエラが代理ならかまわないの。カエラはアリトン自身だから――そう思っているんでしょう、イトナ?」
私は首をふった。イトナに否定してほしかった。イトナに、手話で「ちがう」と示してほしかった。私じゃなくて、アリトンとセックスをしていたなんて、嘘です。それが本当だとしたら、悲しすぎると思った。
イトナはいつも無表情なのに、今はちがった。泣きそうな顔で、苦しそうな顔で、アリトンを見ていた。私を見てくれなかった。イトナはアリトンをじっと見ていた。
「おモテになるようで、うらやましいぜ」
パイモンが冷たい声で言った。アリトンはくすっと笑って、「日頃の行いがいいのよ」と言った。そして続けた。
「イトナ、ごめんなさいね。私はあそこにいる変態の悪魔とちがって、人間と寝る趣味はないの。でも、あなたもカエラとセックスできて、うれしかったでしょう? カエラはあんたにエロスなんか抱かなかったけどね。それは仕方ないわ。私はあんたを愛さない。だからカエラも、あんたを愛さない」
イトナは首をふった。そして唇をふるわせて、なにか言おうとした。しかし言葉は音になりませんでした。イトナはもう何十年も、言葉を発していない。
「哀れな子」
アリトンは呆れたように言った。そして私をにらんだ。私はすくんでしまった。
「からっぽで、偽物の、可哀想なカエラ」
アリトンは言った。
「あんたが愛する人は私を愛して、あんたが愛さない人は、私を夢見ながらあんたを抱いた。どっちにしろ、愛はないのよ。何故だかわかる?」
「アリトン、頼む。もう、これ以上は――」
ノームが私をかばうように立ちふさがった。けど、アリトンは言った。
「あんたは、神の子じゃないからよ」
私は震えていた。何も言えませんでした。アリトンの言う通りだった。
人間も天使も、悪魔でさえ、神様が作ってくれた、神様の子どもたちです。けど、私はちがう。私は、神様の計画には、存在していないはずの人形です。だから私は彼らと関われない。愛を育んだり、一緒に怒ったり、泣いたりしてはいけない存在。
「そうよ、カエラ」
アリトンは言った。
「あんたは、はじめから死んでいる。生きてなんか、いないの」
自分の手を見おろした。これは、死体から持ってきた手。
頬の上にかかる髪を見た。これは、誰かから奪ってきた髪。
私の身体も、私の心も、何一つ私のためだけには存在していなかった。私はアリトンの人形でした。アリトンの心で動く、糸をつられた操り人形。人間になることはありません。私は人形ですらない。私は、半分腐った、死体だから。
「アリトン」
私は言った。小さな、震える声だった。ノームが「何も言わなくていい」と言ったけど、私は首をふった。どうしても、アリトンに伝えたかった。
「アリトンに……お願いがあるの」
アリトンはにっこりと笑った。天使みたいに優しい笑顔だった。
「言ってごらんなさい」
私はアリトンを見つめた。彼女はきれいだった。私とアリトンは同じ心を持っているから、アリトンが美しいと思うものは、私も美しいと感じる。
「アリトンに……死んでほしいの」
部屋がしんとなった。私以外は、みんな言葉を失ってしまったみたいだった。
「アリトン……死んで」
誰かから盗んできた私の目から、涙があふれた。私は言った。
「お願い、アリトン。死んで。死んで。私のために、死んで、アリトン」
アリトンはもう、笑っていませんでした。けど、怒ってもいなかった。じっとだまって私を見ていた。アリトンは顔を上げ、ノームとパイモンを見て、言った。
「帰ってちょうだい」
ノームは何か言いかけた。けど、パイモンが肩に手を置いて「行こうぜ」と言った。そして小さな声で、ノームに言った。
「わかるだろ。アリトンは、死の準備をしたんだ」
ノームは泣きそうな顔でアリトンを見ていました。彼は私の目の前で、アリトンを抱きしめた。やがて彼はそっと離れた。アリトンはマネキンみたいに動かなかった。
ノームは彼女の耳元に口を近づけ、何か言った。はじめて、アリトンが目をしばたき、ノームを見た。彼は悲しげな顔で「すまない」と言った。「そうするしかないと思う」と彼は言った。アリトンは放心して、ひとつだけ笑い声を上げた。
「意地の悪い天使」
私の目が悪くなければ、彼は一瞬ほほ笑んだように見えた。
ノームは私を見た。『ノームを愛するアリトンの心』を持っている私を。彼は目を伏せ、そっと私を抱きしめた。けど、すぐに離れてしまった。彼はアリトンを見た。その目は恋いこがれていた。私には決して向けられない、愛する人への目だった。
「さようなら……アリトン」
ノームとパイモンは出て行った。部屋の中がしんとなりました。イトナと、私と、アリトンが部屋に立ち尽くしていた。
アリトンは階段へ向かい、その途中で、食べる続きをしてもいいのか気に病んでいるガズラを見た。それでアリトンは、ガズラに悪口を言っていなかったのを思い出したのか、ちょっと立ち止まって言った。
「デブ」
彼女は二階へ上がった。
私はイトナと目を合わせた。イトナは唇を引き結んでいた。申し訳なさでいっぱいの目だった。それは、やはり私を愛する目ではなかった。
私はポッキリ折れた心をそのままに歩いていって、ガズラの部屋に入ってドアを閉めた。マットレスに丸くなり、しばらくしてノートを引っぱりだした。
そして今、これを書いています。
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