◎かなしくて
目が覚めても、すぐに身を起こすのが億劫だった。梁がむき出しの天井を見上げ、心がずんと重くなる。喉にはじんわりと血の味がする。一日半、ずっとしゃべり続けているせいだ。今日もまたあれがくり返されるかと思うと、げんなりする。
パイモンは、こちらが少しでも省略しそうになると目ざとく気づく。
「だめだよ、カヤちゃん」
「それで、なにがあったの」
「で、実際のとこ、どう思ったの?」
私が無意識に隠そうとしている部分にこそ、知りたい真実があるのだというふうに、悪魔はすべてを聞きたがった。
でも、それ以外はびっくりするほど良くしてくれている。お風呂に、着替え、食事。ふと目を離したすきにすべてがそろい、提供される。まあ、食べているあいだ中うんちくを語り続けるのには、ちょっと辟易しているけれど。
驚くほど寝心地のいい布団で眠るのは二度目だった。しぶしぶ覚悟を決めて起きあがり、コタローが寝ている方へちらりと目を向けた。はっとした。布団がたたまれている。掛け布団をはね飛ばして、転びながら外への戸を引き開けた。
「そうそう、その調子」
パイモンののんきな声がする。力が抜けて、その場にへたり込んでしまった。
朝の境内を、二人の男がゆっくりと歩いていた。パイモンが手を貸し、コタローがふうふう言いながら足を前に進めている。不思議な光景だった。怪我をした人間と、歩く練習に付き合ってやっている悪魔。ふざけた笑い話みたいだ。
「お、カヤちゃん、おっはよー」
パイモンが顔を上げて私に手をふる。コタローがバランスを崩して地面にひざをつけそうになる。が、悪魔がぎりぎりで支え起こした。
「はは、コタロー君、まだまだ頼りないねえ。そんなんじゃ、カヤちゃんを守ってやれないぞ?」
「守るつもりなんかねえよ。あいつはただの人質だ」
「おや、そうなの? じゃあいいことを教えてやろう。おれは君を人質にしてカヤちゃんを囲ってんだぜ」
コタローは顔をしかめ、ぎろりと私を見た。私はおずおずと手をあげ、すぐに下ろした。「おはよう」なんて声をかけるほど、コタローと親しいわけじゃなかったのを思い出したんだ。
「どういう意味だ」
コタローはいつもどおりに、不機嫌な顔をしていた。私はぼそぼそと口ごもった。
「それは……だからその、助けるために……」
「は?」
「まあまあ、そんな怖い顔すんなって」
パイモンがコタローの肩をたたく。コタローは悲鳴を上げた。悪魔はとぼけた顔で「あらま、こっちが怪我した方だったか」と笑った。
「詳しい話はあとでしよう。それより君、相当臭いぜ。おれが朝風呂に入れてやる」
「いい、一人でできる」
「遠慮するなよ、男同士だろ。間違いは起きないって」
「悪魔に性別はないんだろ」
「あら、よく知ってるわね」
「おい、ふざけんな」
パイモンはからかうように笑って、私をふり返った。
「のんびりしてなよ、カヤちゃん。少し時間がかかるから」
パイモンはコタローをお風呂のある建物へ歩かせていった。コタローは文句を言いつつ、しぶしぶ歩いていく。
――良かった。すっかり元気そうだ。たどたどしいとはいえ、死にかけた人間が歩いているのを見れば、誰だってほっとする。そうよ、どんな相手だろうと、目の前で死にかけていれば、助けたくなるのが人間だもの。
立ち上がり、戸を閉めて布団に向かった。もうちょっとだけ、寝てしまおうか。きっと、布団の中は魔法みたいにあたたかい。そんなことを考えながらちらりとパイモンの書き物机に目をやった途端、立ちすくんだ。ノートや羽ペンの上に、無造作におかれた小さなインターネット端末。スマホから、目が離せなくなった。
これは、私がすっかり話し終えたら使ってもいい約束だ。だから、まだ使ってはいけない。約束を破って、パイモンに何かしらの口実を作ってはいけない。
あの悪魔が何を考えているのか、さっぱりわからなかった。絶対に使っちゃいけない。触れるのもダメだ。そう思うのに、気づくと書き物机の前に座りこんでいた。
本当に小さい。たぶん、お尻のポケットにも余裕で入るだろうな。これがあれば、家族にメールができる。守護者の家に電話をかけることも。そうしたら、五分もせずに迎えが来て、私を保護してくれるだろう。
頭の中をぶんぶんとハエが飛び回っている気がした。気づいたらスマホを持ち上げて、下にある丸いボタンを押していた。ぼうっと画面が光り、写真が表示される。
どこかの絶景だった。曇天で、雨が降りしきっている。山の向こうで雲が切れ、虹がかかっていた。虹は、ノアの大洪水のあと、神が「二度と雨で人間を滅ぼさない」と約束するためにかけたしるし。ため息が出そうなほど、美しかった。
意外だった。悪魔のスマホに表示される写真なら、もっと恐ろしくて、不快で、怒りさえ覚えるような写真であっても不思議じゃないと思ったから。
もう一度ボタンを押す。いくつかのアイコンが表示された。電話のマークに触れ、番号を入力し、耳に近づける。気の抜けた音楽が響く。
『はい』
心臓がどくんと鳴った。スマホを握る手に力が入る。震えをおさえ、声を出す。
「――ガル?」
少しの沈黙のあと、はっと息をのむ声がした。
『カヤか?』
「そう」
『今、どこにいるんだ?』
「今は……」
どうしよう。言葉に詰まった。
エデンの外、トーキョーの、どこかの神社。それだけは分かっている。しかし、それを伝えてしまって本当にいいんだろうか? パイモンは私を監視している。居場所をばらせば、コタローを殺して、私を他の場所に移すかもしれない。今度は拷問にかけながら、知りたいことを知ろうとするかもしれない。
迷っていると、ガルがため息をつくのが聞こえた。
『いいんだよ、無理に言わなくて。君は優しいから』
どきりとした。
「ど……どういうこと?」
『もう、婚約を破棄したいんだろう?』
頭を殴られたような気がした。でっかい鉄パイプかなにかで。
「……え?」
『あの日、一緒に映画祭に行こうって言ったのに、君は一人でどこかへ行ってしまったじゃないか。つまりそういうことだろう? 君のお姉さんにもメールしたんだけど、カヤは孤立主義的なところがあるからって慰められたよ。一緒に天使様へあいさつに行くのが……結婚を急いているみたいで、いやだった?』
「ちょ、ちょっと待って、ガル」
私は混乱していた。迷子に拉致されて三日経っているのに――コバだって、私の手配書を持っていたのに――なぜ。ガルは、何も知らされていない? でも、ノームが死んだとき、ガルもいた。私がいなくなれば、変だと思うはず。
「……ガル。ノーム様は、あれからどうなったの?」
『ノーム様?』
ガルのぽかんとした声が続く。
『ノーム様って、だれのこと? 僕の知らない、天使様の名前かな』
ゴトンと、音がした。スマホが、タタミの上に落ちた音。
はっとして、あわてて拾い上げ、もう一度耳に押し当てる。ガルが心配している。何も知らないガル。
「ガル……ひとつ教えてくれないかな……」
『なんだい?』
「私たちの住んでる地区の天使様の名前は……なんだっけ?」
『なんだ。それならあの日、言って聞かせただろう?』
私が聞いた名前は、ノームだ。あの日死んだ。
『スメル様だよ。担当の厭世家はコバだ。コバにもあいさつしただろう? ちょっと無愛想だけど、優しい人だよ。みんなに慕われていて……』
「ガル。ごめんなさい」
電話の向こう側が、しんとなった。ふうと息をつき、かわいた、無理した笑い声が聞こえた。
『仕方ないさ。君が離れていくのを、僕は引き止められないものね。でも、君とはこれからもいい友人でいたいと思ってるよ。もしも日本に来ることがあったら、いつでも遊びにきてほしい』
私はうなずいた。電話の向こうのガルには見えないのに、何度もうなずいていた。涙は出なかった。不思議と落ち着いていた。なんだか、とてもやりきれなくて。
「ごめんね、ガル」
小さな声で謝った。
「でも……あなたのことは、本当に好きだったの」
『うん、僕もだよ。僕も愛していた』
まただ。
愛。
私は……ガルのことを、愛していただろうか。
わからない。今となっては、もう。
そもそも私は、ガルを知っていたのだっけ?
頭がぐらりとした。
違和感。
何かが、かちっとはまりそうで、はまらない……。
『……じゃあ、カヤ』
ガルの声が優しく響く。
『さようなら』
「……さようなら」
だけど、私たちはさよならを言うほど、知り合っていたのだっけ……?
電源を切った。書き物机にスマホを戻し、うつろな目でそれを見つめた。私には、帰る場所がないのだな。そう思った。あせりはなかった。ただ、とてもとても、やるせなかった。
布団をたたみ、その上に丸まっていた。外から、ぎゃあぎゃあとかけあいが聞こえてくる。一人がからかって、一人が不機嫌にいなして。戸が開き、パイモンがコタローを支えながら社に入ってきた。
「カヤちゃーん。お、ま、た、せっ」
からからと笑うパイモンに、コタローがげんなりした視線を送る。
「おまえ、絶対悩みとかないだろ」
「うわっ、コタロー君、ひどいことおっしゃる」
パイモンに押され、コタローは「いてて」と声を上げた。パイモンが私を見て、書き物机のスマホを見て、また私を見て、にやっと笑う。
「さあ、ごはんにしよっか」
私はゆっくりと起き上がった。ちっとも、お腹がすいていなかった。パイモンはスマホを取ってふところにしまい込み、「ちょっと待っててね」と言って外へ行った。
包帯を巻かれ、膳の前に座らされたコタローが、ぎろりと私をにらんだ。
「あいつに、何かされなかったか」
たたんだ布団の上であぐらをかき、私は横を向いて肩をすくめた。コタローがあせったように身を乗り出し、痛みで顔をゆがめる。
「なんだよ、その反応は。本当に大丈夫だったのか?」
「何よ、その質問は。誘拐犯のくせに、心配してるの?」
コタローは口を結んで、私をじっと見た。居心地が悪くて、目をそらした。
「……何もされてない。パイモンはそんなに、悪い悪魔じゃないのかも」
笑う声が聞こえた。また、無垢な奴だってばかにされるかな。
「おまえが無事ならいい」
それは、人質が無傷じゃないと、交渉に不利だから?
いつのまに、両手をかたく握りしめていた。
「カヤって、誰?」
よく考えもせずに、言葉が勝手に出た。はっとして、熱くなる。コタローは怪訝な顔をした。
「そりゃ、おまえの名前だろ」
「ちがう。もう一人のカヤ。日本人の、私の知らないカヤのこと」
私、何を口走ってるんだろ。でも、止まらない。こんなつもりじゃなかったのに。
今すぐここから消えてしまいたくなった。でも、返事が聞きたくて動けなかった。コタローは戸惑った顔で「パイモンに聞いたのか」と言った。私は首をふった。
「あんたが言ったの。うなされながら。何度も何度も、カヤ、って言った。同じ名前だから……気になっただけ」
コタローは私を見ていた。コタローはずっと私を見ていた。なのに……はじめて、目をそらした。自分だって何度も目をそらしていたくせに、めちゃくちゃショックだった。でも、なんで? わからない。
「おまえには関係ない」
ああ、そっか。コタローにとって、私はただの人質。用が済んだら、もう関係のない、赤の他人。それがショックだったんだ。
「そろそろお邪魔していいかな?」
戸の向こうから、パイモンがおずおずと顔を出した。コタローがパイモンをにらんでいるあいだに、私はそっと涙をぬぐうことができた。
「おまえ、いつからいたんだよ」
「えっと、ずっといた」
「てめえ……」
「はいはい、ごはんですよー」
パイモンは両手と頭の上にお盆を乗っけてきて、それぞれの前に並べた。コタローには、どろりとしたおかゆ。私とパイモンには、生卵とごはんと納豆。げ、と思った。納豆なんて、食べたことがない。たしか、めちゃくちゃ好みが分かれるって聞いたけど……すでにおそろしげな異臭がぷんぷんしている。パイモンは笑った。
「そんな顔しないで、カヤちゃん。栄養満点だよ? コタロー君、お茶飲むかい?」
その日の朝ごはんは苦痛だった。納豆は最悪だったし、しかもパイモンはそこに生卵をブレンドした。「新鮮だからおいしいよ」なんて言われたけど、どちらも食べ物とは思えない。なのにコタローは普通の顔で「いいから食ってみろよ」なんてパイモンに同調した。もしかしてこいつら、二人とも悪魔なんじゃないの。
結局半分以上も食べ残してしまい、パイモンがぶつぶつ文句を言った。
「あーあ、もったいない。カヤちゃんがそんな人だとは思わなかった」
コタローはおかゆを食べ終え、パイモンに手を差し出した。
「くれ。おれが食う」
「だめだよ、コタロー君。君は病み上がりだろ」
「よく噛む」
パイモンは肩をすくめてコタローの前に私の盆を置いた。そして私をにらむ。
「お米の一粒には神様が七人もいるんだぜ」
「なによ、それ」
私はげんなりしてパイモンをにらんだ。また、日本のうんちく?
「お米に七人もいるなら、食べちゃダメじゃない」
「日本の神様は、全知全能のおかたい唯一神とはちがうんだよ」
パイモンはにこりと言った。
じゃあ、「神」の定義って何よ。
「ひと言で言えたら苦労しないよ」
パイモンはけらけら笑った。
コタローは何も言わずに納豆ごはんをかき込んでいる。あんな臭いものをぱくぱく食べるなんて、ちょっと信じられないんですけど。コタローは器用にお箸で最後の米粒を口に運ぶと、小さな声で「ごちそうさん」とつぶやいた。パイモンがにこにこしながら「おそまつさま」と返し、食器を片付ける。私は立ち上がった。
「お皿、洗うよ」
「いいんだよ、カヤちゃん。コタロー君に訊いておきなよ。自分と同じ名前の日本人のことが気になって気になって、食事中もそればっか考えちゃったから、どうか教えてくださいって」
身体がかっと熱くなった。コタローが「あち」と言って湯のみを落とす。
「あちらさんも動揺しておいでのようだ」
パイモンがくすくす笑い、ウインクした。
「がんばれ、カヤちゃん!」
だから、そんなんじゃないってのに!
……でも、じゃあ、これはどういうことなんだろう。
パイモンが食器を持って外へ出て行く。私はパイモンに借りた上着を脱ぎ、こぼれたお茶を拭いた。コタローが「一人で……」と言いかけたけれど、私は首をふった。
「傷、結構深かった。無理しないで」
コタローは口をつぐんで、私のしたいようにさせた。コタローのジーパンにも、お茶がかかっていた。
「熱くなかった?」
「あちーよ」
「やけどしてない?」
「あとでひりひりするかもな」
「ぬいだ方が……」
「いいって」
「でも」
「妹だ」
ぴたりと手がとまった。
顔を上げると、思ったよりも近くに、コタローの顔があった。急須から緑茶を注ぎ、ふーふーさまして、飲む。
「妹の名前と同じなんだ。それだけ」
「……そう、だったんだ」
急に、申し訳なさでいっぱいになった。いや、日本人というだけで、わかっていたはずだ。その人は……コタローが死の際でつぶやいた人は……ハルマゲドンで滅ぼされた、もういない人なんだ。
「ごめん」
コタローはもう一度湯のみをすすった。それから息をつき、私を見て、笑った。
どきりとした。
コタローって、こんなに優しい笑い方をするんだ。
「ありがとな。パイモンから聞いた。おまえが傷を縫ってくれたんだろ?」
「……うん」
「グロかったろ。血を見ても大丈夫だったか? あ、女だから、見慣れてるか」
ちょっと赤くなりながら、そうだよ、と言った。さすがに人の皮膚を縫い合わせるのは、慣れていないけれど。涙がぽたりと落ちた。コタローがだまり込む。
どうしよう。なんて思われてるだろう。急に泣き出したりして、恥ずかしい。
私は……。
「完全に治ったら、エデンの園に返す」
コタローが言った。
はっと顔を上げた。コタローは湯のみをじっと見つめて、私を見てくれなかった。
「すまなかった。ここまで巻き込むつもりはなかったんだ。ノームから人質をとればと……でも、あいつは死んだ。もう人質を取った意味もない。必ずおまえを元の居場所に返してやるから。もう少しだけ、待っててくれ」
「だけど私、パイモンと約束して……」
「それも聞いた。でも、おまえは何も知らないんだろ。奴が納得すれば、解放してくれる。そうしたら、おれが責任もっておまえをエデンに返す。はじめはノームについてあれこれ問いただされるだろうが、いずれおさまる。そしたら、おまえはもとのように、なんの心配もせずに楽しく暮らせ」
「……私は……」
「わかったな?」
コタローが私を見た。真っ黒な、吸い込まれそうな瞳で、私を見た。
「それって……迷子になるな、ってこと?」
声が妙に震えた。コタローはぴくりと眉を寄せたけれど、そうだ、と言った。
「当たり前だろ。迷子はちゃんと、安心できる家に送り届けられるべきだ」
それは、そう。誰だってそう思う。でも、それならコタローは? 私を送り返したあと、コタローはどこへ向かうの?
心がずんと重くなった。そうだよね。私は結局、エデンの信者で。何も知らなくて、ここでは部外者で。コタローの長い人生に、ほんの三日間、人質役として参加した、超わき役にすぎなくて。
「わかった」
私は言った。震えていない、しっかりした声が出た。
「じゃあ……待ってるから、はやく治して」
コタローはだまってうなずいた。私は顔をそむけ、コタローが湯のみを傾けるのを気配で感じていた。なんだかとても、むなしくて。かなしくて。やるせなかった。
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