♯夜の雨音

 湯島天満宮。

 かつてここには、そんな立派な名前がついていた。


 鎮座するのは天神、菅原道真公。祟りを恐れられ、祀りあげられた神である。その神霊は次々と分祀され、学業成就の神として、人々が続々と詣でては祈願した。


 日本の神とは不思議である。人間ですら神になる。そして、数えきれぬほど存在する神々もまた、西洋でいうところの「神」とはちがっていた。彼らは創造しない。完璧ではなく、愛があるとは限らない。彼らはただ、司っているのみだった。祈ればご利益を授かれるという、どちらかといえば俗っぽい信仰。


 しかし、終わりの日のキリスト教だって、似たようなものだ。偶像崇拝禁止とうたっているわりには、十字架やマリア像をせっせと拝み、聖人を認めて、この人は薬の、この人は音楽の、この人は自由恋愛の、と、それぞれに役割を与えて、熱心に祈っていたのである。そうすれば、ご利益を得られると信じて。


 なんてことはない、アミニズムとおんなじだ。唯一神など、根っこではほとんど誰も信じていない。俗っぽい願いさえ聞き入れてくれる相手がいればいいのである。人間は、根っこのところではみんな同じ。たいして信仰心など持っちゃいない。


 そんなふうに人間を誘導したのは、もちろん悪魔なのであるが。



 社務所も手水舎もとっくの昔に崩れ去り、本殿といくつかの鳥居だけが当時の面影を残しているこの神社は、知識の悪魔、パイモンのお気に入りだった。


 地上にエデンの外は数あれど、なかなかどうして学業にゆかりのある場所は居心地がいい。それに、菅原道真公の経歴が、輝かしくていいではないか。人間でさえ神になってお祀りされたのならば、自分だって神になれるような気がしないでもない。


 そりゃないか、とパイモンは自分で言って、くくくと笑う。彼は思う。あーあ、ほんとに、神が死ねばいいのになあ、と。



 パイモンは広々とした社殿の奥に寝転がって、両手を目の上に乗せ、女の言葉に耳を傾けていた。


 女の名前はカヤ、というらしい。

 女は27歳、であるらしい。

 女は怖がっている。これは本当。

 女は真実を話している、らしい。

 女は身の上話をしている、らしい。

 女はパイモンのためにだけ語っている。これは本当。


 女は言葉を紡ぐ。

 話し方がうまいとは言えない。要領も良くないし、ユーモアのひとつも交えて、相手を飽かせまいとするサービス精神もない。気の利かない女だ。きっと床下手だろうな。パイモンは聞きながら、ふとそんなことを考える。


 彼の仲間は人間とセックスをしたがらないのが多い。人間はなんといっても経験が足りない。相手をしたってこちらが萎えてしまうばかりだ、というのが、同じ悪魔連中たちの言い分だ。


 なるほど、それはわからないではない。人間の女だって、童貞を毛嫌いする連中がいる。しかし一方では、それを全く気に留めない女もいるのだ。パイモンはまさに、そんな女たちと同じだ。人間と寝るのにさほど抵抗はない。あどけなく、無知な人間を相手にするのは、一周まわって刺激的だ。


 それにしても、こういった時間はいつぶりだろう。女が話す。それを聞く。それだけの時間が、妙にじれったいとともに、なつかしい。まだ他者の心を見るのにためらいがあった頃。こんなふうに言葉だけを聞いて、それを信じようとした頃が、彼にもあったのだ。


 ――そう、あれはまだ、ノアが方舟を作りはじめる前だったな……。



 女が言葉を切った。えへん虫が聞こえ、しばらく待っていると、続きが来ない。パイモンは手をずらし、女を見た。

「なんでやめちゃうの?」


 女は飛び上がって謝罪した。あお向けに寝そべったまま身動きもしないパイモンが、眠り込んだと勘違いしたらしい。パイモンは頬杖をつき、にやりと笑った。

「寝たりしないよ。おれたち霊者は完璧なんだ。休む必要なんかないのさ」

「でも……」


 女は言いにくそうに足を組み替えた。目がしょぼついている。パイモンは外へ目を移した。とばりが落ち、迷子たちの寝静まる息が聞こえてきそうだった。

「ああ、ごめんごめん。カヤちゃんには睡眠と食事が必要だったね」

 パイモンは舌を出しながら立ち上がった。


 ――気がつかなかったな。

 いつもなら、人間の機微を読み取るのにそれほど苦労をしないのだが。理由は明白だ。この女からは思考しか聞き取れない。それも、集中しなければ右から左へ流れていくような、やたらすきとおった、読み取りにくい思考だ。


 いつでもためらいなく心の底までのぞきをしていたパイモンにとって、この女は薄気味悪いとさえ思えた。何も聞こえない、からっぽの女。嘘をついていたとしても、パイモンには見破るすべがない。


 女の思考はいくらでも聞こえてきた。しかし、胸に去来する感情など、鍛錬次第でどうとでもごまかせられる。たとえば、この女が本当は27歳ではなく、900歳ちかくだとすれば。たっぷり生きてきた時間で、心さえコントロールできたとしても、さほど驚きではない。


 心には通常隠しきれない「真実」が根を張っている。過去、性格、環境、遺伝上の性質。そうした「核」は、思考では隠しようがない。しかし、それらにベールをかけて覆い隠してしまったとすれば、真実は誰にもわからなくなる。


 神以外には。



 パイモンは不機嫌に鼻を鳴らすと、不安げに自分を伺う女に笑いかけ、言った。

「ごめんごめん、じゃ、ごはんを用意するよ。お腹すいたろ。あ、その前にお風呂に入った方がいいなあ」

 女は自分の身を顧みた。部屋のすみで寝ている男の血が、まだ顔や服にこびりついていた。服も用意してやらねばなるまい。そういった世話を焼くのは、きらいではない。


 パイモンは立ち上がり、おいで、と外へ案内した。女は疲れきっているのか、大人しくついてくる。かつての手水舎を横切り、宝物殿だった建物へいざなう。戸を引くと、水をたたえた風呂があった。手をちょんとつける。雨水をためた風呂桶には虫がうようよと泳いでいたが、パイモンがかき回すように手を揺らすと、濁りはすんで、見た目には問題なくなった。


 パイモンはにっこり笑って女をふり返った。

「さ、ここで身体を流すといい。おれは裏に回って火をつけてこよう。そこの棒でときどきかき回すんだよ、わかるかな」

 女は不安げな顔で、向こうからのぞけてしまいそうな小窓に目をやった。パイモンはにこっと笑った。

「おれがのぞくと思う? 人間の裸なんて、アダムとエバのを見飽きたよ」

 女はかっと赤くなり、素直にうなずいた。


 パイモンは外へ出て「ごゆっくり」とドアを閉め、裏に回った。火はすでについていた。パイモンは小窓からそっと中をのぞき見た。カヤ(という名前らしい女)が、こわばった腕をなんとかのばして、シャツを脱いだところだった。腕をもみ、ため息をついてしゃがみこむと、丸くなる。そのまま動かなくなった。


 ――はやく、下着も脱がないかな。

 パイモンは声をかけた。

「湯加減はどうだい?」

 女ははっとして顔を上げた。その時には、パイモンは窓から離れ、火をつけるふりをしていた。女は言われたとおりに棒で水をかきまぜ、手を差し入れて答えた。

「すごいよ。もう、ほとんどあったまってる」

 ――当たり前だろ。いちいち人間のやり方で水をあっためるかよ。

 パイモンはにこにこしながら大声で返した。

「そりゃよかった。早く入っちまいな!」

 パイモンは顔を上げないようにして、外から小窓を閉めた。立ち上がり、きびすを返して本殿へ戻る。


 迷子たちはパイモンが根城にしている神社には近寄らなかった。機嫌の悪い彼が手の付けられない状態になるとどうなるか、何度も見せて学ばせたからだ。


 人間は学ぶことができる。えらく記憶力は悪いが、一応のところ、知恵はある。

 ――だから、好きさ。


 パイモンは口笛を吹き、靴を脱いで本殿へ入った。すみの布団には傷を負ったコタローが寝ていた。しばらく目は覚めまい。そのあいだはカヤ(と言い張っている女)と二人きりというわけだ。


 反吐が出るな、とパイモンは思った。


 ノームを殺した女。

 ノームを殺したかもしれない女。

 ノームを殺すために利用された女。

 ノームを殺すために利用されたかもしれない女。


 どれにしたって、真実が明らかになる保証がない。保証がないのは不満ではない。知識とは時間をかけて立証されていくものだ。ただ、彼には時間がない。さしあたって、22年。だとすれば――知識を求めることに、なんの意味がある?


 彼は自分の考えに驚き、あわてて首をふった。ばかなことを。

 意味なんて、はじめからなかったではないか。



 カヤ(と名乗っている女)が風呂から上がると、きちんとたたまれた服が置いてあった。その上には清潔なタオルと化粧水が置かれ、「使ってね!」とメモがあった。女はいぶかしげに周囲を見回しながらも、急いで着替え、本殿へ戻った。戸を引くと、エプロン姿の悪魔が顔を上げ、白い歯を見せた。

「お帰りー。さあ、ごはんにしよっか」

 パイモンは白いお米を茶碗によそうと、女の膳に並べ、自分のためにもよそった。膳は部屋の真ん中に並べられ、コタローが寝ている反対側には、布団が二組、新たに敷かれている。


 女はおずおずと膳の前に座り、笑顔のパイモンを見た。

「どうも……ありがとう」

「お気になさらず。カヤちゃんには協力してもらってるからね。しっかり食べて、しっかり寝て、また明日もよろしく頼むよ」

 ウインクをして女の向かいに座り、手を合わす。

「はい、じゃあ、日本流にご挨拶」

「……えっと……『いただきます』?」

「よくできました」

 パイモンはにこにこしながら箸を取った。二人はだまって食べはじめた。女は疲れていたであろうし、パイモンは久しぶりの食事に感慨を覚えていた。


 炊きたての白米に、茄子のみそ汁、アジの開き、きんぴらごぼう、キュウリのお新香、だし巻き卵。お供に熱燗を一合用意してあるが、これはあとででいい。食事がすんだら、向かいに座る女に呑ませる予定でいた。どれも口に入れればそれなりに舌触りがよく、味は控えめで、香りがいい。

 ――まあ、たまには人間の真似をして食べるのも、悪くはないな。

 目を上げ、ひたすら飯を口に運ぶ女を見た。


「似合ってるね」

 パイモンが言うと、女は顔を上げて口の中のものを飲み込んだ。

「……何が?」

「パジャマ」

 用意してやったのは、濃い紺色のスウェットだった。女のブロンドによく映える。それに、寝心地もよかろうと思えた。少なくとも、この女はなかなか器量がいい。

「……ありがとう」

 女は短く答えた。


 人間というのは、相手が得体の知れない時、殻に閉じこもって一線を引きたがる。パイモンはその壁を、かりかりとスプーンで少しずつ掘り進めていくのが好きだ。


「仏教と神道から来ている言葉なんだ」

 パイモンが言うと、女は怪訝そうに、また目を上げた。

「何が?」

「『いただきます』と『ごちそうさま』はね、もともと仏教と神道の言葉なんだ」

 座り直して、パイモンは女を見る。心ののぞけない相手。その反応を楽しむのは、なかなか新鮮で面白い、と思えた。


「『いただきます』は、食べ物に対する感謝の言葉だ。『あなたの命をいただきます』。それから、『馳走』には『走り回る』という意味がある。『ごちそうさま』は、走り回って料理を作ってくれた人、調達してくれた人、一から育ててくれた人への感謝の言葉だ。対して、唯一神をあがめていた人間たちは食事の前になんと言ったか? 『神様ありがとう、アーメン』だ」

 女の顔が、なんと言えばいいのかわからないというようにかげった。

「おれは、日本人が好きだなあ」

 パイモンは笑い、みそ汁をすすった。


 女はふたたび食事に手をつけた。女が飲み下すのを待って、もう一度口を開く。

「この世で一番美しい女の名前を知ってるかい?」

 女は目をしばたいた。

「あ、ちなみに『カヤ』じゃないぜ」

「わ、わかってるわよ」

 女が赤らむ。なかなか可愛いじゃないか、と思う。まあ、『彼女』ほどではないが。

「えっと……サラ?」

「当たり」

 パイモンはにこやかに拍手をささげた。女が唇をとがらせる。

「誰でも知ってるわ」

 ――そう、聖書を知ってる奴ならね。


 パイモンはにやつきながらお新香を口に含み、肩をすくめた。

「アブラハムの妹にして妻。佇まいだけでふた財産を築くほどの美女だった。サムソンも、ひと目サラを拝んでおけば、デリラにだまされることはなかっただろうに」

「それで、サラがいったい、なんなのよ?」

 パイモンは目をしばたいて女を見返した。女は顔をしかめている。

「別に。この世で一番の美女の名を確認しただけ」

「……それだけ?」

「ああ。いい名前だろ? サラ」


 ――そう、『彼女』もサラという名前だった。

 パイモンはみそ汁をすすりながら昔をなつかしんだ。

 ――でも、あいつは絶世の美女とは言い難かったな。


 苦笑いが出た。黒い髪はひっつめて、いつもあくせく働いているから、おでこがぴかぴかに光っていた。他の女たちに比べて背が低く、ずんぐりした体つきは安産型で、ウエストなんて言葉がなかった当時でも、つい笑ってしまったっけ。

 それでも、彼女の笑顔は素敵だったな。ころころと笑う声は、どんな美しい音色を出す楽器にも劣らなかった。怒ってパイモンをにらみつけ、目に涙を浮かべる顔は、鼻が真っ赤で、ブサイクで。

 いとおしかった。


「ごちそうさまでした」

 声がして、パイモンはハッとした。見ると、女が立ち上がっている。

「もう寝るね」

「……ああ、そうだね。お疲れさん」

 女は二組敷かれた布団のひとつをつかむと、そのまま引っぱっていき、遠く離して潜り込んだ。パイモンは待たせていた熱燗を見おろした。


 ――酔わせて、処女を奪ってやろうと思ったのにな。

 まあいいか、と肩をすくめ、パイモンはおちょこに注いで酒をあおいだ。


 明日もある。

 明後日も、明々後日も。

 今はサラの思い出に身を任せよう、とパイモンは考え、かすかに笑みを浮かべた。




 はじめてパイモンが地上に降り立とうとしたとき、彼の友人であり、仲間だったラジエルは、彼を引き止めた。

「いったい何を考えてるの?」


 ラジエルはいい奴だった。赤毛の女の格好をしていて、知っていることをなんでも書き留めた。彼も当時は天使だったので、知り得たことを彼女と共有するのが喜びだった。数えきれないほどの天使たちが、それぞれ自分の得意を駆使して神を助ける。パイモンとラジエルの得意は、好奇心だった。彼らはなんでも調べ、知識を収集し、体系化した。


 しかし、パイモンとラジエルには、知識の質において異なる信念があった。ラジエルは、知識とは概念さえおさえていれば充分習得したことになる、と考えていた。パイモンはちがった。彼はその知識が形成された因果関係から知りたがった。実利を知り、現実を知り、においを知り、感触を知り、総合的に知らねば満足しなかった。


 形骸化した言葉の羅列に意味はない。知識とは、体験のもとで血となり肉となる。


 であるから、天使たちのあいだで、地上の女をめとろうという悪魔のささやきが流布されたとき。彼はいの一番に「行かなきゃ」と言い出した。


「人間の女と寝るんだ」

 彼は言った。

「するとどうなるか、わかるか?」

 ラジエルは答えなかった。もちろん知っていたはずだが、口に出さなかった。

「子どもが生まれるんだ」

 パイモンは言った。

 ささやかに。

 おごそかに。

 ひそやかに。


 ラジエルの目が醜くゆがみ、涙がたまった。

「あんた、悪魔になりたいの?」

「きっと、神は許してくださるさ」

 パイモンは人差し指を立ててしーっと笑った。

「おれたちは人間とはちがうんだ。完璧なんだから。ひととおりすませたら、ちゃんと謝る。神は許してくださるよ」


 ラジエルは背を向けた。それから、二人が知識を共有することは二度となかった。彼女はその後も、知識の天使として、神のもとでよく働いているらしい。

 知識として、知っている。




「カヤちゃんは、終わりの日の映画を観たことないだろ?」

 朝食を食べつつ、またもやパイモンは女に話しかけて、相手はげんなりとパンを置いた。今朝の献立は洋風だ。食パンにバターとジャム。スクランブルエッグとベーコンもついている。


「映画なら、観たことあるわ」

「いや、ないね。カヤちゃんが観たことあるのは、ハルマゲドンのあとに作られた映画だ。終わりの日に撮られた映画は残っていないよ。堕落した本や漫画や音楽は、ハルマゲドンで滅ぼされたんだから。残っているのは聖書くらいだ」

 女は、そうかもしれない、と肩をすくめた。

「でも、千年前の創作物なんて、興味もないわ。どう考えたって、最新の作品の方が洗練されてるに決まってる」

「いいねえ、その暴論ぶり。若者らしくて」

 パイモンはニヤニヤしながらバターナイフを回した。彼は今日も、女と一緒に食事をとっていた。コタローは相変わらず、目を覚まさない。


「でも、おれは映画が好きだな。人間の撮る映画は、なかなかよくできていたよ」

「ふうん」

「役者も上手くてね。作品によってカメレオンみたいに変身する人間もいれば、下手すぎていつも同じような演技しかしない大根もいたけど」

「でも、腐敗したテーマだったんでしょう?」

 眉間にしわを寄せてパイモンをうかがい見る女は、寝癖に気づいていなかった。パイモンはフフフと笑って、肩をすくめた。

「ある映画で、恋人たちが、男と女について語るシーンがあってね」

 パイモンはオレンジの皮をむきながら、思い出し笑いをした。


「女が言うんだ。聖書には、神は自分に似せて男を作ったと書いてある。だが、そんなの間違ってる。男はどう考えても、悪魔に似せて作られている。なぜなら、聖人君子みたいな男と寝たってつまらないだけだから。でも、女は妊娠する。それは創造だ。つまり、女は神に似せて作られている。男と女が結婚して一緒に暮らすのは、神様と悪魔が仲良く暮らすってことなんだ、って」


 パイモンはにこにこしながら反応を待った。女はしばらく考えた末、肩をすくめて言った。

「やっぱり、腐敗してるわ」

 パイモンは声を立てて笑った。



 パイモンは数種類の服を用意しておいた。女が好きなのを選べるように。

「私の服は?」

 不安げに聞く女に、パイモンは首をかしげた。

「洗っておいたけど、あれ、ノースリーブだぜ。寒いだろ」

「上着を借りる」

 女は深緑色のカーディガンを選びとり、パイモンを見た。

「私の服、どこ?」

 それでパイモンは彼女に服を返した。着替えたあと、女は再びパイモンに身の上話の続きをはじめた。それが彼女を生かす、パイモンの条件であったから。




 人間は動物よりも賢い。神は人間に、動物を従わせるよう命じた。人間は動物よりも、ある点で弱い。賢い故に、彼らよりも強くある必要がなかったのだ。

 人間には牙も、するどい爪も、あたたかな毛皮も、強靭な筋肉も、俊敏な動きもない。しかし、彼らには知恵がある。人間は動物よりも弱かったが、動物よりもえらかった。


 霊者は人間よりも完璧だ。神は霊者に、人間を導くよう命じた。霊者は人間よりも、ある点で弱い。完璧な故に、子孫を残す必要がなかったのだ。

 霊者は死なない。完璧だからこそ、生殖能力で人間に劣る。しかし、彼らには知恵がある。霊者は子孫を残せなかったが、人間よりもえらかった。



 人間と寝れば、自分の半分を受け継いだ子どもが生まれるという。それは本当なのか。本当ならば、子どもを残すとはどんなものなのか。それは言われているように、幸福で、愛があり、喜びに満ちたものなのだろうか。自分の半分。それが他の身体から生まれでるとは、どんな気分がするのだろう。


 知識にとり付かれた天使が、これを試さないわけがなかった。パイモンは地上に降りていって、人間の姿をとり、適当な娘と結婚した。それがサラだった。




 丸一日が過ぎ、二度目の夜が来た。コタローはまだ目覚めなかった。女の語る身の上話は、彼女が十二歳で、そろそろ生理がはじまろうという日まできた。早いな、とパイモンは思った。十二年間を一日で語り尽くせるはずがない。おそらく、抜けている箇所がある。


 それに関しては不思議ではない。人間は驚くほど、記憶があやふやなのだ。特に、生まれて数年はほとんど何も覚えていないと言っていい。勘違いと思い込みで、記憶はいとも簡単に客観性を失う。


 しかし、十二歳から先なら、ある程度は記憶も鮮明になってくるだろう。長くなるのはこれからになりそうだ、とパイモンは考えた。それでその夜も、疲れきったカヤには酒を与えなかった。


 彼は眠る必要がなかったので、カヤが寝静まると、コタローの布団の横にあぐらをかいて、眠り続ける男を見おろした。

「君も不思議な人だねえ、コタロー君」

 パイモンは彼の汗ばむ額から髪をかき分けてやりながら、頭をのぞいた。そして笑った。

 ――人間て、面白い。


 彼はコタローの手を取って、彼に食事の代わりを与えた。それから、漏れ出る前に、下の世話をすませた。血の巡りをよくするために、あお向けにした。


 こうした世話は、女の見ていないあいだにしておきたかった。人間とは、昏睡しているあいだ、そっとしておいても平気なのだと、思わせておきたかった。自分を恐れさせたままにしておきたかった。ある程度は無知である方が、人間は可愛いものだ。

 聡明すぎると――あまりにも完璧に近すぎると、可愛がってはもらえない。パイモンの子どもたちが、神に可愛がってもらえなかったように。




 彼は幸せだった。彼は夫で、そして父だった。

 父。

 その称号が霊者にとってどれほど衝撃的か、身体を持つ者には決して理解し得ないだろう。


 当時の人間は長生きだった。彼がサラと過ごした月日は五百年ほど。はじめはなかなか子宝に恵まれなかった。彼と同じ、人間に化けた霊者はほとんどそうだ。しかし、百年経つと、しだいに人間の女たちはその腹を膨らませるようになった。サラもまた、その一人だった。


 陣痛に苦しむ妻を、誰より慌てふためいて心配したのはパイモンだった。後から考えると、なぜあれごときでと苦笑する。彼は産みの苦しみを知っていたのに。しかし、その時は本当に怖かったのだ。あまりにも苦しむサラが、死んでしまうのではと怖かった。悪魔の子を宿した妻が、罪をかぶって死んでしまうのではと、怖かった。

 彼女はやり遂げた。その後、サラはパイモンのために、子を七人も産んだ。



「あなたは、本当に不思議な人ね」

 サラは言った。朝焼けの中、寒さに耐えるためには、ベッドの中で二人が引っ付き合うのが一番よかった。パイモンはサラの首筋にキスをして、少し離れて彼女の茶色の瞳を見つめた。

「なにが?」

「他の人とちがう」

 パイモンは謎めいた笑みを浮かべた。彼はいつもそうした。

「おれはみんなと同じだよ。何も変わらない」

「いいえ、ちがうわ……ちがうと思う」


 彼女は何も知らなかった。彼と、彼の血を分けた子どもたちがどういう存在であったのかを。しかし、当時地上に降りた霊者は彼だけではなかった。だから彼一人が目立っていたわけではない。


 彼はサラの鼻を押し、上へ引っぱって「ブサイク」と言って笑った。彼女は怒ったふりをしながら、くすくす笑っていた。

「でも、本当にちがうの」

「何がどうちがうのかな? おれにわかりやすく言ってみたまえ」

 パイモンはからかった。彼は地上にいるどんな論客にも負けたことがない。サラは頬をふくらませてパイモンを上目遣いに睨んだ。

「意地悪ね。あなたみたいに上手く言えたりしないわよ。あなたが私の心の中をのぞいて、こうだって言い当ててもらいたいくらいだわ」

 パイモンはにっこりと笑った。そしてサラの額にキスをし、彼女を抱きしめた。


「もしそんなことができたとしても、君の心はのぞいたりしないよ」

「あら、どうして? 私だったら、あなたの心の中をのぞいてみたいわ。何考えてるのか、ちっともわからないんだもの」

 パイモンはくすくす笑った。

「わかるわけないさ」

 人間に彼の叡智が理解しきれるはずはなかった。彼はとても賢かった。そして彼の子どもたちもまた、賢かった。



 霊者たちの子どもは、天使とちがって神を愛さなかった。神への愛を知らずに、霊者と同じような賢さを得てしまった。それで彼らは言った。


 神はもう、必要ないのではないのか、と。人間は神がおらずとも、道徳的で、正しく、知的に生きることができるのではないか。それこそが神の望んだ「人間の自立」ではないか、と。


 その言葉は論理だっており、大人でさえも――ときには、親である天使でさえも――説得させられるものがあった。


 霊者たちの大半は、神に背を向けて地上に降りたわけではなかった。子孫を残すという可能性に、好奇心をくすぐられた者が大半だった。しかし、子らの言葉を聞いて、彼らは疑問を抱きはじめた。無邪気で、固定概念のない、理路整然とした言葉に揺れた。


 そして、神は。

 雨を降らせた。




「あーあ」

 彼はつぶやいた。

「ほんとに、神が死んでくれればなあ」

 小さな、小さな声だった。彼は思い出していた。サラを連れて、山の上まで歩いていったときのこと。子どもたちにはすでに家庭があった。自分の身は自分で守れと言い残し、彼はサラを励ましながら、山を登った。




「大丈夫だ、サラ」

 彼は何度も言った。

「地上に、あの山を覆えるほどの水は存在しないんだ。だから、がんばれ。もうちょっとだ」

「パイモン……私、何も見えない……」

「大丈夫。おれの言う通りに歩け。右足を、もっと前へ出して。もう少し。そうだ」


 夜だった。空は雨雲で覆われ、のべつしまなく雨粒が落ち続ける。


 パイモンには人間に見えない夜道も見えていた。たとえ見えずとも、彼はサラを連れて山道を登ることができただろう。岩の位置、道の有無、山の高低。知識の天使だった彼は、総てを知り尽くしていた。


「パイモン……寒いわ」

 パイモンはサラの額に触れた。冷たい。人間の体温ではなかった。雨に打たれ、サラは衰弱していた。

「サラ、しっかりしろ。あっちに洞窟があったはずだ。少しなら休める。そのあとは水位が上がるから、また歩くよ」

「……パイモン」

「なんだい」

「あなたは……なんでも、知っているのね」

 パイモンは笑ってごまかした。ここですべてを白状するつもりはなかった。彼は彼女と生き残るのだ。いや――彼女を、生き残らせるのだ。


 洞窟で、二人は身を寄せ合った。彼は知識を総動員して彼女を温めた。彼女が安心するまで。生きる希望を再び持てるまで。

「神様が、お怒りになったのね」

 サラは言った。か細い声だった。


 パイモンは何も言えなかった。なぜ、神がこんなことをするのか……心の底では分かっていた。しかし、認めたくはなかった。認めたら、神の行為さえも認めてしまう気がして。それだけは、できなかった。こんな行いだけは、容認できなかった。人間を、その手で直接殺すなんて。

 それは神にとって、はじめて「人間を滅ぼす」行いだった。その行いは、そのあと6千年かけてくり返されることになるが、当時のパイモンはまだ知らない。


「ねえ、あなたがどう人とちがうのか、分かった気がする」

 パイモンの腕に抱かれたサラが、小さな声で言った。くすくす笑って、その声はとても楽しげで。パイモンは、思わず泣きながら笑っていた。

「なに?」

「あなたはね、パイモン。神様に憧れているのよ」

 彼は言葉を失った。そして、笑って首をふった。


「そうかな。おれは――罪を犯したよ。許されないような罪を。しかも、その罪を悔いていない。これでよかったと思っている。今はほんとに――君に会えたことが、子どもたちが、おれのすべてだ」


 地上に降り立つ前の彼は、知らなかったのだ。家族を持つということが。父になるということが。妻と子どもを愛すということが、どんな意味を持っているのか。言葉では知りつつも、実際には何も知らなかった。


「それでも、あなたは神様に焦がれているの」

 サラはにっこりと言った。

「あなたはね、たとえどんなに神様を憎んだとしても、本当に死なれたら困るのよ。だって、神様はあなたの目標で、希望そのものなんだから。あなたは子どもたちと自立について語り合っていたけれど……本当は、神様が大好きなの。いなくなったら、誰よりも嘆いてしまうの。そういう人なの、あなたは。パイモン」


 洞窟の、ほんの先まで水があふれていた。彼はサラを抱きしめた。神の全能を、彼は知っていた。知っていたから、本当は分かっていた。彼女はここで死ぬのだと。


「サラ……」

「あなたは……他の誰よりも、神様みたいになりたくて仕方なくて……神様を愛してるの。私への愛よりも、神様への愛のほうが、大きいくらい」

「サラ、おれには、君よりも愛してる奴なんかいない」

 サラはほほ笑んだ。

「うれしいわ」

「本当だよ。おれは本当に……」

「うん。うん、いいの。パイモン」

 彼女はパイモンの頬に手を伸ばし、キスをした。雨音が、二人の足元を浸した。

「私も、あなたを愛してる」




 彼はあぐらをかき、じっと、トーキョーに朝が来るのを待っていた。


 ――ああ、本当に。

 ――むかつく。


 カヤ(と自分では思っている女)が起きたら続きを聞こう、とパイモンは思った。朝ごはんの前に2時間は聞いて、そのあと昼飯までずっと聞いて、それから夜まで切れ目なく聞き出して、今度こそ処女を奪ってやる。


 そうでもしないと、腹の虫がおさまらない。この、眠りもしなければ食べなくともぴんぴんしている、完璧な霊者の身体が、むかついて仕方がない。



 殺すならさっさと殺せ。22年も待たせるな。

 はやく、サラと同じ場所に行かせてくれ。



 パイモンは苛立たしげに立ち上がった。そして「あ」と声を出した。

 朝の光が本殿に差し込んだ。コタローが目を開けて、天井を見上げていた。

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