◎縫合

 エンジンが止まった。運転席のパイモンがこちらをのぞき込み、にっと笑った。

「まだ生きてる?」

 私は後部座席でこくりとうなずいた。私のひざに頭を乗せて、コタローが寝ていた。全身汗びっしょりになって、ときどき苦しげに咳き込む。


「はやく助けてあげて」

「まあまあ。あせっちゃいけないよ。自然療法でいこう」

 パイモンは車から降りると、ドアを開け、コタローを引きずり出した。

「乱暴にしないでよ!」

「うるさいなあ。気にかかるならちゃんとついといで」

 パイモンはコタローを背負って、すたすたと歩き出す。急いでシートベルトを外し、開きっぱなしのドアから外へ出た。はっとして、身がすくむ。車からの景色で、ちらほらと人がいるのは分かっていた。でも、実際地に足をつけると、そこにいた人間たち――迷子たちが、現実だという実感がおそいかかる。


 パイモンは石段をのぼりはじめた。ぐったりしたコタローを背負っているのに、軽々と足を運ぶ。黒いシャツは闇よりも濃かった。私もあわてて後を追う。


 パイモンが適当にみつくろって動かした車には迷子たちが群がり、誰が運転席に陣取るかでケンカがはじまった。

「愉快な連中だろ」

 私がおびえてパイモンのとなりを歩くと、悪魔は笑ってコタローを背負い直した。

「この辺で暮らすには、車は必須なんだ。ときどきああやって補充してやんのさ」

「あの人たち、なんであんなにあせってるの? 順番を決めればいいのに」

「カヤちゃん、君は面白いね」

 パイモンは足を止めてフフフと笑った。

「とっても面白い。人間って、バカで間抜けで、おれは好きだよ」


 私は唇をかんだ。視線を外して、コタローを見る。肩にはパイモンの上着が縛りつけられていた。真っ白なジャケットは、今では赤黒いしみでまだらになっている。しかし、悪魔は気にならないようだった。千年前の車を動かすことができるのだから、服の一着くらい、どうとでもなるのだろう。


 石段を上りきると、立派な木の建物があった。柱や梁がむきだしになっていて、瓦屋根が曲線を描く、日本らしい伝統建築。庭のあちこちに、小さなトリイがいくつか建っている。


「ここは……」

「知ってるかな? そう、ここは神社だ。わりと有名な神様が祀られていたんだぜ。学業成就の。知識の悪魔が根城にするのに、ぴったりだろ」

 ひひひと笑って、パイモンは建物を回り込んだ。私たちがのぼってきた石段は裏手に通じていたらしい。パイモンは建物の前で靴を脱ぎ、私にも脱げと言った。

「日本でのマナーだ。家の中では靴を脱げ。でないとコタローに怒られちゃうぞ」

 パイモンはひひっと笑って、付け加えた。

「とっても貴重な、日本人の生き残りなんだからな」


 戸を引くと、がらんどうが広がっていた。床はタタミと呼ばれるやわらかい素材で、特徴的な香りがする。奥に書き物机がひとつと、引き出しが三つだけの小さな桐ダンス、たたまれた布団が一組あるきりで、生活感はなかった。


「さて、コタロー坊ちゃんにはここに寝てもらうか。カヤちゃん、布団しいて」

 私はたたまれている布団を広げた。ちらっと部屋を見渡して、困惑する。

「ベッドは?」

「だから靴を脱げって言ったろ。ベッドはいらないの。ほら、掛け布団どけてよ」

 私はあわてて布団をめくり、パイモンがコタローを横たえるのを、はらはらしながら見守った。パイモンはコタローを下ろすと盛大に息をつき、私のとなりにあぐらをかいて、にやっと笑った。


「ひと仕事して疲れちゃったねえ。景気付けにおれと一発、イイコトしない?」

「私の知ってることなら、なんでも話すって言ったでしょ。その代わり、コタローを助けるって約束だよ。このままじゃ、死んじゃわない?」

 パイモンはやれやれと首をふってコタローをのぞき込み、ふーむと言った。

「ま、死ぬかもな」

「ちょっと!」

「このまま放置したらの話だ。そうはならない。約束したからな」

 パイモンはコタローのおでこに手を当てた。苦しげだった息が落ち着いていき、寝ている子どものように一定のリズムを刻む。


「……治った?」

「傷口を縫わないとなあ」

 ぎょっとした。縫うって……服を作るみたいに?

「ああ、そうだ。カヤちゃんは服作りが得意だったよね。おれの代わりに縫ってよ」

「縫うって、その……皮膚を?」

「そうそう。終わりの日の医者はそうやって治したんだぜ? ちょっと待ってな。裁縫道具はどこにあったかなあ」

 パイモンはよっこらせと立ち上がり、桐ダンスを開け閉めして探しはじめた。

「おー、あったあった。針と、うーん、糸がないな。仕方ない」


 パイモンはコタローの寝ている布団をまさぐると、ぴーっと糸を抜き出した。それを口にくわえ、端から端まで湿らせて、針穴に通す。それから針をつまみ、半円になるようにぐっと曲げた。にこにこしながら私に差しだすその顔は、お話をせがんでいる子どもみたいだった。


「さ、得意のお裁縫を見せてよ」

「れ、霊者の力でなんとかならないの? 縫うなんて、そんな……」

「尻込みしてんの?」

 パイモンが笑う。とっさに、何も答えられなかった。


 エデンの園でも、人間だって時にはケガをする。しかし、その場合は守護者に助けを求めればよかった。彼らは祈り、痛みの少ない方法でケガを治してくれた。霊者は人間よりも、できることがたくさんある。人間が動物よりも、できることがたくさんあるのと同じだ。


「おれが神に祈る天使に見えるか? できることは自分でやんな。おれはこいつの命をつなぐ、おまえはこいつの傷を縫う。いい話じゃないの」

「それは……そうだけど」

 震える指で、パイモンから針を受け取った。

「どうして、曲げたの」

「手術用の針は曲がってるもんだ」

 パイモンはにこにこしながら言った。コタローの身体の下に手を入れて、うつぶせにする。傷は背中にかけて伸びていた。


 心臓がざわめく。コタローに向き直って、つばを飲み込んだ。大丈夫だ、昔の人間だってやっていた。私にだって、できる……。


「コタローを助けたいんだろ?」

 パイモンが私のうしろに回り込み、耳元でささやいた。

「君も不思議な人だねえ、カヤちゃん。そもそもこいつに拉致されたくせに、すっかり同情しちゃってさ。自分がおかしいとは思わないのか?」

「そんなこと、言ってる場合じゃない。だって、死にそうになってるのに」

「へえ? 善きサマリア人のつもり?」

 パイモンはくすくす笑った。

「そんなこと言って、本当は、そいつを愛しはじめてるんじゃないのか?」


 びくりとした。パイモンがけらけら笑う。

「あーあ、ガルが知ったらどう思うか。婚約者が、まさかこんな小汚い迷子と……」

「そんなんじゃ、ないっ!」

 ぱっとふり返ると、誰もいなかった。パイモンはコタローの向こう側に座り、肩を縛ったジャケットをほどいていた。


「そら、さっさと縫え。死なせたくなかったらな」

 からかわれたようで、腹が立つ。そういえば、はじめはコタローもそうだったな。私をからかって、バカにして。でも……そこにはどこか、親しみがあった。この悪魔よりもずっと、人間らしい響きがあったんだ。


 パイモンは部屋の奥から酒瓶を出してきて、口に含むとコタローの傷口に吹きかけた。口を拭い、「これで消毒はオーケー」と笑って、改めて傷口の血を拭き取る。肩から背中にかけて、長い切り傷が伸びていた。血は止まっている。それでも、肉が分断され、見ているだけで痛々しい。


 コタローの背に手をかける。じとっとして、熱い。風邪を引いた子どもみたいだ。だけど、状況はもっときわどい。ひるんでいる場合じゃなかった。


 円形に曲げられた針を、コタローの肉に通す。びくっと身体が震える。ひやりとしながら、傷口の反対側にも針を通した。自分の息があらくなっているのがわかる。大丈夫だ、落ち着け。私は助けようとしているんだから。


「そうそう、うまいじゃん」

 パイモンの声がのどかに響く。


 私は無心で傷口を縫い続けた。針を通すと、肉がぶよぶよと引っぱられる。針は丸くて扱いづらかった。しかし確かに、布とちがって寄り合わせることができないから、半円状になっているのはありがたい。白い糸は真っ赤になっていた。糸を通し、肉を重ねあわせる。ぴんと張ったら、次へ。


 コタローが気絶していてよかった。意識があったら、どんなに痛かっただろう。私なんて、ちょっと針を刺しただけで涙目になるのに。


 最後に玉結びを作ると、パイモンが小さなはさみを差し出した。ぱちんと切って尻餅をつき、はあっと息をついた。

「お疲れ。なかなかすじがいいよ。はじめて人間を縫ったにしては」

 パイモンはジャケットの汚れていない部分を切り取ってガーゼにし、傷口に当ててテープでとめた。はさみもテープも、いつのまにあったんだろう。


「とりあえずこれで治るだろうな。おれのツバ入り焼酎で感染症も防いだし。コタロー坊ちゃんにはしばらく休んでいてもらおう」

 パイモンは布団を丸めてコタローの肩の下にあてた。私は額の汗をぬぐい、眠り続けるコタローをのぞき込んだ。まだ汗をかいているけれど、生きている。


 生きている。


「あ」

 パイモンがつぶやく。はっとした。

「何?」

「うなされてる。いや……寝言か」

 パイモンはじっとコタローを見おろしていた。頭の中をのぞいて、コタローの夢を見ているのかもしれない。


「カヤ……」

 びくっと、コタローを見た。

「カヤ……」

 コタローが小さな声でつぶやき、私の知らない言葉で何かを言った。日本語で、何かを。何度も、何度も、つぶやき続けている。やがて咳き込んだかと思うと、はあっと息をして、再び規則的な呼吸に戻った。


 わけが分からなかった。頭が真っ白。なんで……なんで、私の名前を呼ぶの?


「気になる?」

 パイモンがにやついた。コタローの前髪をなで、自分の子どもみたいに微笑みながら、私を上目遣いに見やる。

「私は……別に……」

「おや、うれしくないの? コタロー君が生死の境につぶやくのが、君の名前なんだぜ?」

「私は……」

 立ち上がり、あとずさった。パイモンは、なんでも分かっていますとも、という顔でにこにこしている。実際、この悪魔はなんでも分かっている。人の頭をのぞいてるんだから。


「……迷惑だわ。私には……婚約者がいるから」

「カヤちゃん、どこ行くの?」

「私は……トイレに……」

「そこ出て左の、小さな建物だよ。靴ははいていきな」

「……ありがとう」

 逃げられないのは分かってる。相手は悪魔だ。何もかも、お見通し。

「カヤちゃん」

「……何?」

 ふり返ると、パイモンはコタローのとなりに寝て、コタローの背中をぽんぽん叩いていた。


「君の名前じゃないよ」

 パイモンは歯を見せずに笑っていた。一瞬、言われた意味が分からなかった。

「……え?」

「『カヤ』っていうのは、日本人にもよくある名前だったんだ。安心しなよ。コタローが生死の境でつぶやいたのは、君の名前じゃない」

 かっと顔が熱くなった。ほっとすればいいのに、泣きそうになっている。そんな自分自身に驚いた。パイモンはにやりと笑ってウインクした。

「まだまだこれからだよ、カヤちゃん」


 トイレがあると言われた建物は本当に小さかった。というか、トイレしかない建物だった。かかとのない布製のサンダルがちょこんと置かれ、エデンの外とは思えないほど清潔だった。


 靴ははいていけって言われたけど、このサンダルはどうしたらいいんだろう? とりあえず、無視して用を足した。身体がぶるっと震え、肩を抱く。


 あの悪魔は目の前でコバを殺した。でも、コタローを助けてくれた。狙いは私の記憶だ。もしも知っていることを全部話したら……私とコタローは、もう用済みなのだろうか? 殺したコバに向かって、用がない、と言ったように。


 ――もういらない。全部見た。おれ以外は誰も知らない。誰も。

 ――神以外は。


 神を殺す、と言ったパイモンに、コタローは拍子抜けしていた。何を言ってんだ、って顔。そんな大それたこと、可能だとでも思っているのか、って。


 コタローはバカにしているわけじゃなかった。呆れているわけでもなさそうだった。ただ、悲しげだった。そう言えたらどんなに楽か、と、うらやましがっているようで。パイモンはどこまで本気で言ってるんだろう? 無理だって、わかっているはずなのに。


 どんなに反抗しようと、どんなに自由を夢見ようと、本当はわかってる。かなう相手じゃない。アリがゾウに挑むようなものだ。それも一匹のアリが、大群のゾウを相手にするようなもの。絶対すぎる力を前にして、できることなんか何もない。


 涙が頬を伝って、あわててぬぐった。頬にまだコタローの血がこびりついている。コタローはあのあとしばらくして、意識を失った。出血多量だな、とパイモンが言って、私に持ちかけたんだ。こいつを助けてやるから、おまえも約束しろ。おれに知ってることを全部話せ、と。


 トイレを流し、重い足どりで社に戻った。


 逃げようか。コタローなんか見捨てて。だけど、そのあとは?


 靴を脱いで階段を上がり、戸を引いた。パイモンは書き物机の前にあぐらをかいて、私を待っていた。羽ペンで耳の中をくすぐりながら、にこりと笑う。

「えらいえらい。逃げなかったな」

「……ちょっと、逃げることも考えた」

「うんうん。表層的に考えてることは聞こえるよ。でも、それ以外は相変わらず見えないな。話してよ、カヤちゃん。全部話したら、これを使わせてあげよう」

 パイモンは胸ポケットから、手の平サイズの箱を取り出した。銀色で、パソコンに似ている。


「スマホっていってね。終わりの日の人間が愛していた、ちっちゃなインターネット端末だよ。電話にもなる。メッセージを送りたい人がいるだろ? 家族とか、婚約者とか、それに」

 にやりと笑って、スマホを胸ポケットにしまい込む。

「守護者の家にも、かけられる」

「……」

「さあ、そこに座って。生まれから順に話してよ」

「生まれ? ノームの死んだ状況が知りたいんでしょ?」

「それはそれ、これはこれ」

 羽ペンをゆっくりと私に向けて、パイモンは夢見るように言った。


「君が選ばれた理由が知りたい。ノームを殺すために、誰かが利用した理由がね。君がたまたま近くを通りかかっただけかもしれないし、コタローが君をエデンの外に連れ出すと、分かっていたやつがいたのかもしれない」

「どういうこと?」

「あまりにもできすぎているんだよ。君が今ここにいることがさ」

 パイモンは笑った。


「本当なら、ノームが死んだあと、君はすぐに天使によって保護されるべきだったんだ。おれみたいな悪魔がかっさらわないようにね。それを、何も知らない迷子がたまたまバスジャックして、たまたま乗り合わせていて、たまたまエデンの外に連れ出された。そしてたまたま、おれが君を見つけた。ま、君のことは誰よりはやく気づいたから、血眼で探してたんだけどさ。それにしても、ずいぶん計画的なにおいがするとは思わないか。偶然にしちゃ、ご都合主義的だろ」


「私は……じゃあ、誰に……」

 はっとした。パイモンがかすかな笑みをたたえて、私をじっと見つめている。心をさぐっているんだ。私が真実を知っているのではないかと、疑っている。

「さあね。君を利用してノームを殺したやつかもしれないし……君の心にベールをかけた、誰かさんかもしれないな」

 身がすくんだ。パイモンがそう疑っているのは……神、でしょう?


 コタローをちらりと見た。相変わらず眠り続けている。いつ目をさますのかはわからない。一時間後? それとも、一週間後?


「さあ、カヤちゃん。集中して」

 パイモンは背筋を伸ばし、満足そうに私を見つめた。

「話してくれ。一番古い記憶から。家族構成や仲の良かった友達、会ったことのある天使の名前、好きなもの、嫌いなもの、苦手な人、大好きな人。全部知りたい。君の半生を、すっかりおれに話してくれよ」

「……話し終わったら」

 私はこぶしを握りしめていた。

「……生きて、帰してくれる? 私と……コタローを」

「確約はできない。ノームの死に方がわかったあと、君を殺したほうがいいと判断するかもしれないからね」

 パイモンはちょっとだけ首をかしげた。

「それでもいいかな?」

 私はうなずいた。約束は約束だ。


 息をつき、ぽつりぽつり、話しはじめた。パイモンはじっとだまって、私の話に耳を傾けた。幸せそうに耳をそばだてて、少しずつ私を知っていった。彼は知識の悪魔だから。何かを知るのがうれしくて仕方ないんだと、私には分かった。

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